鍼灸医学の懐

黄帝内経の意訳と解説 最後に原文と読み下しを記しています。

經絡論篇第五十七.



 本篇は、前篇『皮部論篇』の続編であるように感じる。

 筆者の感覚では、例えば手足を診た時、経絡別に五色が現れているとは認識できない。

 しかし、顔面の気色だけでなく体幹部や四肢が現す色は、大変重要と感じている。

 本篇で取るべきところは、四時陰陽の盛衰によって様々に変化する色艶の、常と変を噛分けることの重要性であると筆者は考えている。



原 文 意 訳 

 黄帝が問うて申された。体表に現れる浅い絡脉の色は、青、黄、赤、白、黒とそれぞれ一様でないのは、いったいどういう訳であろうか。


 岐伯が答えて申された。

 経脉には、それぞれ常とする色がございますが、絡脉は常に一定しておらず、その時々の状況に応じて色が変化いたします。


 黄帝が申された。

 経脉の定まった本来の色とは、どのようであるのか。

 岐伯が申された。

 心は赤、肺は白、肝は青、脾は黄、腎は黒でありまして、これらは全て十二経脉の色に応じております。

 帝が申された。絡脉の陰陽もまた、十二經脉の色に応じているのであろうか。

 岐伯が申された。

 陰経の絡脉の色は、それぞれの經脉の色に応じております。

 ところが陽経の絡脉の色は、経脉の色に応じておらず、一定しておりません。

 それよりもむしろ、四時陰陽の盛衰に従ってその色を現します。

 従いまして、冬季のように寒が多いときは、気血の運行が渋りますので、青黒くなってまいります。

 また夏期のように熱が多い時には、気血の運行が盛んになりますので、肌も潤い艶も良くなりますので、黄赤となって参ります。

 このように陽経の絡脉の色の変化が、四時陰陽の盛衰に適っておりますれば、まずは病の無い状態と判断することが出来ます。

 ところが、五色の全てが現れておりましたら、寒熱が錯綜していると判断することが出来るのであります。

 帝が申された。

 なるほど、よく理解できた。


原文と意訳

黄帝問曰.夫絡脉之見也.其五色各異.青黄赤白黒不同.其故何也.
岐伯對曰.經有常色.而絡無常變也.


黄帝問うて曰く。夫れ絡脉の見れるや、其の五色各おの異にし、青黄赤白黒同じからず。其の故は何なるや。
岐伯對えて曰く。經に常色有り。而して絡に常無くして變ずるなり。

帝曰.經之常色何如.
岐伯曰.心赤.肺白.肝青.脾黄.腎黒.皆亦應其經脉之色也.


帝曰く。經の常色は何如。
岐伯曰く。心は赤、肺は白、肝は青、脾は黄、腎は黒、皆亦其の經脉の色に應ずるなり。

帝曰.絡之陰陽.亦應其經乎.
岐伯曰.
陰絡之色.應其經.陽絡之色.變無常.隨四時而行也.
寒多則凝泣.凝泣則青黒.
熱多則淖澤.淖澤則黄赤.
此皆常色.謂之無病.五色具見者.謂之寒熱.
帝曰善.


帝曰く。絡の陰陽も亦其の經に應ずるや。
岐伯曰く。
陰絡の色は、其の經に應じ、陽絡の色は、變じて常なし。四時に隨いて行くなり。
寒多ければ則ち凝泣し、凝泣すれば則ち青黒なり。
熱多則ち淖澤なり。淖澤なれば則ち黄赤なり。
此れ皆常の色にして、これを無病と謂う。五色具(そな)わり見われる者は、これを寒熱と謂う。
帝曰く。善し。


 鍼専門 いおり 鍼灸院

皮部論篇第五十六.

七種山 虹の滝
 東洋医学は、体表に現れる気色や肌の色つやなどによって、五臓六腑の充実度を観る。

 瓜やスイカなど、外から眺めて触って軽く叩いて、中の状態を候うようなものである。

 ただ、候うに、瓜やスイカと違う点は、命がけだということである。

 本篇では、外邪がどのように伝変していくかということ。

 そして外邪に侵され始めた時には、体表にその変化が現れるので、それをつぶさに見て治療につなげなさいということだろう。

 当時の外感病は、いったいどのようなものであったのかなど、色々と想像した。

 明の王陽明が、地方に左遷された時、人々がまだ洞穴に住んでおり統制が取れないと、何かの本で目にしたことがある。

 まして素問が著されたと言われている春秋戦国時代にあっては、中央と地方の格差はどのようであったのだろう。

 当時と現代とでは、その衣食住の有様は、大きくかけ離れていたのだろうことは容易に推測できる。

 そして『傷寒論』の序文に在るような、村が全滅するような疫病が、幾度となく横行したのであろう。

 治病は、戦いと同じく機先を制するのが最上である。

 その機先は、体表に在る。

 本篇の邪は、外邪と意訳した。

 主に外感病を扱った『傷寒論』を内傷病に応用するように、内邪もまた逆のルートを通じて体表に現れる。

 直接臨床と繋がるような記載は無いと思われるが、このような見方、捉え方、考え方は大いに学ぶべきものがあると感じている。

 
原 文 意 訳

 黄帝が問うて申された。

 余は皮には十二經脉に分けた部位があり、脈には経の筋道があり、筋には結び絡う部位があり、骨には大小・長短の尺度がある。

 そしてその生じる病は、各々異なっていると聞いている。

 その各部位を明確に別ち、病が上下左右、陰陽のどちらにあるのか、病の始まりと予後など、それらの道理を聞かせてもらいたいのであるが。



 岐伯が答えて申された。

 皮の分部を知ろうとされるのでしたら、経脉を基準とすればよろしいのであります。これは全ての分部と經脉も同じでございます。

 陽明の陽は、害蜚(がいひ)と申しまして、陽明の気がさらに陽に傾きますと、陽気は消散してしまいます。上下、手足の陽明も同様であります。

 意識的に見て皮部に浮絡が存在するのは、すべて陽明の絡を見ているのであります。

 その浮絡の色が、青が多いようでしたら、それは痛みを現しているのでして、黒が多ければ痹を、黄赤が多ければ熱を、白が多ければ寒を、五色の全てが現れているようでしたら寒熱錯綜をそれぞれ表しております。

 絡に外邪が盛んとなりますと、経脉に入って留まるようになります。

 陽である絡は皮部でありますから外を主り、陰である経は臓腑に連なっておりますので内を主っております。

 少陽の陽は、その機能から枢持と言われておりまして、開の太陽、閉の陽明の枢軸を握っております。

 上下・手足の少陽も同様であります。

 意識的に見て皮部に浮絡が存在するのは、すべて少陽の絡を見ているのであります。

 絡に外邪が盛んとなりますと、経脉に入って留まるようになります。

 従いまして、陽である絡に在ります外邪は、陰である経を伝って内に入り込みますし、陰である經脉に在ります邪は、経脉を離れて次第に内の臓腑に滲むように入り込むのであります。

 これは、すべての經脉についても同じであります。

 太陽の陽は、外邪が最初に侵す部位であり、腠理開合の関所であります。

 ですからその機能から関枢と言われております。上下・手足の太陽も同様であります。

 意識的に見て皮部に浮絡が存在するのは、すべて太陽の絡を見ているのであります。

 絡に外邪が盛んとなりますと、経脉に入って留まるようになります。

 少陰の陰は、太陰と厥陰の枢であり、水を主っているところから、枢儒(濡)を言われております。

 意識的に見て皮部に浮絡が存在するのは、すべて少陰の絡を見ているのであります。

 絡に外邪が盛んとなりますと、経脉に入って留まるようになります。

 そして邪気は経脉から臓腑にはいり、さらに内の骨に注ぐのであります。

 心主の陰は、害肩と申しまして、厥陰の陰がさらに傾きますと、陰気は万物を塞ぎとめてしまうことになります。上下・手足の厥陰も同様であります。

 意識的に見て皮部に浮絡が存在するのは、すべて心主の絡を見ているのであります。

 絡に外邪が盛んとなりますと、経脉に入って留まるようになります。

 太陰の陰は、土中に潜む虫の出入りする関所の如く、体内の気血の出入りを主るので関蟄(かんちつ)と申します。

 意識的に見て皮部に浮絡が存在するのは、すべて太陰の絡を見ているのであります。

 おおよそ、十二經脉の絡脉と申しますは、皮部のことであります。

 でありますから百病が生じ始めるのは、必ず皮毛にその兆しが現れるのであります。

 もし、外邪が皮部に中りますと、腠理は開いて参ります。そうしますと外邪は絡脉に入って居座る様になり、そのまま留まって去りませんと経脉に伝入致します。

 さらにそのまま去らずに留まりますと、腑に入りまして腸胃に集まる様になるのであります。

 外邪が皮部に入り始めますと、ゾクゾクとして寒気がして体表の毛は逆立ち、そして腠理は開いてしまいます。

 そして絡脉に入ってしまいますと、絡脉は正邪抗争の結果、盛んとなり変色致します。

 また絡脉から経脉に入りますと、正気の不足を感じるようになり、経脉もまた陷下して参ります。

 さらに邪気が筋骨の間に留まり、外邪が寒に傾いているようでしたら筋が引きつれ骨もまた痛んで参ります。

 熱に傾いているようでしたら、筋は弛み骨は衰えて細り、肉は融ける様にやせ衰え、力こぶのような充実した肉は破れたかのように無力となり、毛は立ち枯れのようになってしまいます。

 帝が申された。

 夫子はこれまで、十二の皮部について話された。

 その皮部に病を生じる共通点はいかようなのか。

 岐伯が申された。

 皮と申しますは、経脉の一部でございます。

 ですから外邪が皮に舍りますと正気は敗れて腠理が開きます。

 そうしますと外邪は勢いに乗って絡脉に侵入し、絡脉で正邪の抗争が起こり、脉が満ちたにもかかわらず追い出すことが出来ないと、経脉に注ぎ入り、経脉でもまた外邪の侵入を防ぎきれないと臓腑にまで達してそこに舍るようになります。

 従いまして、皮には分部があり、皮の異変に気がつかないで治療の機会を失いますと、やがて大病を患うことになるのであります。


 帝が申された。 

 よく理解できた、と。



原文と読み下し



黄帝問曰.
余聞皮有分部.脉有經紀.筋有結絡.骨有度量.其所生病各異.別其分部.左右上下.陰陽所在.病之始終.願聞其道.
黄帝問うて曰く。
余は聞く。皮に分部有り、脉に經紀有り、筋に結絡り有り、骨に度量有り。其の生ずる所の病、各おの異なる、と。其の分部を別ち、左右上下、陰陽の在る所、病の始終、願わくば其の道を聞かん。

岐伯對曰.
欲知皮部.以經脉爲紀者.諸經皆然.
陽明之陽.名曰害蜚.上下同法.
視其部中有浮絡者.皆陽明之絡也.
其色多青則痛.多黒則痺.黄赤則熱.多白則寒.五色皆見.則寒熱也.
絡盛則入客於經.陽主外.陰主内.


岐伯對えて曰く。
皮部を知らんと欲すれば、經脉を以て紀と爲す者なり。諸經皆然り。
陽明の陽、名づけて害蜚(がいひ)と曰く。上下法を同じくす。
其の部中を視て、浮絡有る者は、皆陽明の絡なり。
其の色青多きは則ち痛み、黒多きは則ち痺し、黄赤なれば則ち熱し、白多きは則ち寒し、五色皆見われれば則ち寒熱なり。
絡盛んなれば則ち入りて經に客す。陽は外を主り、陰は内を主る。

少陽之陽.名曰樞持.上下同法.
視其部中有浮絡者.皆少陽之絡也.
絡盛則入客於經.
故在陽者主内.在陰者主出以滲於内.諸經皆然.


少陽の陽、名づけて樞持と曰く。上下法を同じくす。
其の部中を視て、浮絡有る者は、皆少陽の絡なり。
絡盛んなれば則ち入りて經に客す。
故に陽に在る者は内を主り、陰に在る者は出るを主り以て内に滲(にじ)む。諸經皆然り。

太陽之陽.名曰關樞.上下同法.
視其部中有浮絡者.皆太陽之絡也.
絡盛則入客於經.


太陽の陽、名づけて關樞と曰く。上下法を同じくす。
其の部中を視て、浮絡有る者は、皆太陽の絡なり。
絡盛んなれば則ち入りて經に客す。

少陰之陰.名曰樞儒.上下同法.
視其部中有浮絡者.皆少陰之絡也.
絡盛則入客於經.其入經也.從陽部注於經.

其出者.從陰内注於骨.
少陰の陰、名づけて樞儒と曰く。上下法を同じくす。
其の部中を視て、浮絡有る者は、皆少陰之の絡なり。
絡盛んなれば則ち入りて經に客す。其の經に入るや、陽部より經に注ぐ。
其の出ずる者は、陰より内りて骨に注ぐ。

心主之陰.名曰害肩.上下同法.
視其部中有浮絡者.皆心主之絡也.
絡盛則入客於經.


心主の陰、名づけて害肩と曰く。上下法を同じくす。
其の部中を視て、浮絡有る者は、皆心主の絡なり。
絡盛んなれば則ち入りて經に客す。

太陰之陰.名曰關蟄.上下同法.
視其部中有浮絡者.皆太陰之絡也.絡盛則入客於經.

太陰の陰、名づけて關蟄(かんちつ)と曰く。上下法を同じくす。
其の部中を視て、浮絡有る者は、皆太陰の絡なり。絡盛んなれば則ち入りて經に客す。

凡十二經絡脉者.皮之部也.
是故百病之始生也.必先於皮毛.邪中之.則腠理開.開則入客於絡脉.留而不去.傳入於經.留而不去.傳入於府.廩於腸胃.
邪之始入於皮也.泝然起毫毛.開腠理.
其入於絡也.則絡脉盛色變.
其入客於經也.則感虚.乃陷下.
其留於筋骨之間.寒多則筋攣骨痛.
熱多則筋弛骨消.肉爍䐃破.毛直而敗.

凡そ十二經の絡脉は、皮の部なり。
是れ故に百病の始めて生ずるや、必ず皮毛に先んず。邪これに中れば、則ち腠理開く。開けば則ち入りて絡脉に客し、留まりて去らずんば、傳えて經に入る。留まりて去らずんば、傳えて府に入り、腸胃に廩(あつ)まる。
邪の始めて皮に入るや、泝然(そぜん)として毫毛起き、腠理開く。
其の絡に入れば、則ち絡脉盛んにして色變ず。
其の入りて經に客すれば、則ち虚に感じて、乃ち陷下す。
其の筋骨の間に留まりて、寒多きは則ち筋攣し骨痛む。
熱多きは則ち筋弛み骨消し、肉爍(と)け䐃(きん)破れ、毛直して敗す。

帝曰.夫子言皮之十二部.其生病皆何如.
岐伯曰.
皮者脉之部也.邪客於皮.則腠理開.開則邪入客於絡脉.絡脉滿則注於經脉.經脉滿則入舍於府藏也.
故皮者有分部.※不癒而生大病也.
帝曰善.


帝曰く。夫子皮の十二部を言えり。其の病を生ずるは皆いかん。
岐伯曰く。
皮は脉の部なり。邪皮に客せば、則ち腠理開く。開けば則ち邪入りて絡脉に客し、絡脉滿つれば則ち經脉に注ぐ。經脉滿つれば則ち入りて府藏に舍す。
故に皮に分部有り、癒せざれば大病を生じるなり。
帝曰く、善し。



※原文、不與(不与)を甲乙経に倣い不癒に作る。


 鍼専門 いおり 鍼灸院

長刺節論篇第五十五.

慶良間
 前篇に引き続き鍼法について述べられているが、鍼の補寫、遅速、深浅に関しては、他篇と矛盾することが多々ある。 

 これらから推測できることは、刺法に関しては当時から様々な流派ややり方があったことが分かる。

 これは巨刺と繆刺も同じである。

 巨刺と繆刺の鍼法は異なるが、生体全体を見渡し、気の偏在を空間的にとらえ、陰陽の平衡を計ろうとした鍼術としてみれば、同じ視点に立った鍼法であることが分かる。

 気の偏在を捉えること無く、巨刺、繆刺を固定的に捉え鍼を下すと、確実に誤る。

 このように臨床に際しては、原則に囚われず、生体が表現している状態に従って自由に遅速、深浅を加減することこそが大事と解釈することが出来る。

 人体は、一時も静止することなく千変万化するものである。

 その様々に変化する現象の中から、不変のものを見出しその場その場に応じて、一鍼を下すのが鍼灸医学である。

 このような生体の在り様に対して、原則は参考にすれども、定まった鍼法など無いに等しいのだと筆者は考えている。

 当然、本篇で取り上げられている病証と刺法は、ひとつのやり方であり例であって、決して固定的に捉えるべきではないと筆者は考える。

 この例から、何を読み取るかこそが大事と思う。

 固定的に捉えると、対象は実態から離れ、死んでしまうからである。

 また本篇で筆者が注目したのは、以下の一文である。

 <深專者.刺大藏.迫藏刺背.背兪也.刺之迫藏.藏會.腹中寒熱去而止.>

 この記載によって、腹部募穴と背部兪穴間の気の動きを明確にすることが出来る。

 気の動きを概念で捉えることができれば、あとはそのような視点で臨床的に照合していく過程に入ることが出来る。

 このあたりの詳細は、ブログ『一の会 東洋医学講座』 <背部兪穴と胸腹部募穴①~④>筆者の思惑を述べているので、興味のある方は訪れて頂けたらと思います。

 またこの篇は、誤字、脱字の類が多かったので、甲乙経、新校正などを参考に筆者なりに理解しやすいように読み替えたので、含みおいて頂けたらと思う。 
 

 

原 文 意 訳

 鍼の治療家は、診察前に病人の話し方に耳を傾けるものである。

 病が頭に在り、頭が急に痛むときは、鍼が骨に達すると治まるものである。


 その際には、皮は、鍼の出入りする部位であるが、骨肉と皮を傷害するようであってはならない。

 陰刺というは、一か所に刺し入れ、その傍らの四方に刺すのである。

 四方の面積大に気を集めたり散らしたりできるので、寒熱の病を治することができるのである。

 邪気が深い時には、五臓を刺す。

 邪気が五臓に迫ろうとしている時に背兪を刺すのは、五臓の気が背兪に会するからである。

 従って、正邪抗争の場を五臓から背兪に引くために刺鍼するのである。

 そして腹中の寒熱の症状が去れば、鍼もまた止めるのである。

 その際の要は、鍼を速く瞬間的に抜針し、浅いところで少し出血させることである。

 化膿した腫れ物を治するには、化膿部位を直接刺し、できものの大小を意識的に視て鍼の深浅を決めるのである。

 大きなものは、多く刺し、しかも深くするのである。

 その際には、鍼を真直ぐに持って刺入するのが、古来からの方法である。

 小腹部に固いしこりのある病は、皮肉の盛り上がっているところを刺し、そこから少腹部に至ったところで止める。

 さらに第四胸椎の傍らの厥陰兪を刺し、さらに腰骨の両側にある居髎付近と、さらに季脇肋の章門、京門付近を刺し、腹中の凝り固まった気を刺鍼部位に導き、熱所見が無くなれば治まるのである。

 少腹に病があって、腹痛がして大小便が無いのは、疝という病名である。これは寒邪に侵されたことが原因である。

 寒邪に傷られた疝には、小腹部と両方の内股、環跳付近を数多く刺す。下腹部以下全体が、はっきりと温かくなって来ると治まるのである。

 病が筋に在り、筋肉が痙攣して関節も痛み、歩くことが出来ないものを、筋痹と申します。

 筋痹には、筋上を刺すのが古来からの方法である。

 分肉の間を刺して、骨に中らないようにしなければならない。

 病が起こっても、筋が熱するようになると病は癒えて止まるのである。

 病が肌膚に在り、肌膚の尽くが痛むのを、肌痹と申します。寒湿に傷られたからであります。

 大肉・小肉の分間に、多く深く鍼を発し、肌膚が熱するようにするのが、古来からの方法です。

 その際には、筋骨を傷らないように致します。

 もし筋骨を傷りますと、廱(よう=できもの)を発するようになるか、思わぬ病変を生じます。

 大肉・小肉の分間の尽くが熱するようになりますと、病は癒えて止まります。

 病が骨に在り、骨が重く感じて挙動することが出来ず、骨髄は酸痛(だるく痛む)し、寒気の影響を受けるようになるものを、骨痹と申します。

 骨に届くように深く刺すが、脉肉を傷らないようにするのが、古来からの方法である。運鍼は、大肉・小肉の分間を進め、骨が熱するようになると、病は癒えて止まります。

 病が諸陽経に在り、寒と熱の症状が混在し、大肉・小肉の分間もまた、寒と熱の症状が混在しているのを、名づけて狂と申します。

 このような場合、虚脈を刺し、大肉・小肉の分間をしっかりと見て、寒熱の気が交流して、全体が熱すると病は癒えて止まるのである。

 この狂症が初めて発病し、一年に一度発作を起こして治らず、また月に一度発作を起こして治らず、さらに月に四五度発作を起こすようになりますと、これを癲病と申します。

 この際、諸分肉、諸経脉を刺すのであるが、寒の症状が無い場合は、鍼を以てこれを調え熱を平にすれば、病は癒えて止まるのである。

 風を病み、寒熱の症状があり、一日数回発熱して汗が出るような場合は、まず諸の分理絡脉を刺す。

 発汗して寒熱の症状があっても、三日に一度鍼をし、百日すると癒えるのであります。

 大風を病み、骨節が重く、髭や眉が抜け落ちてしまうのを、名づけて大風と申します。

 肌肉を刺すのが、古来からの方法である。発汗すること百日。

 骨髄を刺して発汗させること百日。

 凡そ合計二百日刺鍼し、髭と眉毛が生じて来たら、刺鍼もまた止めるのであります。




原文と読み下し



刺家不診.聽病者言.※1(病)在頭.頭疾痛.爲※2(藏)鍼之.刺至骨.病已※3止(上).無傷骨肉及皮.皮者道也.

陰刺入一.傍四處.治寒熱.

深專者.刺大藏.迫藏刺背.背兪也.

刺之迫藏.藏會.腹中寒熱去而止.

※4(與)刺之要.發鍼而淺出血.


刺家診せず、病者の言を聽く。病は頭に在り、頭疾痛めば、爲にこれに鍼す。刺して骨に至らば、病已み止まる。骨肉及び皮を傷ること無かれ。皮なるは、道なり。

陰刺は一を入れて傍ら四處す。寒熱を治す。

深さ專らなるは、大藏を刺す。

藏に迫るは、背を刺す。背の兪なり。

これ藏に迫るを刺すは、藏會なればなり。腹中の寒熱去りて止む。

刺の要は、鍼を發して淺く血を出すなり。

※1在のうえに病の文字ありとす。

※2(藏)全元起本には蔵の文字がない。これにならう。

※3上を止に改める。

※4與を読まず。



治腐腫者.刺腐上.視癰小大.深淺刺.
※刺大者多而深之.必端内鍼爲故止.必端内鍼爲故止.

腐腫を治するは、腐の上を刺す。癰の小大を視て、深く淺く刺す。

大なるを刺すは、多くしてこれを深くし、必ず端(ただ)しく鍼を内れるを故止と爲す。

※原文は「刺大者多血.小者深之.」甲乙経は、刺大者多而深之.必端内鍼爲故止.とあるに従う。


病在少腹有積.刺皮[骨盾].以下至少腹而止.

刺侠脊兩傍四椎間.刺兩[骨客]髎.季脇肋間.導腹中氣.熱下已.

病少腹に在りて積有るは、皮[骨盾](ひとつ)以下を刺し、少腹に至りて止む。

侠脊の兩傍四椎の間を刺し、兩[骨客]髎(かりょう)、季脇肋の間を刺す。腹中の氣を導き、熱下れば已む。


病在少腹.腹痛不得大小便.病名曰疝.得之寒.

刺少腹兩股間.刺腰髁骨間.刺而多之.盡炅病已.

病少腹に在り。腹痛みて大小便を得ず。病名づけて疝と曰く。これを寒に得る。

少腹兩股の間を刺し、刺腰髁骨(かこつ)の間を刺す。刺してこれを多くす。盡く炅(けい)して病已む。


病在筋.筋攣節痛.不可以行.名曰筋痺.

刺筋上爲故.刺分肉間.不可中骨也.病起.筋炅病已止.


病筋に在り。筋攣し節痛み、以て行くべからず。名づけて筋痺と曰く。

筋上を刺す故と爲す。分肉の間を刺して、骨に中るべからず。病起.筋炅すれば病已(や)みて止る。


在肌膚.肌膚盡痛.名曰肌痺.傷於寒濕.

刺大分小分.多發鍼而深之.以熱爲故.

無傷筋骨.傷筋骨.癰發若變.

諸分盡熱.病已止.


病肌膚に在りて、肌膚盡く痛む。名づけて肌痺と曰く。寒濕に傷らる。

大分小分を刺す。多く鍼を發してこれを深くし、以て熱するを故と爲す。

筋骨を傷ること無かれ。筋骨を傷れば、癰を發し若しくは變ず。

諸分盡く熱すれば、病已えて止む。


病在骨.骨重不可擧.骨髓酸痛.寒氣至.名曰骨痺.

深者刺無傷脉肉爲故.其道大分小分.骨熱病已止.


病骨に在り。骨重くして擧げるべからず。骨髓酸痛し、寒氣至る。名づけて骨痺と曰く。

深き者は刺して脉肉を傷ること無きを故と爲す。其の道は大分小分、骨熱すれば病已えて止む。


病在諸陽脉.且寒且熱.諸分且寒且熱.名曰狂.

刺之虚脉.視分盡熱.病已止.

病初發.歳一發不治.月一發不治.月四五發.名曰癲病.

刺諸分諸脉.其無寒者.以鍼調之.病止.


病諸陽の脉に在り。且つ寒し且つ熱す。諸分且つ寒し且つ熱するは、名づけて狂と曰く。

これを虚脉に刺し、分盡く熱するを視れば、病已えて止む。

病初めて發し、歳に一たび發して治せず。月に一たび發して治せず。月に四五たび發するを、名づけて癲病と曰く。

諸分諸脉を刺す。其の寒無き者は、鍼を以てこれを調えれば、病止む。


病風.且寒且熱.炅汗出.一日數過.先刺諸分理絡脉.

汗出且寒且熱.三日一刺.百日而已.

風を病みて、且つ寒し且つ熱し、炅汗出ずること、一日に數過するは、先ず諸の分理絡脉を刺す。

汗出で且つ寒し且つ熱するは、三日に一たび刺す。百日にして已む。


病大風.骨節重.鬚眉墮.名曰大風.刺肌肉爲故.汗出百日.

刺骨髓.汗出百日.凡二百日.鬚眉生而止鍼.


大風を病みて、骨節重く、鬚眉墮つるを、名づけて大風と曰く。肌肉を刺すを故と爲す。汗出ずること百日、

骨髓を刺して、汗出ずること百日、凡そ二百日、鬚眉生じて鍼を止む。



 鍼専門 いおり鍼灸院






鍼解篇第五十四.

花咲き虫が飛び交う・・・盛夏

 本篇は、鍼の基本的な補瀉法と、それを施したのちの変化の目安について述べられている。

 さらに、内経医学で一貫している『天人相応』思想が、ここでも記載されているが、これをこじつけと思ってしまうと、内経医学の深いところが見えなくなってしまうので一考されたい。

 『天人相応』を、日常生活の中で常に観ていくことが、臨床につながる。


 鍼の遅速に関しては、本篇の内容は基礎的なことで、例えば瀉法を用いる際に陽邪と陰邪とでは大きく異なる。

 また瀉法を施した後、鍼穴を閉じるとの記載もあるが、これもその時々の状態によるので、全般的な補瀉の記載に関しては、決して固定的に捉えないのが良いと思う。

 また、補瀉に関しては、技術的なことは脇に置いておいて、術者の意念がその効果を大きく作用すると付け加えたい。

 言い換えると、「瀉す」、「補う」、という術者の確信が効果を左右する。

 基本的な補瀉について述べられているが、鍼の技術的なことはすでにクリア出来ていて、そこからさらに一歩進んでより効果を上げるため、また鍼の本質を伝えるために、術者の『心持ちの大事』を説いていると、筆者は感じている。




原 文 意 訳

 
  帝が問うて申された。願わくば九鍼の解釈と虚実の道理を聞きたいのであるが。

 それに対して岐伯が申された。

 虚を刺してこれを実しますと、鍼下に熱感が生じます。気が集まりますと熱となるからであります。

 満ちているものを泄する場合は、鍼下が寒するものであります。気が散ってしまいますと、冷えるからであります。

 宛陳、つまり鬱滞して久しいものを取り除こうとする場合は、悪血を出してやります。

 邪が勝つときは、これを虚すとは、抜鍼後に鍼穴を按じて邪が出ていくのを妨げてはならないということです。

 徐にして疾なれば則ち實すとは、補法のことであります。つまり鍼は徐々に刺入し、抜鍼は疾くして鍼穴を按ずるのであります。

 疾くして徐なれば則ち虚すとは、瀉法のことであります。つまり鍼を疾く刺入し、抜針は徐々に行ってから鍼穴を按ずるのであります。

 虚と実について申しますなら、寒温の気の多少を判断材料に致します。

 有るが如き無きが如しとは、鍼を疾く操作する瞬間瞬間のことで、それを言葉で知ることはできないものであります。

 先と後を察するとは、病の新旧、病因病理を察知することであります。

 虚と実を爲すと申しますは、医師は正確に補瀉を行い、補瀉の法を意識から決して離してはなりません。

 気を得たのか失したのかが曖昧な時は、補瀉を明確に判断せず、補瀉の法を離れてしまったからであります。

 補瀉を的確に行うには、九鍼が最も優れております。と申しますのは、九鍼には、それぞれ病態に適うように考案されているからであります。

 補瀉にあたりましては、気の去来に従ってタイミングよく鍼穴を開闔いたします。

 九鍼とは、それぞれ異なった形をしておりまして、まさに補瀉を行うべきところをよく見極めて、九種類の鍼を用いるということであります。

 実を刺して虚するのを待つと申しますは、鍼を刺して留め置き、陰気が盛んになりましてから鍼を去るということであります。

 虚を刺して実するのを待つと申しますは、同じく陽気が盛んになり、鍼下が熱してから鍼を去るということであります。

 経気がすでに至りましたら、慎重にそれを守り失することがあってはなりません。途中で迷って補瀉を変更してはなりません。

 鍼の深浅は志にありとは、病が内外のどこにあるのかを心を専一にして知ることであります。

 遠近は一の如しとは、鍼の深浅・病位を伺うのは、気が至る感覚と同じであるということであります。

 深淵に臨むが如しとは、油断せず慎重になるということであります。

 手に虎を握るが如しとは、慎重にしかも鍼をしっかりと持ち、鍼下の正邪を掴むことであります。

 術者の意識は、周りの様々なことに囚われることなく心を静かにし、病人を観て集中し、左右のものに気を取られキョロキョロ見てはなりません。

 鍼は斜めに下してはならないという意味は、襟を正して偏らず、まっすぐに刺し下すということであります。

 必ずその神を正すとは、病人の目を見てその神を制して落ち着かせ、病人の気がめぐりやすくすることであります。


 それはつまり、互いの目を合わすことにより、患者の神が鎮まるかどうかは、互いの信頼関係と治療効果に大きく影響するということであります。

 いわゆる三里は、膝を下ること三寸にあります。

 跗上(足の甲)は、膝を挙げますと指の間がはっきりとして見やすいものであります。

 巨虚と申しますは、足の向う脛を挙げますと、ひとりくぼむところで、下廉は陥下しているところです。

 帝が申された。余は九鍼が上は天地・四時・陰陽に応ずと聞いている。願わくばその有様を聞いて、後世に伝え、以て鍼の常道にしたいと思うのだが。

 岐伯が申された。

 一は天、二は地、三は人、四は時、五は音、六は律、七は星、八は風、九は野でありまして、人の身体もまたこれに応じておるのであります。


 そして鍼にも、それぞれ適応するところがありますので、九鍼と申すのであります。

 人の皮膚は、人体を包んでおり、天もまた万物を覆っているのと相関いたします。


 同様に人の肉は土に属し、身体に起伏を生じ適度に潤っている様が大地と相関いたします。

 人の脉は状況に応じて常に変化しておりますので、天地の気が交流して様々に変化する様と相関いたします。

 人の筋は、しっかりと骨を束ねているので、人体を移動させることが出来ます。時もまた連続して流れ四時はばらばらにやってくるのではなく、規則的に移り変わる様と相関しております。

 人の声は五音を備え発しますので、五音に応じます。

 人の陰陽消長の気は、大自然の気に応じており、三陰三陽六律の音階変化に応じております。

 人の歯や面目の位置は定まっているように、これらは天の星と相関いたします。

 人の気が出入りする様は、風と相関いたします。

 人には九竅三六五絡がありますが、これは野に湧水があり、また河川が縦横無尽に流れている様に応じます。

 従いまして、一鑱鍼(ざんしん)は皮を刺し、二員針(えんしん)は肉を刺し、三鍉針は脉を刺し、四鋒針は筋を刺し、五鈹針は骨を刺し、六員利鍼は陰陽気血を調和し、七毫鍼は精気を補益し、八長鍼は風邪を駆除し、九大鍼は九竅を疎通します。


 このように三六五節の邪気を除くため、各病状と病位に適うように九鍼を用いるのであります。

 人の心意は、自然界の
気まぐれに吹く八風と同じで、千変万化致します。

 ですから人の気は天の気に応ずと申すのであります。

 人の髪、歯、耳目、五声が調和して聡明なのは、五音六律に調和があることに応じています。

 そして人の陰陽脉血気は、大地に応じているのであります。


原文と読み下し



黄帝問曰.願聞九鍼之解.虚實之道.

岐伯對曰.

刺虚則實之者.鍼下熱也.氣實乃熱也.

滿而泄之者.鍼下寒也.氣虚乃寒也.

宛陳則除之者.出惡血也.

邪勝則虚之者.出鍼勿按.

徐而疾則實者.徐出鍼而疾按之.

疾而徐則虚者.疾出鍼而徐按之.

言實與虚者.寒温氣多少也.

若無若有者.疾不可知也.

察後與先者.知病先後也.

爲虚與實者.工勿失其法.

若得若失者.離其法也.

虚實之要.九鍼最妙者.爲其各有所宜也.

補寫之時者.與氣開闔相合也.

九鍼之名.各不同形者.鍼窮其所當補寫也.


黄帝問うて曰く。願わくば九鍼の解、虚實の道を聞かん。

岐伯對して曰く。

虚を刺して則ちこれを實すとは、鍼下熱するなり。氣實すれば乃ち熱するなり。

滿つればこれを泄すとは、鍼下寒也するなり。氣虚すれば寒するなり。

宛陳(えんちん)なれば則ちこれを除くとは、惡血を出すなり。

邪勝てば則ちこれを虚すとは、鍼出して按ずること勿れ。

徐にして疾なれば則ち實すとは、徐に鍼を出だし疾くこれを按ずるなり。

疾くして徐なれば則ち虚すとは、疾く鍼を出だし、徐にこれを按ず。

實と虚を言うは、寒温の氣の多少なり。

無きが若く有るが如きとは、疾くして知るべからざるなり。

後と先を察するとは、病の先後也を知るなり。

虚と實を爲すとは、工はその法を失すること勿れ。

得るが如く失するが如しとは、その法を離れるなり。

虚實の要、九鍼最も妙なりとは、その各々に宜しき所有るが爲なり。

補寫の時とは、氣の開闔と相い合するなり。

九鍼の名、各々形同じからずとは、鍼はその當に補寫する所を窮むるなり。



刺實須其虚者.留鍼陰氣隆至.乃去鍼也.

刺虚須其實者.陽氣隆至.鍼下熱.乃去鍼也.

經氣已至.愼守勿失者.勿變更也.

深淺在志者.知病之内外也.

近遠如一者.深淺其候等也.

如臨深淵者.不敢墮也.

手如握虎者.欲其壯也.

神無營於衆物者.靜志觀病人無左右視也.

義無邪下者.欲端以正也.

必正其神者.欲瞻病人目.制其神.令氣易行也.

所謂三里者.下膝三寸也.

所謂跗之者.擧膝分易見也.

巨虚者.䯒足蹻獨陷者.

下廉者.陷下者也.

實を刺しその虚を須(ま)つとは、鍼を留め陰氣隆(さか)んに至りて、乃ち鍼を去るなり。

虚を刺しその実を實須(ま)つとは、陽氣隆んに至りて、鍼下熱すれば、乃ち鍼を去るなり。

經氣已に至れば、、愼しみ守りて失すること勿れ、變更すること勿れ。

深淺は志に在りとは、病の内外を知るなり。

近遠一如しとは、深淺その候等しきなり。

深淵に臨むが如しとは、敢えて墮ちざるなり。

手に虎を握るが如しとは、その壯なることを欲するなり。

神衆物を營すること無かれとは、志靜にして病人を觀て左右を視ること無かれとなり。

義にして邪(ななめ)に下すこと無かれとは、端にして以て正ならんことを欲するなり。

必ずその神を正すとは、病人の目を瞻(み)て、その神を制し、氣をして行ること易からしめんと欲するなり。

所謂三里は、膝の下三寸なり。

所謂跗之(ふし)は、膝を擧ぐれば分けて見易きなり。

巨虚は、足の䯒(こう)を蹻(あ)ぐれば、獨り陷するものなり。

下廉は、陷の下なるものなり。



帝曰.余聞九鍼.上應天地四時陰陽.願聞其方.令可傳於後世.以爲常也.

岐伯曰.

夫一天.二地.三人.四時.五音.六律.七星.八風.九野.

身形亦應之.鍼各有所宜.故曰九鍼.


帝曰く。余は聞くに、九鍼は上は天地四時陰陽に應ずと。願わくばその方を聞き、後世に傳え以て常と爲すべからしめんなり。

岐伯曰く。

夫れ一は天。二は地。三は人。四は時。五は音。六は律。七は星。八は風。九は野。

身の形も亦たこれに應ず。鍼各々宜しき所有り。故に九鍼と曰く。



 

人皮應天.人肉應地.人脉應人.人筋應時.人聲應音.人陰陽合氣應律.人齒面目應星.人出入氣應風.人九竅三百六十五絡應野.

故一鍼皮.二鍼肉.三鍼脉.四鍼筋.五鍼骨.六鍼調陰陽.七鍼益精.八鍼除風.九鍼通九竅.除三百六十五節氣.此之謂各有所主也.


人心意應八風.人氣應天.人髮齒耳目五聲.應五音六律.人陰陽脉血氣應地.
人の皮は天に應ず。人の肉は地に應ず。人の脉は人に應ず。人の筋は時に應ず。人の聲は音に應ず。人の陰陽は気に合し律に應ず。人の齒面目は星に應星ず。人の出入の氣派〕風に應風ず。人の九竅三百六十五絡は野に應ず。

故に一鍼は皮。二鍼は肉。三鍼は脉。四鍼は筋。五鍼は骨。六鍼は陰陽を調し、七鍼は精を益し、八鍼は封を除き、九鍼は九竅に通じ、三百六十五節の氣を除く。此れをこれ各々主る所有りと謂うなり。

人の心意は八風に應ず。人の氣は天に應天ず。人の髮齒耳目五聲は、五音六律に應ず。人の陰陽脉血氣は地に應ず。






※以下、王冰の注釈以来、虫損、残欠にのため意味不明であるとされ、後世新たに発見されるのを待つ部分とされているので、原文のみを記すにとどめる。

人肝目應之九.九竅三百六十五.人一以觀動靜.天二以候五色.七星應之以候髮毋澤.五音一以候宮商角徴羽.六律有餘不足應之.二地一以候高下有餘.九野一節兪應之以候閉.節.三人變一分人候齒泄多血少.十分角之變.五分以候緩急.六分不足.三分寒關節.第九分四時人寒温燥濕.四時一應之以候相反一.四方各作解.

九竅三百六十五.人一以觀動靜.天二以候五色.七星應之以候髮毋澤.五音一以候宮商角徴羽.六律有餘不足應之.二地一以候高下有餘.九野一節兪應之以候閉.節.三人變一分人候齒泄多血少.十分角之變.五分以候緩急.六分不足.三分寒關節.第九分四時人寒温燥濕.四時一應之以候相反一.四方各作解.


 鍼専門 いおり鍼灸院



刺志論篇第五十三.


 本篇は、基本的な虚実の概念と、変証について述べられている。また初歩的な刺鍼後の手技についても記載されている。

 実に関しては、邪気実としての解説と外邪侵入との解説を多く見るが、「鬱滞即邪」の概念からすると、正気の鬱滞・有余もまた即邪気と転化する視点を見落とさないようにするのが肝要かと思う。

 さらに虚実の概念も、内経では一貫しておらず、単に緊張や充実していることを指して実と表現しているので、実=邪気(もしくは外邪)と短絡しないように気をつけるのが良いと思う。

 さらに言えば、読者諸氏は文中の虚実が何を軸にして論じているのかを明確にしながら読み進めると、より一層理解の幅が広がると思うので参考にされたい。

 また、常と変に関しては、臨床的には常見するので、筆者の独断で意訳に加えた。千変万化する現象から、真仮・虚実の見極めはやはり巧拙に関わってくると実感している。

 さて、本篇の表題『 刺志論』であるが、馬蒔は「志」は「記」と注しているが、「志」が「誌」に通じるためであろう。

 本文最初に、黄帝が「虚実の要」を聞かせてもらいたいとの記述から、虚実は決して誤ってはならない重要な診断であることが知れる。

 「志」とは本来、こころがある方向に向かうことであるから、刺鍼に際しては、決して曲げたり曖昧にしてはならない虚実の概念を述べているからこそ、表題を『 刺志論』としたのではなかろうかと、筆者は考えている。

 読者諸氏は、如何。





原 文 意 訳

  黄帝が問うて申された。願わくば、虚実の要となることを聞きたいのであるが。

 岐伯がそれに対して申された。

 気が実しておれば形もまた実しており、気が虚しておれば形もまた虚しているというのが理に適った常の状態であります。これに反しておりますと、変でありますので病んでおります。

 食を十分に摂取できるものは、気もまた盛んであります。反対にあまり食べることが出来ないものは、気が虚しているというのが常であり、これに反した変でありますと、病んでいるのであります。

 脉力が充実しておれば血色も良く、血もまた充実しており、脉力が弱ければ血色も悪く、血もまた不足しているのが常であります。これに反した変でありますと、病んでいるのであります。

 帝が申された。理に適っていない反・変の状態とはいかなるか。

 岐伯が申された。

 気が盛んであるにもかかわらず、身体が寒していたり、気が不足しているにもかかわらず、身体が熱しておりますと、理に適わない反・変であります。

 しっかりと食物を摂っているにもかかわらず、気が少ないのも反・変であります。


 反対に、あまり食べることが出来ないにもかかわらず、気が多いのも反・変であります。

 脉が盛んで血が少なく血色が悪い、脉が弱いのに血が多く血色が良いというのも、また反・変であります。

 気が盛んであるにもかかわらず身体が寒しているのは、これは寒邪に傷られたからであります。

 気が不足しているにもかかわらず身体が熱しているのは、暑邪に傷られたからであります。

 たくさん食しているのに気が虚している者は、身体のどこかに出血しているところがあり、湿が下焦に在って気を阻んでいるからであります。

 少ししか食していないのに気が多い者は、邪気が胃と肺に在って正気と抗争しているからであります。

 脉が弱いのに血が多く血色が良いのは、水飲が中焦に留まり気と結んで熱しているためである。

 脉が大きく打っているのに血が少なく血色が悪いのは、脉が風気を受け、飲み物も取れないからであります。

 実と申しますは、気が内に入って一杯になった状態で、虚とは正気が抜け出でて不足した状態であります。

 気が実している者は、有余している分だけ身体が熱するものであり、気が虚している者は、不足している分だけ身体が冷えるものです。

 気有余の実でありましたら、鍼の押手であります左手の指で鍼穴を開くようにしまして、気不足の虚でありましたら、同じく鍼穴を閉じるように手技を致すのであります。




原文と読み下し

黄帝問曰.願聞虚實之要.

岐伯對曰.

氣實形實.氣虚形虚.此其常也.反此者病.

穀盛氣盛.穀虚氣虚.此其常也.反此者病.

脉實血實.脉虚血虚.此其常也.反此者病.


黄帝問うて曰く。願わくば虚實の要を聞かん。

岐伯對して曰く。

氣實して形實し、氣虚して形虚す。此れ其の常なり。此れに反するものは病む。

穀盛んにして氣盛ん、穀虚して氣虚す。此れ其の常なり。此れに反するものは病む。

脉實して血實し、脉虚して血虚す。此れ其の常なり。此れに反するものは病む。



帝曰.如何而反.

岐伯曰.

氣虚身熱.此謂反也.

穀入多而氣少.此謂反也.

穀不入而氣多.此謂反也.

脉盛血少.此謂反也.

脉少血多.此謂反也.


帝曰く。如何にしてか反すや。

岐伯曰く。

氣虚して身熱す。此れを反と謂うなり。

穀入ること多くして氣少なし。此れを反と謂うなり。

穀入らずして氣多し。此れを反と謂うなり。

脉盛んにして血少し。此れを反と謂うなり。

脉少く血多し。此れを反と謂うなり。



氣盛身寒.得之傷寒.

氣虚身熱.得之傷暑.

穀入多而氣少者.得之有所脱血.濕居下也.

穀入少而氣多者.邪在胃及與肺也.

脉小血多者.飮中熱也.

脉大血少者.脉有風氣.水漿不入.此之謂也.


氣盛んにして身寒するは、これを傷寒に得る。

氣虚して身熱す。これを傷暑に得る。

穀入ること多くして氣少き者は、これ脱血する所有りて、濕下に居るに得る。

穀入ること少くなくして氣多き者は、邪は胃と肺に在るなり。

脉小にして血多き者は、飮して中は熱するなり。

脉大にして血少き者は、脉に風氣有り、水漿入らず。此れを之れ謂うなり。


夫實者氣入也.虚者氣出也.

氣實者熱也.氣虚者寒也.

入實者.左手開鍼空也.

入虚者.左手閉鍼空也.


夫れ實するとは、氣の入るなり。虚するとは、氣出ずるなり。

氣實する者は熱するなり。氣虚する者は寒するなり。

實に入る者は、左手もて鍼空(はりあな)を開くなり。

虚に入る者は、左手もて鍼空を閉すなり。


 鍼専門 いおり鍼灸院




刺禁論篇第五十二.

もうすぐ梅雨明けでしょうか


 この篇では、禁鍼穴と過誤の起こりやすい部位を明確にし、同時に深く刺すことを戒めている。

 この篇を読み返す度に、病に苦しむ人を、治してあげたいという想いで行った鍼治療で、反って患者が目の前で悪化したり死亡する情景に接して、術者はどのような気持ちになったのだろうかと想像してしまう。

 治すことが出来ないと、治療者も病人も共に苦しむものだ。まして悪化・死亡など、あってはならないことが、過去に起きたからこそ、ここに記述されているのである。

 このことに深く思いを至らせて、過誤の無いように努めるのは最低のことで、術者は、はるかにそれ以上のでなければならない。

 深刺しと局所治療は、よほどの根拠がない限り、施すべきでないというのが筆者の考えである。

 内経医学では、全身の『気の偏在』を視野に入れ、心身ともに人としての本来の姿に戻すことを第一の目的として刺鍼する。

 外後頭隆起の下方、腦戸穴・瘂門穴に深刺しして、脳に中ると即死であるとの記載は、当時から脳の重要性を一定認識していることが知れる。

 にもかかわらず、内経医学では脳は腎精の余りであるとして、さほど重要視していないのは、重要である。

 そして東洋医学では、生命の中枢は脳ではなく、五臓に求めている。

 西洋医学とは、人体観・生命観が異なるためである。

 実際の臨床において、現代医学的に脳の疾患と診断されたものであっても、五臓の虚実を調えることで治癒した筆者の臨床症例は、数えてはないがかなり存在する。

 現代医学的病名は、参考にはなるが東洋医学とは世界が異なる。

 現象として現れている症状を無視するのではないが、それにとらわれず全体性の回復を図り、結果として症状が消失するのが東洋医学の基本的な視点であることを、再確認しておきたい。

 



原 文 意 訳

 黄帝が問うて申された。願わくば、刺鍼に際しての禁忌を聞きたいのであるが。

 岐伯が申された。

 臓には要害となるところがございますので、必ずこれらを知っておかなくてはなりません。

 肝の気は、左に生じまして、肺の気は右に蔵されております。

 心の気は、表在部を流れており、腎の気は深在部を流れて諸臓を治めております。


 脾は土で中央でありますれば、他の四臓それぞれの必要に応じて気血を送り、胃は水穀五味が聚る所であります。

 膈の上は、人体の父母である心肺があり、七節下・至陽穴の傍ら膈兪穴には、心の気の根である腎気が昇ってきております。

 これらのことを十分にわきまえて治療すれば福とすることが出来ますが、そうでなければ咎を負うことになります。

 もし、刺して心に中れば一日で死し、その変動は噫(おくび)となって現れます。

 同様に、刺して肝に中れば五日で死し、その変動はやたらと多言となって現れます。

 刺して腎に中れば、六日で死し、その変動は嚔(くさめ=くしゃみ)となって現れます。

 刺して脾に中れば、十日で死し、その変動は呑(どん)、つまり嚥下困難な状態に現れます。

 刺して胆に中れば、一日半で死し、その変動は、嘔(おう)、つまり吐き気となって現れます。

 刺して足の甲の大きな脉に中りますと、出血が止まらず死します。

 刺して顔面の脉の支別が浮いて見える溜脉に中りますと、不幸にして失明致します。

 刺して頭の腦戸に中りますと、鍼が脳に入って即死致します。

 刺して舌下の脉に中り、それが大いに過ぎますと出血が止まらなくなり、瘖(いん)、つまり言語障害になります。

 足下に分布する絡を刺し、脉に中ってしまうと、内出血となるので腫れて参ります。

 郄中、つまり委中穴の大脉に中りますと、顔面の気色を失い昏倒致します。

 気街、つまり気衝穴に刺して脉に中り、出血しない場合は鼠蹊部が腫れます。

 椎間を刺し、髄に中りますとせむしとなります。

 乳の上を刺して乳房に中りますと、腫れて内部から腐って参ります。

 缺盆穴の中を刺し、深刺しすると気が泄れ、あえぎながら咳をするようになります。

 手の魚腹を刺し、深刺しすると腫れて参ります。

 大いに酒に酔っているものを刺してはなりません。陽気過多であるので、気が乱れて収拾がつかなくなります。

 大いに起こっているものを刺してはなりません。怒気で上逆しているのが、さらにひどくなります。

 その他、疲労困憊している人、食後満腹となっている人、大いに餓えている人、大いに渇している人、大いに驚いて気が乱れている人、これらの人は、刺してはなりません。

 ですので、疲労困憊している人はしばらく休ませ回復を待ち、満腹の人は飲食が臓腑になじむのを待ち、餓えているものは少し食を進め、渇しているものは少し飲水をさせ、驚いて乱れている気が落ち着つくのを待ってからなど、刺鍼までには工夫が必要であります。

 陰股、つまり股の内側を刺して大脉に中り、出血が止まらなければ死します。

 客主人(上関)穴を深刺して脉に中りますと、頭内の気が漏れ、聾となります。

 膝蓋骨を刺し、液が出るとビッコとなります。

 腕の太陰脉を刺し、出血が多いと、たちどころに死します。

 すでに虚している足少陰を刺し、重ねて出血させて虚となりますと、舌が思うように動かなくなり言葉も話せなくなります。

 胸を深刺しし、肺に中りますと喘いで仰向けになって呼吸するようになります。

 肘窩を深刺し、気が鬱滞すると肘の屈伸が出来なくなります。

 大腿内側の下三寸を深刺しすると、小便を失禁するようになります。

 少腹を刺し、膀胱に中りますと腹腔内に小便が流出し、少腹が満となります。

 ふくらはぎを深刺しすると、その部位が腫れます。

 眼窩を刺して、脉に中りますと、涙が漏れ出たり失明致します。

 関節を刺し、液が出ると屈伸できなくなります。 



原文と読み下し

黄帝問曰.願聞禁數.

岐伯對曰.

藏有要害.不可不察.

肝生於左.

肺藏於右.

心部於表.

腎治於裏.

脾爲之使.

胃爲之市.

鬲肓之上.中有父母.七節之傍.中有小心.從之有福.逆之有咎.


黄帝問うて曰く。願わくば禁數を聞かん。

岐伯對して曰く。

藏に要害有り。察せざるべからず・

肝は左に生ず。

肺は右に藏す。

心は表に部す。

腎は裏に治まる。

脾はこれが使たり。

胃はこれが市たり。

鬲肓の上、中に父母有り。七節の傍、中に小心あり。これに從えば福有り。これに逆えば咎有り。 


刺中心.一日死.其動爲噫.

刺中肝.五日死.其動爲語.

刺中腎.六日死.其動爲嚔.

刺中肺.三日死.其動爲欬.

刺中脾.十日死.其動爲呑.

刺中膽.一日半死.其動爲嘔.


刺して心に中れば、一日にて死す。其の動は噫を爲す。

刺して肝に中れば、五日にて死す。其の動は語を爲す。

刺して腎に中れば、六日にて死す。其の動は嚔を爲す。

刺して肺に中れば、三日にて死す。其の動は欬を爲す。

刺して脾に中れば、十日にて死す。其の動は呑を爲す。

刺して膽に中れば、一日半にて死す。其の動は嘔を爲す。


刺跗上.中大脉.血出不止死.

刺面中溜脉.不幸爲盲.

刺頭中腦戸.入腦立死.

刺舌下中脉太過.血出不止.爲瘖.

刺足下布絡中脉.血不出.爲腫.

刺郄中大脉.令人仆脱色.

刺氣街中脉.血不出.爲腫鼠僕.

刺脊間.中髓.爲傴.

刺乳上.中乳房.爲腫根蝕.

刺缺盆中.内陷氣泄.令人喘欬逆.

刺手魚腹.内陷爲腫.


跗上を刺して大脉に中れば、血出でて止ざれば死す。

面を刺して溜脉に中れば、不幸なるは盲を爲す。

頭を刺して腦戸に中れば、腦に入れば立ちどころに死す。

舌下を刺して脉に中ること太過なれば、血出でて止まざれば、瘖となる。

足下の布絡を刺して脉に中り、血出でざれば、腫となる。

郄中の大脉を刺せば、人をして仆(たお)れ色脱せしむ。

氣街を刺し脉に中りて、血出でざれば、鼠僕は腫となる。

脊間を刺し、髄に中れば、傴(く)となる。

乳上を刺し、乳房に中れば、腫れて根蝕む。

缺盆の中を刺し、内陷して氣泄れれば、人をして喘し欬逆せしむ。

手の魚腹を刺して、内陷すれば腫となる。 


無刺大醉.令人氣亂.

無刺大怒.令人氣逆.

無刺大勞人.

無刺新飽人.

無刺大饑人.

無刺大渇人.

無刺大驚人.


大醉を刺すこと無かれ。人をして氣亂れしむ。

大怒をを刺すこと無かれ。ひとをして氣逆せしむ。

大勞の人を刺すこと無かれ。

新飽の人を刺すこと無かれ。

大饑の人を刺すこと無かれ。

大渇の人を刺すこと無かれ。

大驚の人を刺すこと無かれ。 


刺陰股中大脉.血出不止死.

刺客主人.内陷中脉.爲内漏.爲聾.

刺膝髕.出液爲跛.

刺臂太陰脉.出血多.立死.

刺足少陰脉.重虚出血.爲舌難以言.

刺膺中.陷中肺.爲喘逆仰息.

刺肘中.内陷氣歸之.爲不屈伸.

刺陰股下三寸.内陷.令人遺溺.

刺掖下脇間.内陷.令人欬.

刺少腹.中膀胱溺出.令人少腹滿.

刺腨腸.内陷.爲腫.

刺匡上.陷骨中脉.爲漏爲盲.

刺關節中.液出.不得屈伸.


陰股を刺し大脉に中り、血出でて止まざれば死す。

客主人を刺し、内陷して脉に中れば、内漏を爲し、聾となる。

膝髕(しつひん)を刺し、液出ずれば跛(は)となる。

臂の太陰の脉を刺し、出血多ければ、立ちどころに死す。

足の少陰の脉を刺し、重ねて虚し血出だせば、舌言うを以て難きを爲す。

膺中を刺し、陷して肺に中れば、喘逆し仰息となる。

肘中を刺し、内陷し氣これに歸すれば、屈伸せざるを爲す。

陰股の下三寸を刺し、内陷すれば、人をして遺溺せしむ。

掖下脇間を刺し、内陷すれば、人をして欬せしむ。

少腹を刺し、膀胱に中りて溺出ずれば、人をして少腹滿せしむ。

腨腸(せんちょう)を刺し、内陷すれば、腫を爲す。

匡上(きょうじょう)の陥骨を刺して脉に中れば、漏を爲し盲を爲す。

關節の中を刺し、液出ずれば、屈伸を得ず。 


 鍼専門 いおり鍼灸院


刺齊論篇第五十一.

梅雨明けが待ち遠しい

 本篇『刺齊論』は、前篇「刺要論」の続編となっている。筆者の考えは、前編ですでに述べているので、特筆すべき事柄はない。

 ただ、なぜ『刺齊論』として別に論じているのだろうという漠然とした疑問は残る。

 『刺齊論』の齊の文字は、古代祭壇の前で奉仕することを意味している。

 そこから、心身を清めて慎む意味となった経緯を思うと、患者を目の前にして術者は心身を清め、つつしんで鍼の深浅を図らなければならないということなのであろうか。




原文意訳



 黄帝が問うて申された。願わくば、刺鍼の深浅の区別を聞きたいのであるが。

 それに対して岐伯が申された。

 骨を目標として刺鍼する場合には、肉を傷ってはなりません。

 同様に筋を刺すには肉を、肉を刺すには脉を、脉を刺す場合には皮を、皮を刺すには肉を、肉を刺すには筋を、筋を刺すには骨をそれぞれ傷ってはならないのであります。

 帝が申された。余は未だその言わんとする所の意味がいまひとつよく分からない。

 願わくば、言わんとする所をさらに解いて頂きたいのであるが。

 岐伯が申された。

 骨を刺して筋を傷ること無かれと申しますのは、鍼が筋に至ったところで去ってしまい、骨に及ばないことを申します。

 同様にそれぞれ筋を目標に刺し肉には至ったところで去ってしまい筋に及ばず、

 肉を目標に刺し脉に至ったところで去ってしまい肉に及ばず、

 脉を目標に刺し皮に至ったところで去ってしまい脉に及ばない、ということであります。

 つまり、浅すぎるのであります。

 いわゆる、皮を刺して肉を傷ること無かれと申しますは、病邪が皮の表在部にあれば、鍼もまた浅く皮の部分を刺して肉を傷ってはならないのであります。

 また、肉を刺して筋を傷ること無かれと申しますは、病邪の存在する肉を過ぎて深刺しすると筋に中って障害してしまいます。

 同様に、筋を刺して骨を傷ること無かれと申しますは、病邪の存在する筋を過ぎて深刺しすると、骨に中って障害してしまいます。つまり深すぎるのであります。

 以上、謹んで鍼の深度を考慮せず刺鍼することを、道理に反すると申すのであります。





原文と読み下し

黄帝問曰.願聞刺淺深之分.

岐伯對曰.

刺骨者無傷筋.

刺筋者無傷肉.

刺肉者無傷脉.

刺脉者無傷皮.

刺皮者無傷肉.

刺肉者無傷筋.

刺筋者無傷骨.


黄帝問いて曰く。願わくが刺の淺深の分を聞かん。

岐伯對して曰く。

骨を刺す者は、筋を傷ること無かれ。

筋を刺す者は、肉を傷ること無かれ。

肉を刺す者は、脉を傷ること無かれ。

脉を刺す者は、皮を傷ること無かれ。

皮を刺す者は、肉を傷ること無かれ。

肉を刺す者は、筋を傷ること無かれ。

筋を刺す者は、骨を傷ること無かれ。


帝曰.余未知其所謂.願聞其解.

岐伯曰.

刺骨無傷筋者.鍼至筋而去.不及骨也.

刺筋無傷肉者.至肉而去.不及筋也.

刺肉無傷脉者.至脉而去.不及肉也.

刺脉無傷皮者.至皮而去.不及脉也.


帝曰く。余は未だ其の謂う所を知らず。願わくば其の解を聞かん。

岐伯曰く。

骨を刺して筋を傷ること無かれとは、鍼筋に至りて去れば、骨に及ばざるなり。

筋を刺して肉を傷ること無かれとは、肉に至りて去れば、筋に及ばざるなり。

肉を刺して脉を傷ること無かれとは、脉に至りて去れば、肉に及ばざるなり。

脉を刺して皮を傷ること無かれとは、皮に至りて去れば、脉に及ばざるなり。



所謂

刺皮無傷肉者.病在皮中.鍼入皮中.無傷肉也.

刺肉無傷筋者.過肉中筋也.

刺筋無傷骨者.過筋中骨也.此之謂反也.


所謂

皮を刺して肉を傷ること無かれとは、病皮中に在り、鍼皮中に入れば、肉を傷ること無きなり。

肉を刺して筋を傷ること無かれとは、肉を過れば筋に中るなり。

筋を刺して骨を傷ること無かれとは、筋を過れば骨に中るなり。此れ之を反と謂うなり。


 鍼専門 いおり鍼灸院






刺要論篇第五十.

梅雨と言えば紫陽花

 本篇は、刺鍼に際しての基本的な深度について述べられている。

 <素問・金匱真言論篇、宣明五気篇>に記されている五主(皮・肉・脉・筋・骨髄)を例に挙げて、どこを狙って針先を進めるのかを説いている。

 ちなみに、筆者は五主を目標に鍼を下すことは無い。

 それよりもむしろ、本篇を意訳したように、正邪抗争の場=病位と、生体の正気の状態と邪気の種類、その勢いを念頭にし、刺鍼後の深度は意識に無い。

 あるのは、瀉法であればいかにして邪気を捕まえるか、補法であればいかにして気を集めるか、のみである。

 だた刺鍼は、たとえ補法であっても生体を傷つけるので、「いかに浅く刺すか」「いかに数少なく刺すか」は、よくよく工夫が必要である。

 歴史的に禁鍼穴として禁忌の穴所があるが、いわゆる解剖学的な安全深度を意識しなくてもよい鍼法を目指すのが良いと筆者は考えている。

 諸氏は、如何。


原文意訳

黄帝が問うて申された。願わくば、刺法の要となることを聞きたいのであるが。

 それに対して、岐伯が申された。

 病には、浮沈。つまり正邪が争う病位がございます。従いまして刺法にも深浅がございまして、その時々において正邪の状態と病位を捉えて、浅すぎず深すぎず的確に刺すのであります。

 病位を過ぎますと、裏であります身体内部の気が傷れますし、及ばざれば身体の浅いところに鬱滞を生じますので、そこに反って邪が聚るようになります。

 病位をわきまえずに刺鍼しますと、良くしてあげようという気持ちで行ったとしても大きな害を与える大賊となってしまいます。そうなると五臓六腑の気は動じて正常に機能しなくなり、後々大病を生じてしまうのであります。

 ですから、以下のように言うのであります。

 病が毫毛・腠理に在るもの、皮膚に在るもの、肌肉に在るもの、脈に在るもの、筋に在るもの、骨に在るもの、髄に在るものがあります。

 このようでありますから、毫毛・腠理を刺す場合は皮を傷ってはなりませんし、皮を傷ってしまいますと肺の気が動じて秋に温瘧の病となり、ゾクゾクとして振るえるかのような悪寒症状が現れます。

 皮を刺す場合は、肉を傷ってはなりません。肉を傷ってしまいますと脾の気が動じ、四季の終わりの土用十二日間、合計七十二日に腹が脹満して煩悶する病が現れ、食欲もなくなります。

 肉を刺す場合は、脉を傷ってはなりません。脉を傷ってしまいますと心の気が動じ、夏になりますと心痛の病が現れます。

 脉を刺す場合は、筋を傷ってはなりません。筋を傷ってしまいますと肝の気が動じ、春になりますと熱を生じて筋がだらりと弛む病が現れます。

 筋を刺す場合は、骨を傷ってはなりません。骨を傷ってしまいますと腎のきが動じ、冬になりますと腹が脹り、腰痛がする病が現れます。

 骨を刺す場合は、髄を傷ってはなりません。髄を傷ってしまいますと次第に髄が溶け出して漏れてしまい、脛は重だるくなり、身体もまた重だるくて動けなくなる感覚が、いつまで経っても去らない病が現れます。




原文と読み下し

黄帝問曰.願聞刺要.
岐伯對曰.
病有浮沈.刺有淺深.各至其理.無過其道.
過之則内傷.不及則生外壅.壅則邪從之.
淺深不得.反爲大賊.内動五藏.後生大病.

黄帝問いて曰く。願わくば刺要を聞かん。
岐伯對して曰く。
病に浮沈有り、刺に淺深有り。各おの其の理に至りて、其の道を過ぐることなかれ。
これを過ぐれば則ち内傷り、及ばざれば則ち外に壅を生ず。壅すれば則ち邪これに從う。
淺深を得ざれば、反って大賊を爲し、内は五藏動じ、後に大病を生ず。



故曰.
病有在毫毛腠理者.
有在皮膚者.
有在肌肉者.
有在脉者.
有在筋者.
有在骨者.
有在髓者.


故に曰く。
病毫毛腠理に在る者有り。
皮膚に者在る者有り。
肌肉に者在る者有り。
脉に者在る者有り。
筋に者在る者有り。
骨に者在る者有り。
髓に者在る者有り。


是故刺毫毛腠理無傷皮.皮傷則内動肺.肺動.則秋病温瘧.泝泝然寒慄.
刺皮無傷肉.肉傷則内動脾.脾動.則七十二日四季之月.病腹脹煩.不嗜食.
刺肉無傷脉.脉傷則内動心.心動.則夏病心痛.
刺脉無傷筋.筋傷則内動肝.肝動.則春病熱而筋弛.
刺筋無傷骨.骨傷則内動腎.腎動.則冬病脹腰痛.
刺骨無傷髓.髓傷則銷鑠䯒酸.體解㑊然不去矣.


是の故に、毫毛腠理を刺すに皮を傷ることなかれ。皮傷るれば則ち内は肺を動ず。肺動ずれば則ち秋に温瘧を病み、泝泝(そそ)然として寒慄す。
皮を刺すに肉を傷ることなかれ。肉傷るれば則ち内は脾を動ず。脾動ずれば則ち七十二日四季の月、腹脹煩を病み、食を嗜なまず。
肉を刺して脉を傷ることなかれ。脉傷るれば則ち内は心動ず。心動ずれば則ち夏に心痛を病む。
脉を刺すに筋を傷ることなかれ。筋傷るれば則ち内は肝動ず。肝動ずれば則ち春に熱して筋弛むを病む。
筋を刺すに骨を傷ることなかれ。骨傷るれば則ち内は腎動ず。腎動ずれば則ち冬に脹腰痛を病む。
骨を刺すに髓を傷ることなかれ。髓傷るれば則ち銷鑠(しょうしゃく)して䯒(こう)酸し、體は解㑊(かいえき)然として去らざるなり。


 鍼専門 いおり鍼灸院

脉解篇第四十九.




 本篇の表題は「脉解」であるので、経脉の変動、つまり偏盛・偏衰した場合の病症について解説したものと理解される。

 ところが、経脉の変動が主たる原因ではなく、あくまで臓腑そのものが原因で、臓腑の状態が経脉に現れた状態を解説したものと捉えるのが正確だと考える。

 逆に、経絡だけが単体で変動するかのように捉えるのは、この医学が全体性を重視している視点からは、外れることになる。

 また六経の月の配当が他の諸篇とことなっているが、筆者の力量では、残念ながら正誤を判断するには至らない。

 ただ、天人合一思想を踏まえ、この篇に記載された自然界の気の盛衰と人体とを相関させ、想像力をたくましくして、具体的に人体の気の偏在をイメージできるように意訳を試みた。

 諸氏のご意見を、期待しております。





原 文 意 訳



 足太陽には腰が腫れて痛む病証がある。


  正月は太陽寅(いん)の月で、正月は陽気が上に生じ始める時期である。しかし、陰気はまだ盛んであるために、陽気は自ずと伸びやかになれないものである。

 このように、太陽の陽気が伸びやかになれず、内に鬱するので腰が腫れしかも痛むのである。

 身体の左右が偏って虚となり、びっことなる病証がある。

 正月は天の陽気が生じ始め、地気の凍りついているところを日の当たる西から融かし、西から地気の陽気が昇る。

 びっことなるのは、冬が寒く、正気がすこぶる不足し、偏った天の気に対応することが出来ないので偏枯してびっことなるのである。

 いわゆる上半身が強ばり背が引きつるのは、陽気が大いに昇り抜けて行かず鬱滞して争うために強ばり引きつるのである。

 いわゆる耳鳴りは、自然界の陽気が高まると気が昇って躍るかのように、人体の陽気も上部に昇り聚るために耳鳴りがするのである。

 いわゆる陽気が盛んに過ぎて狂躁や癲癇の疾を起こす者は、陽気がことごとく上部に集中し、陰気は下に集中して陰陽・上下が交流せず、上実下虚となっているからである。

 いわゆる気が上に浮けば聾となる者も、すべては陰陽の気の失調である。

 いわゆる陽気が中に入り言葉がスラスラでない瘖(いん)となるのは、盛んであった陽気が中に籠って張り出すことが出来ず、あたかもすでに正気が衰えたかのようになるためである。

 何らかの原因で、内の精気が奪すれば手足が冷えあがる厥となり、瘖となり手足の自由も利かなくなる。

 これは、腎虚のためであり、少陰の陽気が四肢に達しないので厥するのである。

 少陽のいわゆる心脇が痛むのは、少陽が盛んに過ぎたものが、心に表れたからである。

 九月は、天の陽気が尽きて陰気が盛んなので、少陽の気が鬱しやすく脇から腋下にその累が及ぶため心脇が痛むのである。

 いわゆる寝返りが出来ないのは、陰気が万物に収蔵して動かなくなるように、少陽の気が内に鬱するためである。

 いわゆる少陽の気が盛んに過ぎて躍るかのようになるのは、九月は万物がことごとく衰え、草木もまた枯れ落ちて、高いところから低いところに落ちて舞うかのごときに相関する。

 少陽の気が盛んであり、しかも万物が収斂して下に降りれば、人体の陽気もまた下って長じるので、まるで躍っているかのようになるのである。

 陽明のいわゆる水を浴びたかのように振寒する病証がある。

 陽明は正午であり一年では五月である。五月は陽気が盛んであると当時に陰気が生じてこれに加わるので、急に水を浴びたかのように振寒するのである。

 いわゆる脛が腫れ股を閉じることができないのも、五月になると盛んであった陽気が次第に衰え、一陰の気が昇って上部で陽気と争い始め、下に陽気が降りなくなるので脛が腫れて股を閉じることができなくなったからである。

 いわゆる上部では喘ぎと水飲の邪を生じることがある。

 陰気は本来下に降るのである。ところが昇りっぱなしとなると陰気は臓腑の間に停滞して水飲の邪となり、肺気に迫るので喘ぐのである。

 いわゆる胸痛して呼吸が浅く息切れするのは、水飲の邪が臓腑に在り、肺気に迫るためである。

 いわゆる甚だしいと手足が冷えあがる厥となり、人と火を嫌い、木を打つかん高い音を聞くと驚いて動揺するのは、陰陽・上下・水火の気が互いに迫って緊張して交わらないためである。

 いわゆる部屋の戸や窓を閉め切ってひとりで居たがるのは、陰陽の気が迫り緊張していたのが、陽気が尽きてしまい、陰気が盛んとなり、陰陽が消長しないためである。

 いわゆる発作的に高いところに登って歌ったり衣服を脱ぎ捨てて走り出すのは、陰陽・内外の気が交流せず、大きく外に偏って熱を生じたためである。

 いわゆる邪が孫絡に侵入すると、頭痛・鼻詰まりを起こし、お腹まで腫れることがある。

 陽明の気は、顔面に結集しているので頭痛・鼻詰まりを起こすのであるが、孫絡で太陰と繋がっているので腹まで腫れるのである。

 太陰の諸症で、いわゆる脹を病むのは、太陰は子(ね)の月である十一月に相当し、万物は全て内部に蔵される時期であるためである。

 いわゆる心に上走して噫(い=おくび)となるのは、陰が盛んであるため胃の気が下ることが出来ず、心に属している陽明の絡脉を逆走するからである。

 いわゆる物を食して吐き気がするのは、すでに脾胃に物がいっぱいである所にさらに食したため、胃気が下ることが出来ず、上に溢れるようになったからである。

 いわゆる快便と放屁があると、すっきりとして心地よくなるのは、十二月ともなると陰気が衰え陽気が生じ始める時に相当するので、濁氣を排泄すると陽気が通じて軽快になるからである。

 いわゆる少陰が腰痛の原因となるのは、十一月は万物の陽気が全て敗れてしまうからである。ちなみに、少陰とは腎のことである。

 いわゆる吐き気がして咳をし、上気して喘ぐのは、陰気は下に在り、陽気は上に在るために、諸陽の気もまた浮いてしまい、依り従う根となるところを失ってしまったからである。

 いわゆる、居ても立ってもいられないような精神不安の状態で、長く立ったり坐ったり出来ず、起き上がると目の前がぼんやりとして物がはっきりと見えないという症状がある。

 それはあたかも秋気が至り始め、微かに霜が下り始めると、まさに万物はこの粛殺の気を受けて枯れ始めることに相関する。

 つまり陰陽の気が内から奪し、陰陽の気が定まらなくなるので上記の症状が現れるのである。

 いわゆる呼吸が微弱で息切れしやすい少気であるにもかかわらずよく怒るのは、秋気の収斂の気により、陽気が伸びやかに外に張り出すことが出来ないためである。

 陽気、とりわけ肝気が内に鬱して治まらないために、少気が現れるがこれは実であり、しかも怒気によって上から陽気を発しようとするのでよく怒るのである。これを煎厥というのである。

 いわゆる今にも人に捕えられるかのように恐れるのは、秋の粛殺の気が完全に万物の陽気を奪い去り切れていあにからである。
 陰気はまだ少なくてもこれから次第に盛んになり、、段々と滅ぼされる陽気は追われて内に入ろうとし、陰気が陽気を段々と追い込んでいくので、恐れるようになるのである。

 いわゆる食臭を嗅ぐのを嫌がるのは、胃の気が無くなり、鬱して熱を生じているために、陽の気である臭気を嫌がるのである。

 いわゆる顔色が大地のように黒くなるのは、秋の粛殺の気が陽気を奪い大地に返そうとするので、陰気である大地の色と変化するのである。

 いわゆる咳をして出血するのは、陽脉が傷れたためである。

 陽気が上部に盛んでないのに脉だけが満ちているのは、陰裏に陽気が鬱しており、その鬱した陽気の勢いが強ければ上に衝き上げて咳となり、脉を破って鼻から出血するからである。

 いわゆる厥陰による㿗疝=陰嚢腫大と婦人の少腹が腫れる病がある。

 厥陰は辰(しん)で三月に当る。

 この三月は少陽の気が発し始める陽中の陰の時期であり、冬の閉蔵によって既に生じている邪はまだ内部に潜んでいる。

 それが少陽の気の動きと同時に動き出すので、このような病を生じるのである。

 いわゆる腰脊が痛んでうつ伏せになったり仰向けになることも出来なくなる病証がある。

 これは三月発陳の気が盛んとなると万物は次第に花咲き栄えるが、何らかのことで一度枯れ萎(しお)れると再び伸びることが出来ないことに相関する。

 いわゆる㿗・癃・疝(陰嚢腫大や尿閉)、皮膚が脹れるのは、陰邪が盛んに過ぎて脈道を塞ぎ、鬱滞して通じなくなるためである。

 いわゆる甚だしいと喉が渇き、熱が体内に留まる熱中となることがあるが、これは少陽の気が伸びやかになれないために、陰陽の気もまた内に鬱して熱化するからである。




原文と読み下し



太陽所謂腫腰月隹者.正月太陽寅.寅太陽也.正月陽氣出在上.而陰氣盛.陽未得自次也.故腫腰

月隹痛也.

病偏虚爲跛者.正月陽氣凍解地氣而出也.所謂偏虚者.冬寒頗有不足者.故偏虚爲跛也.

所謂強上引背者.陽氣大上而爭.故強上也.

所謂耳鳴者.陽氣萬物盛上而躍.故耳鳴也.

所謂甚則狂巓疾者.陽盡在上.而陰氣從下.下虚上實.故狂巓疾也.所謂浮爲聾者.皆在氣也.

所謂入中爲瘖者.陽盛已衰.故爲瘖也.

内奪而厥.則爲瘖俳.此腎虚也.

少陰不至者.厥也.


太陽に所謂腰腫れ月隹(すい)痛むとは、正月は太陽寅、寅は太陽なり。正月は陽氣出で上に在りて陰氣盛ん。陽は未だ自ずと次いでするを得ざるなり。故に腰腫れ月隹痛むなり。
病偏虚して跛を爲す者は、正月に陽氣、地氣を凍解して出づるなり。所謂偏虚なる者は、冬の寒に頗る不足有る者なり。故に偏虚して跛を爲すなり。
所謂上に強りて背に引く者は、陽氣大いに上りて爭す。故に上に強ばるなり。
所謂耳鳴る者は、陽氣萬物上に盛んにして躍(おど)る。故に耳鳴るなり。
所謂甚だしければ則ち狂巓疾する者は、陽盡(ことごと)く上に在りて、陰氣は下に從う。下虚して上實す。故に狂巓疾なり。所謂浮(うか)みて聾を爲す者は、皆氣に在るなり。
所謂中に入り瘖を爲す者は、陽盛んにして已に衰う。故に瘖を爲すなり。
内奪して厥すれば、則ち瘖俳を爲す。此れ腎虚するなり。
少陰至らざる者は、厥するなり。


少陽所謂心脇痛者.言少陽盛也.盛者心之所表也.九月陽氣盡.而陰氣盛.故心脇痛也.

所謂不可反側者.陰氣藏物也.物藏則不動.故不可反側也.

所謂甚則躍者.九月萬物盡衰.草木畢落而墮.則氣去陽而之陰.氣盛而陽之下長.故謂躍.


少陽に所謂心脇痛むとは、少陽盛んと言うなり。盛んなる者は心の表する所なり。九月陽氣盡(つ)きて、陰氣盛ん。故に心脇痛むなり。
所謂反側すべからざる者は、陰氣物に藏す。物に藏さば則ち動せず。故に反側すべからざるなり。
所謂甚だしければ則ち躍る者は、九月萬物盡く衰え、草木畢(ことごと)く落ちて墮(おつ)れば則ち

氣陽を去りて陰に之(ゆ)く。氣盛んにして陽下に之きて長ず。故に躍ると謂う。


陽明所謂洒洒振寒者.陽明者午也.五月盛陽之陰也.陽盛而陰氣加之.故洒洒振寒也.

所謂脛腫而股不收者.是五月盛陽之陰也.陽者衰於五月.而一陰氣上.與陽始爭.

故脛腫而股不收也.

所謂上喘而爲水者.陰氣下而復上.上則邪客於藏府間.故爲水也.

所謂胸痛少氣者.水氣在藏府也.水者陰氣也.陰氣在中.故胸痛少氣也.

所謂甚則厥.惡人與火.聞木音則愓然而驚者.陽氣與陰氣相薄.水火相惡.故愓然而驚也.

所謂欲獨閉戸牖而處者.陰陽相薄也.陽盡而陰盛.故欲獨閉戸牖而居.

所謂病至則欲乘高而歌.棄衣而走者.陰陽復爭.而外并於陽.故使之棄衣而走也.

所謂客孫脉.則頭痛鼻鼽腹腫者.陽明并於上.上者則其孫絡太陰也.故頭痛鼻鼽腹腫也.


陽明の所謂洒洒(さいさい)として振寒するとは、陽明は午なり。五月は盛陽の陰に之くなり。陽盛んにして陰氣これに加う。故に洒洒として振寒するなり。
所謂脛腫れて股收(おさ)めずとは、是れ五月盛陽の陰に之なり。陽は五月に衰え、しかして一陰の氣上り、陽と始めて爭う。故に脛腫れて股收まらざるなり。
所謂上に喘して水を爲すとは、陰氣下りて復(ま)た上る。上れば則ち邪は藏府間に客す。故に水を爲すなり。
所謂胸痛み少氣するは、水氣は藏府に在るなり。水は陰氣なり。陰氣中に在り。故に胸痛みて少氣するなり。
所謂甚だしければ則ち厥し、人と脾を惡む。木音を聞けば則ち惕然として驚するは、陽氣と陰氣相い薄(せま)り、水火相い惡む。故に惕然として驚するなり。
所謂獨り戸牖(ゆう)を閉じて處せんと欲するは、陰陽相い薄るなり。陽盡きて陰盛ん。故に獨り戸牖を閉じて居さんと欲す。
所謂病至れば則ち高きに乘りて歌い、衣を棄てて走らんと欲する者は、陰陽復た爭いて、外は陽に并す。故にこれをして衣を棄てて走らんと欲するなり。
所謂孫脉に客すれば則ち頭痛し鼻鼽し腹腫れるは、陽明上に并す。上は則ち其の孫絡は太陰なり。故に頭痛し鼻鼽し、腹腫れるなり。


太陰所謂病脹者.太陰子也.十一月萬物氣皆藏於中.故曰病脹.

所謂上走心爲噫者.陰盛而上走於陽明.陽明絡屬心.故曰上走心爲噫也.

所謂食則嘔者.物盛滿而上溢.故嘔也.

所謂得後與氣.則快然如衰者.十二月陰氣下衰.而陽氣且出.故曰得後與氣.則快然如衰也.


太陰の所謂脹を病むとは、太陰は子なり。十一月は萬物の氣皆中に藏す。故に脹を病むと曰く。

所謂上りて心に走りて噫を爲すとは、陰盛んにして上りて陽明に走る。陽明の絡は心に屬す。故に上に走りて噫を爲すと曰く。

所謂食すれば則ち嘔するとは、物盛滿して上に溢る。故に嘔するなり。

所謂後と氣を得れば則ち快然として衰うが如きは、十二月は陰氣下に衰え、陽氣且(まさ)に出ず。故に後と氣を得れば則ち快然として衰うが如しと曰く。



少陰所謂腰痛者.少陰者腎也.十月萬物陽氣皆傷.故腰痛也.

所謂嘔欬上氣喘者.陰氣在下.陽氣在上.諸陽氣浮.無所依從.故嘔上氣喘也.

所謂色色不能久立久坐.起則目 無所見者.萬物陰陽不定.未有主也.秋氣始至.微霜始下.而方殺萬物.陰陽内奪.故目 無所見也.

所謂少氣善怒者.陽氣不治.陽氣不治.則陽氣不得出.肝氣當治而未得.故善怒.善怒者.名曰煎厥.

所謂恐如人將捕之者.秋氣萬物未有畢去.陰氣少.陽氣入.陰陽相薄.故恐也.

所謂惡聞食臭者.胃無氣.故惡聞食臭也.

所謂面黒如地色者.秋氣内奪.故變於色也.

所謂欬則有血者.陽脉傷也.陽氣未盛於上.而脉滿.滿則欬.故血見於鼻也.


※色色 甲乙経 類経 に従い邑邑として意訳する

少陰の所謂腰痛するは、少陰は腎なり。十月は萬物の陽氣は皆傷る。故に腰痛するなり。

所謂嘔欬し上氣して喘ぐは、陰氣下に在り、陽氣上に在り、諸陽の氣は浮いて、依り從う所無し。故に嘔欬し上氣して喘ぐなり。

所謂色色として、久しく立ち久しく坐ずること能わず。起きれば則ち目 として見るところ無きは、萬物の陰陽定まらずして、未だ主有らざるなり。秋氣始ねて至り、微しく霜始めて下る。しかして方に萬物を殺し、陰陽内に奪す。故に目 として見る所無きなり。

所謂少氣し善く怒るは、陽氣治まらず。陽氣治まらざれば、則ち陽氣出るを得ず。肝氣當に治まるべくして未だ得ず。故に善く怒る。善く怒る者は、名づけて煎厥と曰く。

所謂恐れること人の將にこれを捕えんとするが如き者は、秋氣は萬物未だ畢(ことごと)く去ること有らず。陰氣少なく、陽氣入り、陰陽相薄る。故に恐するなり。

所謂食臭を聞きて惡む者は、胃に氣無し。故に食臭を聞きて惡むなり。

所謂面の黒きこと地の色の如き者は、秋氣内に奪す。故に色變ずるなり。

所謂欬すれば則ち血有る者は、陽脉傷れるなり。陽氣未だ上に盛んならずして脉滿つ。滿つれば則ち欬す。故に血鼻に見るなり。



厥陰所謂㿗疝.婦人少腹腫者.厥陰者辰也.三月陽中之陰.邪在中.故曰疝少腹腫也.

所謂腰脊痛不可以俛仰者.三月一振榮華.萬物一俛而不仰也.

所謂㿗癃疝膚脹者.曰陰亦盛.而脉脹不通.故曰㿗癃疝也.

所謂甚則嗌乾熱中者.陰陽相薄而熱.故嗌乾也.

厥陰の所謂㿗疝(たいせん)し、婦人少腹腫れるは、厥陰は辰なり。三月は陽中の陰、邪は中に在り。故に㿗疝少腹腫れると曰くなり。

所謂腰脊痛みて以て俛仰(ふぎょう)すべからずとは、三月一たび振いて萬物を榮華するも、一たび俛して仰せざるなり。

所謂㿗癃(たいりゅう)疝して膚脹れるとは、陰も亦た盛んにして、脉脹りて通ぜざるを曰うなり。故に㿗癃疝と曰うなり。

所謂甚だしければ則ち嗌乾きて熱中するとは、陰陽相薄りて熱す。故に嗌乾くなり。


 鍼専門 いおり鍼灸院




大奇論篇第四十八.


冬と緑と赤
本篇では、脉証から病証を論じているが、気血の盛衰と病邪の位置を連想しながら読み進めても、判然としないところが多々ある。

 ここで記されている脉証は、多分に主観的なものであるが、本来言葉で伝えることのできないものを、何とか伝えようとしている古人の思いが伝わってくるようであった。

 人の生くべき者か死すべき者かを判断し、生きるべきものを生かすことは、至難の業である。

 冒頭に記されている肝滿、腎滿、肺滿とは、すべて気滞を起こしている状態である。

 推測される病因は、外邪、飲食の不節、七情内鬱が考えられる。

 これ以外に、一体何を推測することが出来ようか。

 先ずは陰陽を分かち、さらに陰中の陰陽、陽中の陰陽へと分け入ると、次第に見えてくる。

 筆者は、そのように考えている。



原 文 意 訳

 何らかの原因で、肝滿、腎滿、肺滿となり、それぞれの臓気が鬱滞いたしますと、腫を生じます。

 肺気が塞がりますと、喘ぐようになり左右の腋下が満となります。

 肝気が塞がりますと、左右の腋下が満となり、寝ようとしても気が高ぶったかのようになり、ちょっとしたことでハッと驚くようになり、小便も出なくなります。

 腎気が塞がりますと、足元から少腹にかけて浮腫が生じ、左右の脛は偏って浮腫み、股から下はびっこを引き、半身不遂のようになりやすくなります。

 心脉が満で大であれば、意識障害を起こして引きつけ、筋肉も痙攣する。

 肝脉が小で急であれば、同じく意識障害を起こして引きつけ、筋肉も痙攣する。

 肝脉がにわかに大きく乱れるのは、驚くようなことがあったからであり、反って脉が触れ難く、言語が出なくなる者は、脉が出てくれば自然と治るものである。

 腎脉、肝脉、心脉共に小で急であり、時として拍動を触知できないのは、腹部に邪実となるものがあり、腫瘍である瘕を生じる。

 肝と腎の脉がともに沈であるのは、身体下部に気が落ち込んで水が停滞し、浮腫を起こす石水となります。


 また共に浮でありますと、身体上部に気が昇って水が停滞し、浮腫みを起こす風水となります。

 さらに、共に虚でありますと、死に至り、共に小で弦でありますと、ちょっとしたことで驚くようになります。

 腎脉と肝脉が共に大で急沈であれば、生殖器が腫れ痛む疝となる。

 心脉が、滑で急を拍てば、心疝となり、肺脉が沈を拍つと肺疝となる。

 三陽が急であれば、腹中にしこりを生じる瘕となり、三陰が急であれば、腹部が痛む疝となり、二陰が急であれば、意識障害を起こす癎厥となり、二陰が急であれば、ハッとして驚きやすくなる。

 脾脉が沈んでいながら外に張り出すように拍つのは、痢疾であるである腸辟で、外に出ようとするものが出ている姿であるから、痢疾が久しくても自然と治まるのである。

 肝脉が小で緩であれば、これもまた腸壁であるが、邪がある程度出ている姿であるので、治りやすいのである。

 腎脉が小で沈を拍っていれば、腸辟でしかも下血し、出血が温かく感じさらに身体が熱するものは、下血が止まらずに死します。

 心肝による腸辟もまた、下血しますが、二臓が同時に病む者は治療すべきであります。しかし脉が小で沈濇で、身体が熱するものは死します。熱が現れて七日で死するものです。

 胃脉が沈で濇を拍ち、胃部が外に張り出すように大となり、心脉が小で堅く急であれば、すべて半身不遂となる偏枯となります。


 男子は左に発し、女子は右に発します。

 言葉を発することが出来て舌も回るようであれば、30日で起きることが出来、男子左、女子右に偏枯を発する順証であり、言葉を発することができないものでも三年で起きることができるようになります。しかし20歳未満のものは、3年で死します。

 脉が勢いよく拍ち、鼻から出血して身体が熱する者は、死します。このような場合、脉の去来は浮いて空中に宙ぶらりんな感じがするものであります。

 脉の去来が喘ぐようなものを、暴厥と申します。暴厥と申しますは、相手も言うことも分からなくなる、意識障害のことであります。

 脉の去来が数のようであれば、少しのことでもにわかに驚くようになりますが、三四日もすれば自然に治まります。

 脉の去来が浮いて押し寄せてくる数のような感覚で、一息十至以上であるものは、経気が不足した虚であり、わずかにでもこの脉を見れば、九、十日で死す。

 脉の去来が、木片が火で燃えるかのように盛んで揺らめくように安定しないのは、すでに心の精気が奪しており、草が乾いて枯れる季節に死す。

 脉の去来が、木の葉が散じるかのように無力で頼りないのは、すでに肝の精気の虚であり、木の葉が落ちる季節に死す。

 脉の去来が、訪問客のように起伏するのは、脉が塞がって鼓するのである。これはすでに腎気が不足しており、棗の花が落ちる季節に死す。

 脉の去来が、泥丸のように滑らかでないのは、胃の精気がすでに不足しており、楡の莢(さや)がはじけて落ちる季節に死す。

 脉の去来が、長くて堅く感じるのは、すでに胆気が不足しており、稲が熟するころに死す。

 脉の去来が、弦で細い糸のように感じるのは、すでに膀胱腑の精気が不足しており、病んでよく話すようであれば、霜の降りる頃に死すが、そうでなければ治すことができる。

 脉の去来が、漆が交わるように左右に振れて一定しないものは、わずかでもこの脉を見たならば三十日で死す。

 脉の去来が、涌泉のように浮き上がって肌中で鼓する感じのものは、すでに太陽の経気が不足しており、食物の気味が薄く感じるようであれば、韮の花が咲く季節に死す。

 脉の去来が、土が崩れるかのようであり、これを按じても脉を得ることできないのは、すでに肌気が不足しており、五色の内、先ず黒が現れていれば、葛の若葉が芽吹く季節に死す。

 脉の去来が、ぶらりとした口蓋垂のようであり、浮にして少し押さえれば益々大となるのは、すでに十二経脉の兪穴が不足しており、水が凍る季節に死す。

 脉の去来が、刀の刃のようであり、これを浮にして小急、按じて堅く大にして急であるのは、五藏の積熱で、ひとり腎だけに寒熱が併せ籠っているからである。このような人は、座ることもできず、立春の時に死す。

 脉の去来が、丸のようで滑でありながら捉えどころが無く、これを按じてみても脉を得ることができないのは、すでに大腸の気が不足しており、棗の葉が芽生え始める季節に死す。

 脉の去来が、華のように軽く柔らかいものは、ビクビクとしてよく恐れ、座ったり寝たりすることを好まず、立ち行きて常に聞き耳を立てている。これはすでに小腸の気が不足しており、秋の季節に死す。




原文と読み下し



肝滿.腎滿.肺滿.皆實即爲腫.

肺之雍.喘而兩胠滿.

肝雍.兩胠滿.臥則驚.不得小便.

腎雍.脚下至少腹滿.脛有大小.髀䯒大.跛易偏枯.


肝滿、腎滿、肺滿、皆實すれば即ち腫を為す。

肺の雍は、喘して兩胠滿す。

肝の雍は、兩胠滿し、臥すれば則ち驚し、小便を得ず。

腎の雍は、脚下より少腹に至りて滿し、脛に大小有り。髀䯒大いに跛(は)して偏枯し易し。



心脉滿大.癇瘛筋攣.

肝脉小急.癇瘛筋攣.

肝脉騖暴.有所驚駭.脉不至.若瘖.不治自已.


心脉滿大なるは、癇瘛(かんせい)して筋攣す。

肝脉小急なるは、癇瘛して筋攣す。

肝脉騖暴(ぶぼう)するは、驚駭する所有り、脉至らず、若し瘖するは、治せずして自ら已む。



腎脉小急.肝脉小急.心脉小急不鼓.皆爲瘕.

腎脉小急、肝脉小急、心脉小急にして鼓せざるは、皆瘕と爲す。



腎肝并沈.爲石水.

并浮.爲風水.

并虚.爲死.

并小絃.欲驚.


腎肝并(あわ)せて沈なるは、石水と爲す

并せて浮なるは、風水と爲す。

并せて虚なるは、死と爲す。

并せて小絃なるは、驚せんと欲す。



腎脉大急沈.肝脉大急沈.皆爲疝.

心脉搏滑急.爲心疝.

肺脉沈搏.爲肺疝.


腎脉大にして急沈、肝脉大にして急沈なるは、皆疝となす。

心脉搏(う)つこと滑急なるは、心疝と爲す。

肺脉沈搏(はく)なるは、肺疝と爲す。



三陽急.爲瘕.

三陰急.爲疝.

二陰急.爲癇厥.

二陽急.爲驚.


三陽急なるは、瘕と爲す。.

三陰急なるは、疝と爲す。

二陰急なるは、癇厥と爲す。

二陽急なるは、驚と爲す。



脾脉外鼓沈.爲腸澼.久自已.

肝脉小緩.爲腸澼.易治.

腎脉小搏沈.爲腸澼下血.血温身熱者死.

心肝澼.亦下血.二藏同病者可治.其脉小沈濇.爲腸澼.其身熱者死.熱見七日死.


脾脉外に鼓して沈なるは、腸澼と爲す。久しくとも自ら已む。

肝脉小緩なるは、腸澼と爲す。治し易し。

腎脉小にして搏沈なるは、腸澼下血と爲す。血温し身熱する者は死す。

心肝澼するも、亦た下血す。二藏同じく病む者は治すべし。其の脉小にして沈濇なるは、腸澼と爲す。其の身熱する者は死す。熱見(あら)われて七日にして死す。



胃脉沈鼓濇.胃外鼓大.心脉小堅急.皆※爲(鬲)偏枯.男子發左.女子發右.不瘖舌轉.可治.三十日起.其從者瘖.三歳起.年不滿二十者.三歳死.


胃の脉沈にして濇を鼓す。胃外に鼓して大、心脉小堅にして急なるは、皆偏枯を爲す。男子は左に發し、女子は右に發す。瘖せずして舌轉ずるは、治すべし。三十日にして起つ。其の從なる者は瘖すること三歳なるも起つ。年二十に滿たざる者は、三歳にして死す。



※鬲を爲に改める



脉至而搏.血衄身熱者死.脉來懸鉤浮.爲常脉.

脉至如喘.名曰暴厥.

暴厥者.不知與人言.

脉至如數.使人暴驚.三四日自已.


脉至りて搏ち、血衄し身熱する者は死す。脉の來たること懸鉤にして浮なるは、常脉と爲す。

脉の至るや喘の如きは、名づけて暴厥と曰く。

暴厥なる者は、人と言うを知らず。

脉の至るや數の如きは、人をして暴驚せしむ。三四日にして自ずから已ゆ。



脉至浮合.浮合如數.一息十至以上.是經氣予不足也.微見.九十日死.

脉至如火薪然.是心精之予奪也.草乾而死.

脉至如散葉.是肝氣予虚也.木葉落而死.

脉至如省客.省客者.脉塞而鼓.是腎氣予不足也.懸去棗華而死.

脉至如丸泥.是胃精予不足也.楡莢落而死.

脉至如横格.是膽氣予不足也.禾熟而死.

脉至如弦縷.是胞精予不足也.病善言.下霜而死.不言可治.

脉至如交漆.交漆者.左右傍至也.微見.三十日死.

脉至如涌泉.浮鼓肌中.太陽氣予不足也.少氣味.韭英而死.

脉至如頽土之状.按之不得.是肌氣予不足也.五色先見.黒白壘發死.

脉至如懸雍.懸雍者.浮揣切之益大.是十二兪之予不足也.水凝而死.

脉至如偃刀.偃刀者.浮之小急.按之堅大急.五藏菀熟.寒熱獨并於腎也.如此.其人不得坐.立春而死.

脉至如丸.滑不直手.不直手者.按之不可得也.是大腸氣予不足也.棗葉生而死.

脉至如華者.令人善恐.不欲坐臥.行立常聽.是小腸氣予不足也.季秋而死.


脉の至るや浮合。浮合は數の如し。一息に十至以上。是れ經氣不足に予(くみ)するなり。微しく見われるは、九十日にして死す。

脉の至るや火の薪を然(も)えるが如きは、是れ心精の奪に与するなり。草乾きて死す。

脉の至るや散葉の如きは、是れ肝氣虚に与する也。木の葉落ちて死す。

脉の至るや省客の如し。省客なる者は、脉塞がりて鼓す。是れ腎氣の不足に予するなり。棗華(そうか)を懸去而して死す。

脉の至るや丸泥の如きは、是れ胃精の不足に予するなり。楡莢(ゆきょう)落ちて死す。

脉の至るや横格の如きは、是れ膽氣の不足に予するなり。禾(いね)熟して死す。

脉の至るや弦縷(げんる)の如きは、是れ胞精不足に予するなり。病みて善く言う。霜下りて死す。言わざるは治すべし。

脉の至るや交漆の如し。交漆なる者は、左右傍(かた)より至るなり。微しく見われれば、三十日にして死す。

脉の至るや涌泉の如く、肌中に浮鼓するは、太陽の氣不足に予するなり。氣味少なく、韭の英(はなさき)て死す。

脉の至るや頽土の状の如く、これを按じて得ざるは、是れ肌氣の不足に与するなり。五色先ず黒を見わし白壘(はくるい)を發して死す。

脉の至るや懸雍(けんよう)の如し。懸雍なる者は、浮にしてこれを揣切(しせつ)して益ます大。是れ十二兪の不足に予するなり。水凝りて死す。

脉の至るや偃刀の如し。偃刀なる者は、これを浮べて小急。これを按じて堅にして大急。五藏菀熟(えんじゅく)し、寒熱獨り腎に并(あわ)すなり。此の如きは、其の人坐するを得ざるなり。立春にして死す。

脉の至るや丸の如く、滑にして手に直(あた)らず、手に直らざる者は、これを按じて得べからざるなり。是れ大腸の氣不足に予するなり。棗葉生じて死す。

脉の至るや華の如き者は、人をして善く恐れ、坐臥を欲せざらしむる。行立して常に聽く。是れ小腸の氣不足に予するなり。季秋にして死す。


 鍼専門 いおり鍼灸院

奇病論篇第四十七.




やさしい色

 奇病とは、四季に関連なく生じる病のことである。

 本文中の胞とは、本来袋の意味で用いられており、内経では時に膀胱腑であったり子宮胞を指している。

 さらに本文中の「胞脈」が何を指しているのかは、長年の疑問であった。心の絡脉であると理解してなんら差支え無いと考える。

 さらに別段それに触れているところがないのを斟酌すれば、「胞脈」とは任脈であると考えればすっきりとする。

 長年外に疑問を持ち続けていても、案外足もとで答えの落ちが着くこともあるのだと、少し苦笑している。

 本文の意訳に際しては、例によって歴代の医家の注釈は、あまり取らなかった。

 その代わり、内経以後培われてきた疾病の病理を意識し、筆者なりの臨床経験からイメージされることを交えた。

 先天性の癲癎の病理を改めて読むと、先天的なものは、母体の腎精を乱さないことこそが最も重要である。

 そのためには、妊婦は心神が穏やかである環境こそが、最大の「医者いらず」であることを再確認することとなった。


 また、口の中が甘く感じたり、時に苦く感じる経験をお持ちの方も多いだろうと、ひとり思っている。

 ちなみに口中の甘味は飲食に、苦味は精神的なものが原因となる点を観察した個人の観察眼には、やはり深い敬意を感じる。

 読者諸氏は、いかん。



原 文 意 訳

 黄帝が問うて申された。
 妊娠九か月で、突然声が出なくなり、話すことができなくなるのは、何のためであるのか。
 
 岐伯が申された。
 胞の絡脉が絶するからであります。
 
 帝が申された。
 何を根拠にそのように申すのか。

 岐伯が申された。
 胞絡と申しますは、腎につながっておりまして、少陰の脉は腎を貫いて舌本に繋がっております。ですので、話すことができなくなるのであります。

 帝が申された。
 これを治するには、どのようにすればよいのか。

 岐伯が申された。
 治す必要はありません。十月になれば、自然に回復いたします。

 刺法に、不足をさらに損ない、有余をさらに益し、全身的な病にしてしまい、その後にそれを調えるようであってはならないと述べられております。

 いわゆる不足を損ねてはならないというのは、身体がひどくやつれているものに、を用いて治療してはならないという意味であります。

 また有余を益してはならないというのは、腹中に有形の胎児を流産させることになります。

 流産いたしますと、精気は出てしまい、病となって腹中に、ひとり邪気がほしいままにはびこるようになります。このようにして全身的な病となってしまうからであります。



 帝が申された。
 脇の下がいっぱいになり、気逆して二、三年も治らない病があるが、これは何病であるのか。

 岐伯が申された。
 その病の名は、息積と申します。

 この病は、何を食べても差支えありませんが、鍼灸はよろしくありません。導引、服薬を何度も積み重ねます。薬だけでは、治すことが出来ません。



 帝が申された。
 身体の大腿部、股関節、下腿部の全てが腫れ、臍の周囲が痛むのは、これは何病であるのか。

 岐伯が申された。
 その病の名は、伏梁と申します。これは、風根でありまして、風邪が肺の腑であります大腸に溢れ、身体の胸元の深部に着いてしまいます。

 肺の源は、臍下の腎に在り、大腸の募穴である天枢穴は臍周に在ります。

 従いまして、天蓋であります肺の気と地気であります腎の気は、臍周で引き合い、気滞を起こしますので臍の周囲が痛むのであります。

 ですから痛んでいる臍周をみだりに動じさせてはなりません。これを動じさせますと、天地・上下が不通になり、水気病となって腫れを生じたり、小便の出が渋る病となってしまうからであります。



 帝が申された。
 人の尺中の脉が数で甚だしく、しかも筋が引きつれを現すのは、これは何病であるのか。

 岐伯が申された。
 これはいわゆる疹筋と申しまして、全身の筋が病んでいるのであります。

 このような人の腹もまた、必ず引きつっているものであります。顔の気色に、白と黒の色がはっきりと現れていりますと、病は重篤であります。



 帝が申された。
 頭痛を病んで数年も経つというのに、一向に治らないのは、どうしてこのようにしてなったからであろう。また、これは何病であるのか。

 岐伯が申された。
 これは厳しい寒気に犯された為でありまして、その寒気が深く骨髄にまで侵入したからであります。

 髄と申しますは、脳がその主でありますので、髄から脳に寒邪が上逆いたしますと、頭痛となり、歯もまた痛むのであります。このような病を、厥逆と申します。

 帝が申された。
 なるほど、よく分かった。



 帝が申された。
 ところで、口の中が甘く感じる病があるが、病名は何であるのか。さらにどのしてこのような病になるのであろうか。

 岐伯が申された。
 これは五味の気が盛んになりすぎ、溢れたためであります。これを脾(ひたん)と申します。

 五味が口に入り胃に納まりますと、脾の精気は盛んとなりまして精気を全身に行らすことがことができます。

 胃の津液は、元々脾にありますので、脾気の状態が口内の味覚に現れ、脾に熱がありますと甘く感じさせるのであります。

 このように口内が甘く感じますのは、濃厚な美食が過ぎたことによるものであります。

 このような人は、度々甘美な食事を摂っていますので、肥え太った者が多いのであります。

 肥え太る者は、身体内部に熱を生じさせます。

 しかも甘い物は、腹中の気を停滞させますので、太鼓腹のように満ちております。

 このようにして、中気であります熱をもった脾気が上部に昇って参りますので、口内が甘く感じるだけでなく、やがて内熱のために激しく口が渇き、水を飲めばそのまま小便に出てしまう消渇となるのであります。

 これを治しますには、蘭草を用いまして、腹中に溜まって古くなった気を取り除くのであります。


 帝が申された。
 では、口の中が苦く感じる病があり、陽陵泉穴を取っても治らないのは、何という病名で、どのようにしてなったのであるか。

 岐伯が申された。
 病名は、と申します。

 肝と申しますは、将軍の官でありまして、左右・上下を決する働きは、胆が執り行います。ゴクリとものを飲み込む食道は、その胆の使いであります。

 今、口が苦いと感じる人は、度々謀慮しながら、しかも中々決断することが出来ずに悩んでおるものであります。

 そうしますと次第に胆汁が上に溢れてまいりまして、胆は虚し、しかも口内に苦味を感じるようになって来るのであります。

 これを治するには、胆の募穴もしくは兪穴を取って治すのでありますが、詳細は「陰陽十二官相使(亡失)」の中にございます。



 帝が申された。
 尿が全く出なくなる「閉」という病で、一日に数十回も尿意を感じながら尿が全く出ないのは、単に不足の現象である。

 また身体が炭のように熱し、首と胸が隔てられたかのように閉塞し、人迎の脉は盛んでバタバタと騒がしい感じがし、息はあえぐばかりでなく、気逆して降りないのは、有余の現象である。

 手太陰の脉である寸口の脉が、髪の毛のように微細であるのは、これは不足の現象である。

 この病の目付どころはいったいどこにあるのか。また病名は何であるのか。

 岐伯が申された。
 病は、太陰の肺に在ります。その熱が盛んである所は胃で、その偏在は肺にあります。

 病名は、厥と申します。これは胃の気が絶えておりますので、死病でございます。

 これがいわゆる五の有余と二の不足であります。

 帝が申された。
 五の有余と二の不足について、もう少し詳しく話してみよ。

 岐伯が申された。
 五の有余と申しますは、一に身体が炭のように熱し、二に首と胸が隔てられたかのように閉塞し、三に人迎の脉は盛んでバタバタと騒がしい感じがし、四に息はあえぐようであり、五に気逆している、この五つのことであります。

 二の不足と申しますは、一つには尿意を感じながらも尿が出ない、二つには手太陰の脉である寸口の脉が、髪の毛のように微細である、この二つのことであります。

 この五つの有余は、外に現れた現象でありまして、二つの不足は、内の精気の不足を示しています。

 これら身体に現れた内外の現象は、陰陽が互いに交流せず、離決しておりますので、まさに死病なのでございます。



 帝が申された。
 生まれながらにして巓疾を病んでいる者がいるが、病名は何であり、どうしてこの病を得ることになったのであろうか。

 岐伯が申された。
 病名は、胎病であります。

 これは胎児が母親の腹中に宿っている時、その母親が何かのことで大いに驚くことがあり、母親の気と共に、胎児の気もまた昇ってしまい、降りることができなくなったためであります。

 さらに母体の気は、胎児を養う腎の精気が昇ってしまい、下焦の胎児を養うことが出来ません。

 従いまして、生まれてきた子もまた、腎の精気が不足し、気が逆しますので巓疾となるのであります。



 帝が申された。

 水気をたっぷりと含んだような浮腫を病んでおり、脉を切して大いに緊であり、しかも身体に痛みが無く、そうかといって痩せるでもないが食べることもできず、食べても少量程度である。これは一体何の病であるのか。

 岐伯が申された。
 病は腎に生じておりますので、腎風と名付けます。

 腎風で食べることができず、しかもちょっとしたことでよく驚き、驚いた後で気が降りずにぐったりとして疲労し、さらに心気が衰え、脉もまた遅く萎えてくるような者は、死亡いたします。

 帝が申された。
 そうであったか、よく理解した。

 原文と読み下し


黄帝問曰.人有重身九月而.此爲何也.
岐伯對曰.胞之絡脉絶也.
黄帝問うて曰く。人に重身なる有りて九月にして(いん)するは、此れ何の爲なるや。
岐伯對して曰く。胞の絡脉絶するなり。

帝曰.何以言之.
岐伯曰.胞絡者.繋於腎.少陰之脉.貫腎繋舌本.故不能言.
帝曰く。何を以てこれを言うや。
岐伯曰く。胞絡なる者は、腎に繋る。少陰の脉、腎を貫き舌本に繋る。故に言うこと能わざるなり。

帝曰.治之奈何.
岐伯曰.
無治也.當十月復.刺法曰.無損不足.益有餘.以成其疹.然後調之.
所謂無損不足者.身羸痩.無用石也.
無益其有餘者.腹中有形而泄之.泄之則精出.而病獨擅中.故曰疹成也.
帝曰く。これを治すこと奈何にせん。
岐伯曰く。
治すこと無きなり。十月に當りて復すべし。刺法に曰く。不足を損い、有餘を益し、以て其の疹を成すことなかれ、然る後これを調うと。
所謂不足を損うこと無かれとは、身羸痩するは、石を用いること無きなり。
其の有餘を益す事無かれとは、腹中に形有りてこれを泄す。これを泄せば則ち精出でて病獨り中に擅(ほしいまま)なり。故に疹成ると曰く。
※疹・・・全身的な病 に意訳

帝曰.病脇下滿氣逆.二三歳不已.是爲何病.
岐伯曰.
病名曰息積.
此不妨於食.不可灸刺.積爲導引.服藥.藥不能獨治也.
帝曰く。病脇下滿ちて氣逆し、二三歳にして已まず。是れ何の病と爲すや。
岐伯曰く。
病名づけて息積と曰く。
此れ食を妨げず。灸刺すべからず。積は導引、服藥を爲す。藥獨り治すこと能わざるなり。

帝曰.人有身體髀股〔月行〕皆腫環齊而痛.是爲何病.
岐伯曰.
病名曰伏梁.
此風根也.其氣溢於大腸.而著於肓.肓之原在齊下.故環齊而痛也.
不可動之.動之爲水溺之病也.
帝曰く。人身體髀股〔月行〕皆腫れ、齊を環りて痛むは、是れ何の病を爲すや。
岐伯曰く。
病名づけて伏梁と曰く。
此れ風根なり。其の氣大腸に溢れ、肓に著く。肓の原は齊下に在り。故に齊をりて痛むなり。
これを動ずべからざるなり。これを動ずれば水溺病と爲すなり。
・・・むなもと、からだの内部の、よく見えない場所

帝曰.人有尺脉數甚.筋急而見.此爲何病.
岐伯曰.此所謂疹筋.是人腹必急.白色黒色見.則病甚.
帝曰く。人の尺脉數なること甚だしく、筋急して見われること有るは、此れ何の病を爲すや。
岐伯曰く.此れ所謂疹筋なり。是の人の腹は必ず急す。白色黒色見われば、則ち病甚だし。


帝曰.人有病頭痛.以數歳不已.此安得之.名爲何病.
岐伯曰.當有所犯大寒.内至骨髓.髓者以腦爲主.腦逆.故令頭痛.齒亦痛.病名曰厥逆.
帝曰善.
帝曰く。人頭痛を病て、以れ數歳にして已まざるもの有り。此れ安んぞにかこれを得ん。名づけて何病と爲すや。
岐伯曰く。當に大寒に犯される所有りて、内は骨髓に至る。髓なる者は腦を以て主と爲す。腦逆す。故に頭痛せしめ、齒もまた痛む。病名づけて厥逆と曰く。
帝曰く。善し。

帝曰.有病口甘者.病名爲何.何以得之.
岐伯曰.
此五氣之溢也.名曰脾
夫五味入口.藏於胃.脾爲之行其精氣.津液在脾.故令人口甘也.
此肥美之所發也.此人必數食甘美而多肥也.肥者令人内熱.甘者令人中滿.故其氣上溢.轉爲消渇.
治之以蘭.除陳氣也.
帝曰く。口苦を病むもの有り。病名づけて何と爲し、何を以てこれを得るや。
岐伯曰く。
此れ五氣の溢れるなり。名づけて脾と曰く。
夫れ五味口に入り、胃に藏す。脾これが爲に其の精氣を行る。津液は脾に在り。故に人をして口甘せしめるるなり。
此れ肥美の發する所なり。此れ人必ず數しば甘美を食して肥多きなり。肥えたる者は人をして内熱せしむ。甘なる者は人をして中滿せしむ。故に其の氣は上溢し、轉じて消渇を爲す。
これを治するは蘭を以て、その陳氣を除くなり。

帝曰.有病口苦.取陽陵泉.口苦者.病名爲何.何以得之.
岐伯曰.
病名曰膽
夫肝者中之將也.取決於膽.咽爲之使.
此人者.數謀慮不決.故膽虚.氣上溢.而口爲之苦.
治之以膽募兪.治在陰陽十二官相使中.
帝曰く。口苦を病むもの有り。陽陵泉を取る。口苦なる者は、病名は何と爲し、何を以てこれを得るや。
岐伯曰く。
病名づけて膽と曰く。
夫れ肝なる者は中の將也なり。膽に決を取る。咽これが使と爲る。
此の人なる者は、數しば謀慮して決せず。故に膽虚し、氣上に溢れ、しかして口これが爲に苦し。
これを治するに膽の募兪を以てす。治は陰陽十二官相使の中に在り。

帝曰.
者.一日數十溲.此不足也.
身熱如炭.頸膺如格.人迎躁盛.喘息氣逆.此有餘也.
太陰脉微細如髮者.此不足也.其病安在.名爲何病.
岐伯曰.病在太陰.其盛在胃.頗在肺.病名曰厥.死不治.此所謂得五有餘.二不足也.
帝曰く。。
なる者有り。一日數十溲するは、此れ不足なり。
身熱すること炭の如し。頸膺格するが如し。人迎躁盛して、喘息氣逆するは、此れ有餘なり。
太陰の脉微細にして髮の如き者は、此れ不足なり。其の病安んぞに在りて、名づけて何病と爲すや。
岐伯曰く。病は太陰にあり。其の盛んなるは胃に在り。頗は肺に在り。病名づけて厥と曰く。死して治せず。此れ所謂五の有餘.二の不足を得るなり。

帝曰.何謂五有餘二不足.
岐伯曰.
所謂五有餘者.五病之氣有餘也.二不足者.亦病氣之不足也.
今外得五有餘.内得二不足.此其身不表不裏.亦正死明矣.
帝曰く。何を五の有餘二の不足と謂うや。
岐伯曰く。
所謂五の有餘なる者は、五病の氣有餘なり。二の不足なる者は、亦た病氣の不足なり。
今外は五の有餘を得、内は二の不足を得る。此れ其の身表ならず裏ならず、亦た正に死すること明らかなり。

帝曰.人生而有病巓疾者.病名曰何.安所得之.
岐伯曰.
病名爲胎病.
此得之在母腹中時.其毋有所大驚.氣上而不下.精氣并居.故令子發爲巓疾也.
帝曰く。人生れて巓疾を病む者有り。病名づけて何と曰く。安んぞの所にこれを得るや。
岐伯曰く。
病名づけて胎病と爲す。
此れ母の腹中に在る時、其の毋大いに驚ろく所有りて、氣上りて下らず、精氣并居するにこれを得る。故に子をして發し、巓疾を爲しむるなり。

帝曰.有病然如有水状.切其脉大緊.身無痛者.形不痩.不能食.食少.名爲何病.
岐伯曰.病生在腎.名爲腎風.腎風而不能食.善驚.驚已心氣痿者死.
帝曰く。善.
帝曰く。病然(ぼうぜん)として水の状有るの如く、其の脉を切して大いに緊。身痛になき者は、形痩せず、食すること能わず、食少きは、名づけて何病と爲すや。
岐伯曰く。病生ずること腎に在り。名づけて腎風と爲す。腎風にして食すること能わず。善く驚し、驚已みて心氣痿する者は死す。
帝曰く。善し。



鍼専門 いおり鍼灸院

病能論篇第四十六.

秋空に似合う花
 表題の「病能」とは、一体いかなるものを指し示しているのであろうかは、いまひとつ筆者には明確に言い切れるものがない。

 本篇内に取り上げられている内科・外科・精神科領域の疾病を通じて、「病態」を把握して治療を施する視点を述べているのであろうか。

 それはさておき、胃袋の廱(よう)とは、現代的にはさしずめ胃潰瘍や胃癌などの腫瘍に相当するのであろう。

 この篇の言わんとすることをくみ取れば、四肢・体感部、呼吸器・消化器の癌や腫瘍全般のものは、鬱した熱が主要因であることがわかる。

 現代では、遺伝子や化学物質、放射能など、様々な外部要因にその原因が求められるが、内部要因に目を注いでいるこの医学の視点は、問題解決に大変有効であり、重要な点であり、現代にかけている点でもあると考える。

 また、厥病では、脈の左右差を取り上げているが、これもまた普遍的なことではなく、一例として捉えるのが良いかとかと思う。

 面白いと感じたのは、躁病などの狂症には、胃の熱こそがその原因であるのだから、絶食させると治まるものであると述べられているところである。

 熱の存在を、体温計でしか認識できない現代医学的視点では、理解不可能であろうと思う。

 筆者の臨床経験では、こってりとした物の過食傾向にあり、外見的には明るく見えても内面が鬱しやすい傾向の人に狂症が生じやすいと考えている。

 



原 文 意 訳

黄帝が問うて申された。
胃袋に廱(よう)ができた人を、どのように診察するのであろうか。

 岐伯がそれに対して申された。
 このようなものを診察するには、先ず胃の脉を診なくてはなりません。その脉は沈で細でありましょう。

 この沈細の脉は、気逆を表現しています。気逆を起こしているものは、人迎が甚だ盛んでありまして、熱があることを示しています。

 人迎は、胃の脉でして気逆して盛んであるということは、熱が胃口に結集して行ることができないので、胃袋に廱を生じるのであります。

 帝が申された。
 なるほど、そうであったか。では、床に就いても、安眠できない人は、どうなのであろうか。

 岐伯が申された。
 臓が障害されているか、もしくは精気が本来帰るべき藏に帰らず、どこかで滞っておりますと安らかな気持ちになれないのであります。

 ですから一般的に、病が治まるかどうか決着がつかないものであります。


 帝が申された。
 仰向けになれないものは、どうなのであろう。

 岐伯が申された。
 肺と申しますは、最も高いところに位置し、いわば臓の蓋のようなものであります。

 そこで肺気が盛んとなりますと脉は大となります。肺の脉が大となりますと、仰向けになることができないのであります。これに関する論は、「奇恒陰」篇にあります。


 帝が申された。
 厥を病む者の脉を診ると、右脉が沈にして緊、左脉が浮にして遅である。この場合、病の中心がどこにあるのかが、分からないのであるが。

 岐伯が申された。
 冬に右脉は沈緊であるのを診るのは、これは四時に応じた正常な脈であります。

 ところが左脉が浮遅でありますのは、四時に応じていないことを現しています。

 この左脉が表現していることは、病んでいるのは腎にあり、脉の左右差が生じている原因は肺にありますので、腰が痛むのであります。


 帝が申された。
 何をもってそのように申されるのか。

 岐伯が申された。
 少陰の脉は、腎を貫いて肺を絡っております。今、浮遅の脉は肺の脉ですので、腎はこのために病むこととなったのであります。従いまして腎の府であります腰が痛むのであります。


 帝が申された。
 なるほど、よく分かった。では、首に廱を生じた者に、石用いる場合と鍼灸を用いる場合とがあるが、それぞれ皆治っている。この両者に共通する真理はどこにあるのであろうか。

 岐伯が申された。
 これは同じ廱であっても、病態が異なるためであります。

 廱気の初期であれば鍼で患部を開いて気を漏らしてやれば良いのであります。ところがいよいよ廱気が盛んとなり、血もまた聚り、熱と膿をもって腫れあがってまいりますと、石を用いてこれを切開して取り去らなくてはなりません。

 これが同じ廱という名の病であり、病因が同じであっても、病態の程度によって治療方法が異なるゆえんであります。


 帝が申された。
 むやみやたらと怒り狂う病があるが、これはどこから生じるのであろうか。

 岐伯が申された。
 これは陽の異常から生じるのであります。

 帝が申された。
 どうして陽気が異常となって人を狂わすのであろう。

 岐伯が申された。
 陽気と申しますは、人を動かす原動力であります。時に突然行動の自由を奪われたり、志が折れるようなことがありますと、唖然としてしまい、発すべき陽気が停滞してしまいます。

 従いまして陽気が鬱積して人をよく怒らせしめるのであります。この病は、陽厥と申します。


 帝が申された。
 何をもって陽厥であることが分かるのであろう。

 岐伯が申された。
 陽明の脉は元来、陽気が強く常に拍動を取ることができます。ところが太陽と少陽の脉は、通常は拍動していないはずのものが、拍動を取ることができ、しかも速い場合は、陽厥の徴候として知ることができるのであります。


 帝が申された。
 この病を治すには、どのようにすれば良いのか。

 岐伯が申された。
 絶食させると、即治まります。飲食物は陰に入り、穀気は陽気を助長いたします。ですから絶食させると、即治まるのであります。

 その上で重く引き下げる作用のある生の鉄洛を服用させますと、猛々しい陽気は下り、落ち着くようになります。


 帝が申された。
 なるほど、よく分かった。身体が熱して力が抜けたかのように脱力し、入浴したかのように発汗し、そのうえ悪風がして息切れするのは、何という病であろうか。

 岐伯が申された。
 病名は、酒風と申します。

 帝が申された。
 この病を治すには、どのようにすれば良いのか。

 岐伯が申された。
 沢瀉と白朮、各十分と麋銜(びかん)五分とを搗き合わせ、手の三指でつまみ、食後に服用させるのであります。

 ※以下、錯簡との説

 いわゆる深く案じて細なる脉は、手の中の鍼のようである。これを按じ撫でても気が聚まったままで堅く、強く伝わってくるのは大脈である。
 「上経」は、人の気は天に通じて合一であることを述べたものである。
 「下経」は、病の変化を説いたものである。
 「金匱」は、生きる病であるか死に病であるかを診断する書である。
 「揆度」は、脈診について説かれた書である。
 「奇恒」は、一般的病とそうでないものについて、説いた書である。
 いわゆる奇とは、四時の気に関係なく死する病である。
 恒とは常のことであり、四季の気に応じて死する病のことである。
 いわゆる揆とは、まさに切診であり、その脉が現す脉理を説くものである。
 度とは、その病を得た病理を、四時を基準として診断することを説いたものである。





原文と読み下し


黄帝問曰.人病胃癰者.診當何如.
岐伯對曰.
診此者.當候胃脉.其脉當沈細.沈細者氣逆.逆者人迎甚盛.甚盛則熱.
人迎者.胃脉也.逆而盛.則熱聚於胃口而不行.故胃爲癰也.
黄帝問うて曰く。人胃の癰を病む者、診するに當にいかなるべきか。
岐伯對して曰く。
此れを診する者は、當に胃の脉を候うべし。其の脉當に沈細たるべし。沈細なる者は氣逆す。逆する者は人迎甚だ盛んなり。甚だ盛んなれば則ち熱す。
人迎なる者は、胃の脉なり。逆して盛んなれば、則ち熱胃口に聚りて行(めぐ)らず。故に胃に癰を爲すなり。

帝曰、善.人有臥而有所不安者.何也.
岐伯曰.藏有所傷.及精有所之寄則※不安.故人不能懸其病也.
帝曰く。善し。人臥して安ぜざる所有る者有るは、なんなるや。
岐伯曰く。藏傷れる所有り、及び精之(ゆ)き寄る所有れば則ち安ぜず。故に人其の病を懸(かけ)ること能わざるなり。

※甲乙経、太素に倣い、安を不安に作る。
帝曰.人之不得偃臥者.何也.
岐伯曰.肺者.藏之蓋也.肺氣盛則脉大.脉大則不得偃臥.論在奇恒陰陽中.
帝曰く。人の偃臥(えんが)を得ざる者は、何なるや。
岐伯曰く。肺なる者は、藏の蓋なり。肺氣盛んなれば則ち脉大なり。脉大なれば則ち偃臥を得ず。論は奇恒陰陽中に在り。
 
帝曰.有病厥者.診右脉沈而緊.左脉浮而遲.不知(然).病主安在.
岐伯曰.冬診之.右脉固當沈緊.此應四時.左脉浮而遲.此逆四時.在左當主病在腎.頗關在肺.當腰痛也.
帝曰く。厥を病む者有り。診するに右脉は沈にして緊。左脉は浮にして遲。病は主として安(いずく)んぞに在るやを知らず。
岐伯曰く。冬これを診すれば、右脉は固(もと)より當に沈緊たるべし。此れ四時に應ず。左脉の浮にして遲なるは、此れ四時に逆す。左に在るは當に主なる病は腎に在りて、頗關(はかん)は肺に在るべし。當に腰痛むべきなり。

※甲乙経に倣い、然を知に作る。

帝曰.何以言之.
岐伯曰.少陰脉.貫腎絡肺.今得肺脉.腎爲之病.故腎爲腰痛之病也.
帝曰く。何を以てこれを言うや。
岐伯曰く。少陰の脉、腎を貫き肺を絡う。今肺脉を得たり。腎これが爲に病む。故に腎は腰痛の病を爲すなり。

帝曰善.有病頸癰者.或石治之.或鍼灸治之.而皆已.其眞安在.
岐伯曰.此同名異等者也.夫癰氣之息者.宜以鍼開除去之.夫氣盛血聚者.宜石而寫之.此所謂同病異治也.
帝曰く。善し。頸癰を病む者有り。或いは石にてこれを治し、或いは鍼灸にてこれを治す。しかして皆已む。其の眞は安(いずくんぞ)にか在るや。
岐伯曰く。此れ名を同じくして異等の者なり。夫れ癰氣の息なる者は、鍼を以て開除してこれを去るに宜し。夫れ氣盛んにして血聚る者は、石にてこれを寫すに宜し。此れ所謂同病にして治を異にするなり。

帝曰.有病怒狂者.此病安生.
岐伯曰.生於陽也.
帝曰.有病怒狂者.此病安生.
岐伯曰く。生於陽也.

帝曰.陽何以使人狂.
岐伯曰.陽氣者因暴折而難決.故善怒也.病名曰陽厥.
帝曰く。陽何以使人狂.
岐伯曰く。陽氣者因暴折而難決.故善怒也.病名曰陽厥.

帝曰.何以知之.
岐伯曰.陽明者常動.巨陽少陽不動.不動而動大疾.此其候也.
帝曰く。何以知之.
岐伯曰く。陽明者常動.巨陽少陽不動.不動而動大疾.此其候也.

帝曰.治之奈何.
岐伯曰.奪其食即已.夫食入於陰.長氣於陽.故奪其食即已.使之服以生鐵洛爲飮.夫生鐵洛者.下氣疾也.
帝曰く。治之奈何.
岐伯曰く。奪其食即已.夫食入於陰.長氣於陽.故奪其食即已.使之服以生鐵洛爲飮.夫生鐵洛者.下氣疾也.

帝曰善.有病身熱解墮.汗出如浴.惡風少氣.此爲何病.
岐伯曰.病名曰酒風.
帝曰く。善.有病身熱解墮.汗出如浴.惡風少氣.此爲何病.
岐伯曰く。病名曰く、酒風.

帝曰.治之奈何.
岐伯曰.以澤瀉朮各十分.麋銜五分合.以三指撮爲後飯.
帝曰く。治之奈何.
岐伯曰く。以澤瀉朮各十分.麋銜(びかん)五分合.三指を以て撮(つま)み後飯に爲す。

※麋銜 張景岳説 一名無心草 南人は天風草

所謂深之細者.其中手如鍼也.摩之切之.聚者堅也.愽者大也.
上經者.言氣之通天也.
下經者.言病之變化也.
金匱者.決死生也.
揆度者.切度之也.
奇恒者.言奇病也.
所謂深之細者.其中手如鍼也.摩之切之.聚者堅也.愽者大也.
上經者.言氣之通天也.
下經者.言病之變化也.
金匱者.決死生也.
揆度者.切度之也.
奇恒者.言奇病也.

所謂
奇者.使奇病不得以四時死也.
恒者.得以四時死也.
所謂揆者.方切求之也.言切求其脉理也.
度者.得其病處.以四時度之也.
所謂
奇者.使奇病不得以四時死也.
恒者.得以四時死也.
所謂揆者.方切求之也.言切求其脉理也.
度者.得其病處.以四時度之也.



 鍼専門 いおり 鍼灸院

厥論篇第四十五.

可憐です。11月といえども、まだ草花を楽しめます。


 本編で述べられている厥(けつ)の病理は、陰陽の偏盛・偏衰により、気が本来の流れから逸脱して逆流する様を指している。

 厥逆は、その逆流の激しいもので、現代ではさしずめ、単に冷えのぼせといったものから、脳血管障害、癲癎発作、躁病、統合失調、バセドウ氏病、心臓病などを彷彿とさせる。

 本篇を意訳するにあたっては、用いられている陰陽表現が、何を指しているのかが少々難解であった。

 さらに歴代の医家は、経絡流注を用いて詳細に解説しているが、筆者はそれを取らなかった。

 その理由として、細い管から大きな世界を覗き見るような感がし、全身気血のダイナミックな動向性と全体性が失われと考えたからである。

 また些細なことと感じられるかもしれないが、<治主病者>「病を主る者を治す」の部分の意訳は、あらかじめ病理が述べられていることに鑑み、これも病んでいる経絡を取るとの諸家の説を取らず、「現われている症状に囚われず、病の原因となっているところを治す」とした。

 同様に、盛則寫之.虚則補之.不盛不虚.以經取之.>「盛んなれば則ちこれを寫し、虚すれば則ちこれを補す。盛んならず虚ならざれば、經を以てこれを取る」

 この下りも、諸家の説を取らなかった。

 筆者は、鍼術には、補瀉以外の術は無いと考えているからである。

 邪気が盛んでもなく、正気の虚でもない状態で、しかも気の流れが阻まれて病は現に存在しているのである。

 正気の虚が無く、邪気が無いのであれば病は生じない。ここでは、邪気が盛んでないとは言っているが、無いとは言っていないと筆者は考えた。

 しかしながら盛んならず、虚ならざる場合とは、いったいどのようなことが想定できるのか。

 正気を補えば、小邪は自然と退く。小邪といえども駆邪を行えば、正気は伸びやかに流れる。どちらを取るのか。

 想像することが、生きた現場の臨床に繋がると筆者は考えている。


  読者諸氏のご意見を、賜りたい。


 



原 文 意 訳


  黄帝が問うて申された。
 厥には、寒と熱があるが、どういうことであろうか。

 岐伯が申された。
 陽気が下で衰えますと、寒厥となり、陰気が下で衰えますと熱厥となります。

 帝が申された。
 熱厥の熱が、必ず足下で起こるのは、どういうことか。

 岐伯が申された。
 陽気は五指の表、足の甲から起こります。陰脉は足下に集まり、足心に結集いたします。
 従いまして、陽気が勝ちますと足下に逆流しますので足下が熱するようになるのであります。


 帝が申された。
 寒厥の寒が、必ず足の五指から膝に上るのは、どういうことか。

 岐伯が申された。
 陰気は五指の下裏に起こり、膝下に集まり、膝の上に結集いたします。
 従いまして、陰気が勝ちますと、足の五指から膝上に至るまで寒が上るのであります。
 この寒は、外因によるものでなく、内因によるものであります。

 帝が申された。
 寒厥は、何が失調してそのようになるのか。

 岐伯が申された。
 前陰つまり下腹部から陰器にかけてのところは、宗筋の結集するところでありまして、太陰と陽明が合する所でもあります。

 春夏と申しますは、陽気が多く陰気は少なく、反対に秋冬は陰気が多く陽気は少ないものであります。

 ところが体質的に壮健な者が、それに任せて秋冬に過度に房事などを行いますと、下部の陰気が損なわれます。

 すると相対的に陽気過剰となって上部に上り、下ることが出来ませんので上部の胸陽と相争い、元に戻ることができなくなってしまいます。

 すると僅かとなった下部の精気は陽気の温煦と固摂を受けられず、さらに下ってしまします。

 そうなりますと陰邪は虚に乗じて下から侵入し、次第に上に昇って行くことになるのであります。

 ことは、それだけではすみません。

 下部の陽気が損なわれますと、中焦は鍋の火を失ったかのように水穀を腐熟し気血を生じることが出来ません。

 そうなれば経絡を栄気で満たすことができなくなり、陽気は日を追うごとに衰え、陰気は動くことができないので孤立いたします。

 その結果、手足は寒え上がる、いわゆる虚寒となるのであります。

 帝が申された。
 では、熱厥はどのようであるのか。

 岐伯が申された。
 辛熱・散の気である酒が胃に入りますと、辛熱・散の気を受け気血は酒熱と共に、経脉から絡脉に向かいますので、経脉虚、絡脉実となります。

 また、脾と申しますは、胃のために津液を行らす働きをいたします。

 そして深酒をいたしますと、気血は絡脉に満ちますので、陰気である脾気は相対的に虚となります。

 その脾に絡脉に満ちた酒熱が流れ込むと、津液を胃に送ることができなくなり、胃気が和さないので飲食を摂ることも出来ず、たとえ食したとしても化すことができなくなります。

 そうなりますと精気は尽きてまいりますので、手足は養われないので衰えてまいります。

このような人は、しばしば深酒をしたか飽食した上に、房に入り性関係を設けて下焦を弱らせますので、中焦で酒気と穀気が迫り合って相和せず、激しい熱を生じさせるのであります。

そうなりますと熱が全身に蔓延し、内熱が盛んとなりますので、小便の色が火の色、熱の極みである赤を呈するようになるのであります。

そもそも辛熱・散である酒気は、何もしなくとも全身の気を盛んにし、しかも猛々しく動き回るものであります。

ですので過ごすことが度々でありますと、熱は腎精を燃やすかのようにして腎を衰えさせ、陽気はひとり盛んとなりますので、手足が熱したり火照る、いわゆる陰虚陽盛となるのであります。


 帝が申された。
 厥が原因で、腹がいっぱいに膨らむ者、突然人事不詳になる者、人事不詳となって半日から遅い者では一日経てようやく意識がもどる者など、様々あるがそれはどういうことなのか。

 岐伯が申された。
 脾気であります陰気が上で盛んとなりますと、下は相対的に虚すものであります。ですから下部の腹は脾気不足のために脹満するのであります。

 反対に、熱であります陽気が上で盛んとなりますと、下部の気は邪気と共に昇ってまいります。

 その勢いに乗じて盛んである邪気が熱と共に上昇しますと、神明を乱し、その程度が激しいと神明を塞いでしまい、人事不詳となるのであります。


 帝が申された。
 おお、そうであったか。では、願わくばさらに三陰三陽の六経の厥状である病態を聞かせてもらいたいのであるが。

 岐伯が申された。
 太陽の厥状は、首が腫れ頭は重く、足を運ぶこともできず、めまいを起こして発作的に倒れます。

 陽明の厥状は、癲発作を起こすような病となり、叫びながら走ったり、腹が膨満して寝ることもできず、顔は赤くて熱く、幻覚を生じて訳のわからないことを口走ったりいたします。

 少陽の厥状は、突然耳が聞こえなくなり、頬が腫れて熱を持ち、脇が痛み、脛を動かすことができなくなります。

 太陰の厥状は、腹がパンパンに膨満して便が出ず、食欲も無くなるが強いて食べると吐き、横になって寝ることができなくなります。

 少陰の厥状は、口にツバキが出なくなって乾き、小便は赤くなり、腹が張って心痛いたします。

 厥陰の厥状は、少腹が腫れ痛みて腹は膨満し、大小便は出ずに好んで膝を屈し、横になりたがります。陰嚢は縮み上がって腫れ、みこうずねの内側が熱します。

 邪が盛んであるものは、これを瀉し、正気が虚していればこれを補います。

 正邪の盛衰の差があまりない者に対しては、はっきりと病んでいる経に邪気が存在していることに目を付け、補瀉のどちらを前後するのかを考慮して治療いたします。


 太陰の厥逆は、みこうずねが引きつれて痙攣し、腹にまで引くように心痛いたします。心痛症状に囚われず、病の原因となる所を治すのであります。

 少陰の厥逆は、腹が膨満して張りが無く、膨満が治まってくると嘔吐するようになり、未消化物の下痢をいたします。嘔吐下痢など、脾胃の症状に囚われず、病の原因となる所を治すのであります。

厥陰の厥逆は、腰が引きつれ痛み、腹は膨満して張りが無く、小便が出なくなってうわごとを言うようになります。腰痛や小便が出ないなどの症状に囚われず、病の原因となる所を治すのであります

三陰がすべて厥逆し、大小便が出なくなり、手足が冷え上がってくるものは、陰陽が相交わらない陰陽離決となっておりますので、おおよそ三日で陽気が尽きて死するものであります。
 
 太陽の厥逆は、全身が硬直して倒れ吐血し、場合によっては鼻血が見られることもあります。これもまた、症状に囚われず、病の原因となる所を治すのであります。

 少陽の厥逆は、関節が不自由となりますので、腰もまた動かせず、首もまた回らまくなります。その上さらに、膿癰ができますと、治す術がございません。その上、ちょっとしたことでハッとして驚くようなものは、間もなく死します。

 陽明の厥逆は、あえぐように咳をし、身体が発熱し、ちょっとしたことにもびっくりするかのように驚きやすく、鼻血や吐血をいたします。

 手太陰の厥逆は、虚満の腹となり咳をし、咳と共に泡沫を吐きます。症状に囚われず、病の原因となる所を治します。

 手心主の厥逆は、喉に引くように心痛し、身体が発熱するものは、治す術がありませんので死します。

 手太陽の厥逆は、耳が聞こえなくなり勝手に涙がこぼれ、項はこわばって振り返ることができず、腰もまた痛んで仰向けに寝ることができないものであります。症状に囚われず、病の原因となる所を治します。

 手陽明と手少陽の厥逆は、咽喉が腫れる口を発症し、咽喉が塞がる【至】(じ)を発病します。症状に囚われず、病の原因となる所を治します。


原文と読み下し

黄帝問曰.厥之寒熱者.何也.
岐伯對曰.陽氣衰於下.則爲寒厥.陰氣衰於下.則爲熱厥.
黄帝問うて曰く。厥の寒熱なる者は、何なるや。
岐伯對して曰く。陽氣下に衰えれば、則ち寒厥と爲し、陰氣下に衰えれば、則ち熱厥と爲す。

帝曰.熱厥之爲熱也.必起於足下者.何也.
岐伯曰.陽氣起於足五指之表.陰脉者.集於足下.而聚於足心.故陽氣勝.則足下熱也.
帝曰く、熱厥の熱たるや、必ず足下に起こる者は、何なるや。
岐伯曰く.陽氣足五指の表に起こり、陰脉なる者は、足下に集まりて足心に聚まる。故に陽氣勝てば、則ち足下熱するなり。

帝曰.寒厥之爲寒也.必從五指而上於膝者.何也.
岐伯曰.陰氣起於五指之裏.集於膝下.而聚於膝上.故陰氣勝.則從五指至膝上寒.其寒也不從外.皆從内也.
帝曰く、寒厥の寒たるや、必ず五指從りして、膝に上る者は、何なるや。
岐伯曰く.陰氣五指の裏に起こり、膝下に集まりて、膝上に聚る。故に陰氣勝てば、則ち五指より膝上に至りて寒す。其の寒するや、外從りならず、皆内從りなり。

帝曰.寒厥何失而然也.
岐伯曰.
前陰者.宗筋之所聚.太陰陽明之所合也.
春夏則陽氣多而陰氣少.
秋冬則陰氣盛而陽氣衰.
此人者質壯.以秋冬奪於所用.下氣上爭.不能復.精氣溢下.邪氣因從之而上也.
氣因於中.陽氣衰.不能滲營其經絡.陽氣日損.陰氣獨在.故手足爲之寒也.
帝曰く、寒厥は何を失して然りや。
岐伯曰く。
前陰なる者は、宗筋の聚る所、太陰陽明の合する所なり。
春夏は則ち陽氣多くして陰氣少なし。
秋冬は則ち陰氣盛んにして陽氣衰う。
此の人なる者は質壯なり。秋冬を以て用うる所を奪す。下氣上り爭い、復すること能わず。精氣溢下し、邪氣因りてこれに從いて上るなり。
氣中に因りて、陽氣衰え、其の經絡を滲營すること能わず。陽氣日に損じ、陰氣獨り在り。故に手足これが爲に寒するなり。

帝曰.熱厥何如而然也.
岐伯曰.
酒入於胃.則絡脉滿而經脉虚.
脾主爲胃行其津液者也.陰氣虚則陽氣入陽氣入則胃不和.胃不和則精氣竭.精氣竭則不營其四支也.
此人必數醉若飽.以入房.氣聚於脾中.不得散.酒氣與穀氣相薄.熱盛於中.故熱於身.内熱而溺赤也.
夫酒氣盛而慓悍.腎氣有衰.陽氣獨勝.故手足爲之熱也.
帝曰く、熱厥は何如にして然るや。
岐伯曰く。
酒胃に入れば、則ち絡脉滿ちて經脉虚す。
脾は胃の爲に其の津液を行らすを主る者なり。陰氣虚すれば則ち陽氣入る。陽氣入れば則ち胃和せず。胃和せざれば則ち精氣竭(つ)く。精氣竭きれば則ち其の四支を營まざるなり。
此の人必ず數しば醉いて若しくは飽し、以て房に入る。氣脾中に聚りて、散ずるを得ず。酒氣と穀氣相薄(せま)り、熱中に盛ん。故に熱身にし、内熱して溺赤きなり。
夫れ酒氣は盛んにして慓悍なり。腎氣衰え有り、陽氣獨り勝つ。故に手足これが為に熱するなり。

帝曰.厥或令人腹滿.或令人暴不知人.或至半日.遠至一日.乃知人者.何也.
岐伯曰.
陰氣盛於上.則下虚.下虚則腹脹滿.
陽氣盛於上.則下氣重上.而邪氣逆.逆則陽氣亂.陽氣亂則不知人也.
帝曰く、厥、或いは人をして腹滿せしめ、或いは人をして暴(にわか)に人を知らず。或いは半日に至り、遠きは一日に至りて、乃ち人を知る者は、何なるや。
岐伯曰く。
陰氣上に盛んなれば、則ち下虚す。下虚せば則ち腹脹滿す。
陽氣上に盛んなれば、則ち下氣重ねて上り、しかして邪氣逆す。逆すれば則ち陽氣亂れ、陽氣亂れれば則ち人を知らざるなり。

帝曰善.願聞六經脉之厥状病能也.
岐伯曰.
巨陽之厥.則腫首頭重.足不能行.發爲仆.
陽明之厥.則癲疾欲走呼.腹滿不得臥.面赤而熱.妄見而妄言.
少陽之厥.則暴聾頬腫而熱.脇痛.【月行】不可以運.
太陰之厥.則腹滿脹.後不利.不欲食.食則嘔.不得臥.
少陰之厥.則口乾溺赤.腹滿心痛.
厥陰之厥.則少腹腫痛.腹脹.涇溲不利.好臥屈膝.陰縮腫.【月行】内熱.
盛則寫之.虚則補之.不盛不虚.以經取之.
帝曰く、善し。願わくば六經脉の厥状と病能を聞かん。
岐伯曰く。
巨陽の厥は、則ち首腫れ頭重く、足行くこと能わず。發して仆(くぼく)を爲す。
陽明の厥は、則ち癲疾し、走りて呼ばんと欲っし、腹滿して臥するを得ず。面赤くして熱し、妄見して妄言す。
少陽の厥は、則ち暴かに聾し頬腫れて熱し、脇痛み、【月行】以て運ぶべからず。
太陰の厥は、則ち腹滿して脹(しちょう)し、後利せず、食を欲せず。食すれば則ち嘔し、臥するを得ず。
少陰の厥は、則ち口乾き溺(じゃく)赤く、腹滿して心痛す。
厥陰の厥は、則ち少腹腫痛し、腹脹し、涇溲(けいしゅう)利せず、臥するを好み膝を屈し、陰縮み腫れ、【月行】内熱す。
盛んなれば則ちこれを寫し、虚すれば則ちこれを補す。盛んならず虚ならざれば、經を以てこれを取る。

太陰厥逆.【月行】急攣.心痛引腹.治主病者.
少陰厥逆.虚滿嘔變.下泄清.治主病者.
厥陰厥逆.攣腰痛虚滿.前閉譫言.治主病者.
三陰倶逆.不得前後.使人手足寒.三日死.
太陰の厥逆は、【月行】急攣し、心痛みて腹に引く。病を主る者を治す。
少陰の厥逆は、虚滿して嘔變し、下泄して清す。病を主る者を治す。
厥陰の厥逆は、攣し腰痛して虚滿す。前閉し譫言す。病を主る者を治す。
三陰倶に逆するは、前後を得ず、人をして手足寒ならしむる。三日にして死す。

太陽厥逆.僵仆嘔血善衄.治主病者.
少陽厥逆.機關不利.機關不利者.腰不可以行.項不可以顧.發腸癰.不可治.驚者死.
陽明厥逆.喘身熱.善驚.衄嘔血.
太陽の厥逆は、僵仆(きょうぼく)し血を嘔して善く衄す。病を主る者を治す。
少陽の厥逆は、機關利せず、機關利せざる者は、腰以て行くべからず。項以て顧(かえり)みるべからず。腸癰を發すれば、治すべからず。驚する者は死す。
陽明の厥逆は.喘身熱す。善く驚し、衄し血を嘔す。

手太陰厥逆.虚滿而.善嘔沫.治主病者.
手心主少陰厥逆.心痛引喉.身熱.死不可治.
手太陽厥逆.耳聾泣出.項不可以顧.腰不可以俛仰.治主病者.
手陽明少陽厥逆.發喉痹嗌腫【至】.治主病者.
手太陰の厥逆は、虚滿してす。善く沫を嘔す。病を主る者を治す。
手心主少陰の厥逆は、心痛み喉に引く。身熱するは、死して治すべからず。
手太陽の厥逆は、耳聾し泣出で、項以て顧みるべからず。腰以て俛仰すべからず。病を主る者を治す。
手陽明少陽の厥逆は、喉れ【至】(じ)を發す。病を主る者を治す。



 鍼専門 いおり鍼灸院

痿論篇第四十四.

秋粛殺 枯れ始めた足の草花に、薄くクモが糸を引いている


 本篇では、「痿病」という手足の力が抜けて自由に動くことが出来なくなる病について述べられている。

 現代における、筋ジストロフィーや膠原病、中でもシェーグレン症候群、多発性筋炎、全身性硬化症、結節性多発性動脈炎などに相当するのであろうか。

 なんにしろ、ありふれた疾患に応用できるので、気血の変動変化のイメージトレーニングの資には、大変有用だと思う。

 内経医学の養生の基本は、先ずは四季、陰陽の盛衰の変化に適った生活をその根幹とし、さらに飲食の節制、性生活の節制、そして精神情緒の安定の三つが必須であると説かれている。

 本篇を通読するとお分かりいただけるように、痿病の内因の多くは、精神情緒の鬱積により、体内の熱が大きく身体上部に偏亢することで発症することがわかる。

 これをそのまま用いて通用するほど現代病は簡単ではないが、現代病の構図の原形を見ることができる。

 現代から見れば、穏やかな田園と荒涼たる原野が思い浮かぶ内経の時代にあって、すでにこのような病理による病が存在していたとは、驚きである。

 内経成立が、春秋戦国時代であることを考えると、地方と都市部の隔たりは、我々の想像を超える幅があったのであろう。

 翻ってこれからの現代を思うと、これら膠原病などの自己免疫疾患は、残念ながら今後益々増加するであろうと筆者は予測している。

 また本篇中の筋攣に関して、現代では芍薬甘草湯で陰気を補う手法がよく見られるが、病理を考慮するならば、清熱を図るべきである。

 さしずめ鍼灸では、筋攣を起こすような肝の鬱熱には、穴名通り筋縮穴がとてもよく奏効するので付記しておく。

 さらに帯脉の機能について常々疑問に思うところがあったので、筆者の思うところを述べてみたい。

 本文中の<陽明虚.則宗筋縱.帶脉不引>
 「陽明虚すれば、則ち宗筋縱み、帶脉引かず」のくだりに対して、歴代の医家の注釈は、臨床的にしっくりと来るものが無かった。

 そこで帯脉に関して、以下の三文献を照らし合わせ、筆者の考察の過程を記してみたい。


 「霊枢・経別」では、足少陰経別流注は、十四椎下で帯脉に属している。

 また「難経・二十八難」では、季脇に起こり、回りて身一周す。

 「奇経八脈考」では、足厥陰の章門穴から起こり、腹部の足少陽流注に沿って帯脉穴に至って一周する。

 この三文献から、 筆者は、帯脉の流注は線ではなく、幅をもって腰腹部を取り囲んでいる様=文字通り幅のある帯を以て命名したのであり、機能を以てして命名したのでは無いと考えている。

 しかも帯脉の機能は、諸脈を束ねることがその主な機能では無いとも考えている。

 

 また、「難経二十九難」に、帯脉の病は、腹の膨満感と腰の脱力と、水中に座するような冷えの状態が示されており、生理不順や帯下など下半身の冷えと虚の症状が現わされている。

 さらに 、「鍼灸大全」では、脳血管障害を思わせるような麻痺症状の他、結膜炎、歯痛、咽喉腫、耳聾など、上半身の熱、迫血妄行を思わせる症状が多く記載されている。

 帯脉が諸脈を束ねているのであれば、帯脉が失調した場合に経絡間の不調和の症候がもっと記載されていてもいいはずであることを鑑みると、やはり諸家の説では臨床に用いるには不足に感じる。


 そこで筆者は、帯脉主治穴である足少陽の臨泣穴に注目した。

 足少陽は、自経の流注上に腎の募穴、京門を擁している。

 さらに足三陰の枢(血の気機)である腎、足三陽の枢(気の気機)である足少陽はともに「枢」として協調関係にある。

 足少陽の枢機能は、腎気により保証され、腎の陰陽の平衡は足少陽により具体化される。

、このような観点から、帯脉は、前後・左右の枢、開・合の枢であるだけでなく、帯脉ラインは上下の枢でもあると筆者は考える。

 このような観点で、足少陽の臨泣穴を位置づけると、いわゆる冷えのぼせなどの気滞化熱から陰虚傾向に向かう者に用いるなど、臨床応用の幅が大きく広がる。

 このように表現すれば、何でもありとの感があるかもしれないが、ある特定の経絡・部分だけが失調することなど、臨床的にはあり得ないはずである。

 本来、事象は「分けて分けられないもの」である。

 にもかかわらず、文字にして表現するとなると、敢て全体の関係性を切り分けて認識して表現せざるを得ないのである。

 単純化して、イメージとして心に映ればそれでよいと、筆者は考えている。


 また病証にある下腹部の宗筋が緩んで腹に力が入らず、足が立たなくなるのは、陽明の虚であるか、もしくは陽明の虚に乗じて邪が下注した為である。

 したがって、「帯脉引かず」とは、昇った気が下行できない状態であると理解した。

 治療目標を本文中では、衝脉、帯脉、督脈の関係を示した上で足陽明に求めている。

 衝脉、帯脉、督脈は腎経の別枝であることを鑑みると、結果として腎陰が虚し、腎陽の偏亢を来す要因が主な病理機序をではないかと考えている。

 複雑に過ぎると思われる諸氏もおられると思います。

 読者諸氏のご意見を、お待ちしております。

 

原 文 意 訳


 黄帝が問うて申された。
 五臓の病変により、まるで草木が枯れ、しおれるかのように手足が痩せ、その用を為さなくなる痿病になるのは、どのような訳であろうか。

 岐伯がそれに対して申された。

 肺は身体の皮毛を主ります。
 心は身体の血脉を主ります。
 肝は身体の筋膜を主ります。
 脾は身体の肌肉を主ります。
 腎は身体の骨髄を主ります。

 従いまして、肺が熱しますと、肺葉は焦げて津液の潤いをなくし、枯れてきますので皮毛もまた焦げたようになり虚弱となります。

 邪熱が肺を急迫しますと、肺葉は一気に枯れ衰え、全身の気は上部に集まり下りないので、痿躄(いへき)、いわゆる足なえの状態となります。

 心気が何らかの原因で化熱いたしますと、熱の激しい上昇作用によって下半身の気血もまた上昇します。
 すると下半身の気は虚し、結果下半身は冷え上実下虚となる脉痿となります。そうなりますと腕の関節は動かすことが出来なくなり、脛は弛んで大地を踏んで立つことが出来なくなります。

 同様に、肝気が化熱いたしますと、熱によって胆腑が弛み、胆汁が口内に昇ってくるので口中に苦味を感じます。
 さらに筋膜は熱で乾かされますので、筋が引きつれたりけいれんを起こします。そして次第に筋痿となるのであります。

 脾気が化熱いたしますと、熱が胃を乾かしますので、渇して水を飲みたがるようになります。そうしますと肌肉を十分養うことが出来ませんので、感覚異常を起こし、肉となります。

 腎気が化熱いたしますと、陰気が消耗しますので骨は枯れ、髄は減少し、背骨を伸ばすことも腰を挙げることもできなくなり、骨痿となります。


 帝が申された。
 どのような病因病理で痿病となるのか。

 岐伯が申された。
 肺と申しますは、臓の長でありますから、最も高い位置にあり、しかも心に覆いかぶさる蓋のようであります。

 ですから大いに失望したり、大いに望んで事物・物事が得られなかったり、さては思いが成し遂げられず、しかもそれらの感情や思いが表現されませんと、鬱して熱となるのであります。

 そうしますと熱は昇って肺葉を激しく揺さぶりますので、喘鳴を発するようになり、長期化いたしますと肺葉は熱のために次第に潤いを無くし、焦げてまいるのであります。

 従いまして、痿躄は五臓の全てが失調して発症するのですが、最終的には、いずれかの臓に激しい熱がありますと、やがて臓の長であり蓋である肺葉が熱せられ焦げることになるのであります。

 悲哀の情が甚大でありますと、気血は上に集まってしまい、下ることが出来なくなります。

 そうなりますと、心と膀胱を繋いでいる胞絡が通じなくなり、上部で鬱し出口がなくなった陽気は猛々しく動き回ります。

 そして心の門である心下が敗れ崩れ、一気にその熱が下に降りますと、熱が膀胱腑に迫り傷り、小便から出血するようになるのであります。

 その故に「本病」では、大経が空虚になると、肌痺を発症し、やがて脉痿となると記されているのであります。


 男女関係で、互いに慕い思うところがあり、その上想像が際限なく深まり、しかもその欲求に満たされるということがありませんと、心はいつも対象に向かって上部で留まります。

 そのような状況でお互いが出会い、房に入って性関係を設け、さらにそれが甚だしいと終には宗筋は弛緩して筋痿を発症し、男子は遺精、女子は白帯が下る白淫となるのであります。

 それ故に、「下経」では、筋痿は肝に生じて精気を使い果たしてしまうからであると、記されているのであります。


 気づかないうちにジワジワと湿気に侵されることがあります。

 よくありがちなのは、水を扱うような仕事に従事し、もしくは湿気が留まっているような所に居住していますと、内外共に湿気が盛んとなりますので、肌肉はいつも濡れて水につかっているかのようになります。

 そのような状態にあると、まずは病となって知覚麻痺が生じ、ついには肉痿を発症するに至るのであります。

 それ故に、「下経」では、肉痿は湿地によって得るのだと、記されているのであります。


 長距離を歩いて疲労困憊してしまい、たまたま大暑に中りますと水を飲みたがるものであります。
 ところが水を飲む機会が無く、この渇した状態が続きますと、陽気が内にこもって内熱の邪気となります。

 この内熱は深く腎に舍って、傷害するようになります。

 腎と申しますは、水臓であります。

 今邪熱が火となりますと水は勝つことが出来ませんので、骨は枯れ髄は虚してしまいます。

 したがいまして足に身を任せて立つことが出来なくなり、ついには骨痿を発症するのであります。

 その故に、「下経」では、骨痿は大熱によって生じるのであると、記されているのであります。


 帝が申された。
 何を以て鑑別するのであるか。

 岐伯が申された。

 肺熱のものは、顔色が白く、毛が抜け落ちます。
 心熱のものは、顔色が赤く、絡脉が充満して鬱血いたします。
 肝熱のものは、顔色が蒼く、爪が枯れてスジが目立ってきます。
 脾熱のものは、顔色が黄色く、ゆっくりとうごめくように動きます。
 腎熱のものは、顔色が黒く、歯が枯れたかのようになります。


 帝が申された。
 そちの申していることは、もっともである。
 しかし論に、痿を治するにはただ陽明を取ると言及しているのは、どのような意味からであろうか。

 岐伯が申された。
 陽明は五臓六腑の海でありまして、宗筋を潤すことを主っております。宗筋は骨を束ねることを主っておりまして、関節の動きを円滑にいたします。

 また衝脉と申しますは、経脉の海でありまして、筋肉の割れ目までしっかりと浸透して潤す働きがあり、宗筋で陽明と一体となります。

 陰である衝脉と、陽である陽明は、鍋とその蓋のような関係でありまして、両者は気街で会合して宗筋を統括しているのであります。

 さらに陽明は、その宗筋の長でありながらも、帯脉に属し、帯脉を通じて督脈を絡っております。

 従いまして、陽明が虚しますと宗筋は弛んでしまい、帯脉もまたその上下・昇降の機能を全うできず、上実下虚となりますので、足が萎えて思うように立ち歩きができなくなるのであります。


 帝が申された。
 これを治するには、どうすればよいのか。

 岐伯が申された。
 それぞれ病んでいる経絡の穴を補ってその兪穴を通じさせ、全体の虚実を調え、自然の気候に適うような本来のあるべき気の状態になるように調和させるのであります。

 筋脉骨肉なども、つまり四時陰陽と五臓との関係において治療すれば、痿病は治るものであります。

 帝が申された。
 なるほど、よく分かった。





原文と読み下し



黄帝問曰.五藏使人痿.何也.
岐伯對曰.
肺主身之皮毛.
心主身之血脉.
肝主身之筋膜.
脾主身之肌肉.
腎主身之骨髓.
故肺熱葉焦.則皮毛虚弱.急薄著則生痿躄也.
黄帝問うて曰く。五藏の人をして痿せしむるは、何なるや。
岐伯對して曰く。
肺は身の皮毛を主る。
心は身の血脉を主る。
肝は身の筋膜を主る。
脾は身の肌肉を主る。
腎は身の骨髓を主る。
故に肺熱して葉焦すれば、則ち皮毛虚弱なり。急薄して著すれば則ち痿躄(いへき)を生ずるなり。
 
心氣熱.則下脉厥而上.上則下脉虚.虚則生脉痿.樞折挈.脛縱而不任地也.
肝氣熱.則膽泄口苦.筋膜乾.筋膜乾.則筋急而攣.發爲筋痿.
脾氣熱.則胃乾而渇.肌肉不仁.發爲肉痿.
腎氣熱.則腰脊不擧.骨枯而髓減.發爲骨痿.
心氣熱すれば、則ち下脉厥して上る。上れば則ち下脉虚す。虚すれば則ち脉痿を生ず。樞は折挈(せっけい)して、脛縱みて地に任(まか)せざるなり。
肝氣熱すれば、則ち膽は泄して口苦く、筋膜乾く。筋膜乾けば、則ち筋急して攣す。發して筋痿と爲る。
脾氣熱すれば、則ち胃乾きて渇し、肌肉は不仁す。發すれば肉痿と爲る。
腎氣熱すれば、則ち腰脊は擧らず、骨枯れ髓減す。發すれば骨痿と爲る。

帝曰.何以得之.
岐伯曰.
肺者藏之長也.爲心之蓋也.
有所失亡.所求不得.則發肺鳴.鳴則肺熱葉焦.
故曰.五藏因肺熱葉焦.發爲痿躄.此之謂也.
帝曰く。何を以てこれを得るや。
岐伯曰く。
肺なる者は藏の長なり。心の蓋を爲すなり。
失亡する所有りて、求める所を得ざれば、則ち發して肺鳴す。鳴すれば則ち肺熱し葉は焦す。
故に曰く。五藏肺熱に因りて葉焦し、發して痿躄と爲る。此れこの謂いなり。

悲哀太甚.則胞絡絶.胞絡絶則陽氣内動.發則心下崩.數溲血也.
故本病曰大經空虚.發爲肌痺.傳爲脉痿.
悲哀太甚なれば、則ち胞絡絶す。胞絡絶すれば則ち陽氣内に動ず。發すれば則ち心下崩れ、數しば溲血(しゅうけつ)するなり。
故に本病に曰く、大經空虚にして、發すれば肌痺と爲り、傳わりて脉痿と爲る。

思想無窮.所願不得.意淫於外.入房太甚.宗筋弛縱.發爲筋痿.及爲白淫.
故下經曰.筋痿者.生於肝.使内也.
思想に窮まり無く、願う所を得ず、意は外に淫し、房に入ること太甚なれば、宗筋は弛縱し、發すれば筋痿と爲り、及び白淫を爲る。
故下經に曰く。筋痿なる者は、肝に生じ、内を使うなり。

有漸於濕.以水爲事.若有所留.居處相濕.肌肉濡漬.痺而不仁.發爲肉痿.
故下經曰.肉痿者.得之濕地也.
濕に漸すること有り、水を以て事を爲す。若くは留まる所有りて、居處と相い濕し、肌肉は濡漬(なんし)し、痺して不仁す。發すれば肉痿と爲る。
故に下經に曰く。肉痿なる者は、これを濕地に得るなりと。

有所遠行勞倦.逢大熱而渇.渇則陽氣内伐.内伐則熱舍於腎.腎者水藏也.今水不勝火.則骨枯而髓虚.故足不任身.發爲骨痿.
故下經曰.骨痿者.生於大熱也.
遠行勞倦する所有りて、大熱に逢いて渇す。渇すれば則ち陽氣内に伐(う)たる。内伐たれれば則ち熱は腎に舍る。腎なる者は水藏なり。今水、火に勝たざれば、則ち骨枯れて髓虚す。故に足に身を任せず。發すれば骨痿を爲す。
故に下經に曰く。骨痿なる者は、大熱に生ずるなりと。

帝曰.何以別之.
岐伯曰.
肺熱者.色白而毛敗.
心熱者.色赤而絡脉溢.
肝熱者.色蒼而爪枯.
脾熱者.色黄而肉蠕動.
腎熱者.色黒而齒槁.
帝曰く。何を以てこれを別つや。
岐伯曰く。
肺熱する者は、色白くして毛敗す。
心熱する者は、色赤くして絡脉溢(いつ)す。
肝熱する者は、色蒼(あお)くして爪枯れる。
脾熱する者は、色黄して肉蠕動(ぜんどう)す。
腎熱する者は、色黒くして齒槁(かれ)る。

帝曰.如夫子言可矣.論言.治痿者獨取陽明.何也.
岐伯曰.
陽明者.五藏六府之海.主潤(閏)宗筋.宗筋主束骨而利機關也.
衝脉者.經脉之海也.主滲潅谿谷.與陽明合於宗筋.陰陽總宗筋之會.會於氣街.而陽明爲之長.皆屬於帶脉.而絡於督脉.
故陽明虚.則宗筋縱.帶脉不引.故足痿不用也.
帝曰く。夫子の言の如きは可なり。論に言う。痿を治する者は獨り陽明を取るとは、何なるや。
岐伯曰く。
陽明なる者は、五藏六府の海、宗筋を潤(閏)すを主る。宗筋は骨を束ねて機關を利するを主るなり。
衝脉なる者は、經脉の海なり。谿谷を滲潅(しんかん)するを主り、陽明と宗筋に合す。陰陽は宗筋の會を總(す)べ、氣街に會す。しかして陽明これを長と為す。皆帶脉に屬して、督脉を絡う。
故に陽明虚すれば、則ち宗筋縱み、帶脉引かず。故に足痿して用いざるなり。

※甲乙経に倣い、閏を潤に作る。

帝曰.治之奈何.
岐伯曰.各補其而通其兪.調其虚實.和其逆順.筋脉骨肉.各以其時受月.則病已矣.
帝曰善.
帝曰く。これを治すこといかん。
岐伯曰く。各おの其の補して其の兪を通じず。其の虚實を調え、其の逆順を和す。筋脉骨肉、各おの其の時を以て月を受ければ、則ち病已むなり。
帝曰く、善し。


 鍼専門 いおり鍼灸院



痹論篇第四十三.

 
近くの石垣で目に留まった、名知らずの雑草?

 筆者は、痹論には特別な思い入れがある。

 筆者が平成元年に開業して間もないころ、いわゆる関節リュウマチで鍼灸院を訪れる患者が比較的多かった。

 が、しかし治療所に訪れたリウマチ患者の願いに反して、ことごとくが治らなかった。

 当時、志は高く口は立ったが、それに対して情けないほど腕の無さを痛感する時期となった。

 そんな中、良くなって来たな・・・と思っていた患者が、新たに引いた風邪をきっかけに、本篇に記載されている肺痹となった。

 日を追うごとに病態は悪化し、しかも患者は病院に行かずに筆者の元に毎日のように通ってくる。

 筆者には、術が無く追い詰められたかのような気持ちになり、毎夜眠れない日が続いた。

 そしてある日、黒く変色した舌診所見で筆者の限界を感じ、患者に頭を下げ、病院を受診するようお願いした。

 幸い一命は取りとめたが、患者は視力を失った。

 家人に手を引かれた姿を見た時の、筆者の心の衝撃は今もなお鮮明に生きている。

 このような場合、もっと早く他院に送るべきとの意見もあろうかと思う。

 しかし筆者は、患者が寄せてくる信頼の思いに、今自分の持てるもので精いっぱい応えようと奮闘した結果である。

 今であれば、なんなく治めることができるが、このような患者に、筆者は育ててもらったのだと、感謝の思いと共に、取ろうとしても取りようのない責任を、今も感じている。


 <言不可治者、未得其術也>
 
 「治すべからざると言うは、未だその術を得ざるなり」

 治らないということは、まだ術が自分のものとなっていないからである。

 霊枢、九鍼十二原論の一節である。



 以後、当時まだ中医書がまだ一般に出回っていない時代に、簡体字で書かれた「痹病論治学 人民衛生出版」を輸入業者から探し求め、辞書を片手に読み始めたが、それでも自分の中にしっくりと来るものが無かった。

 しっくりと来ないまま、臨床を続けるのは、苦しみ以外のなにものでもない。暗中模索とは、このことであると実感した。

 そんな長く苦しい時期を経て、やっとしっくりと来るものが見えてきたのは、ようやくここ10数年来のことである。

 本篇の痹病は、なにも関節リュウマチだけでなく、膠原病など自己免疫疾患。また感覚麻痺やしびれやを伴う疾患など、その他多くの疾患に対して応用が可能である。

 興味深いことに、関節リュウマチで訪れる患者の中には、いわゆる風邪症状を自覚した後に発症した、という方が結構存在しているということである。

 また本疾患の患者に限ったことではないが、天候の変化に対し、自分の症状変化を察知して的確に予知することができるのも、これもまた妙であるが、この篇を通読すれば納得がいく。


 中医学でいうところの、「同気相求」である。


 筆者の認識では、痹病に限らず、弁証による論治は目安にはなるが、論治だけでは治すことは難しい。これは中医学に対する筆者の認識である。

 やはり、認識論の基礎である八綱概念を念頭に、実際の患者の全身を、丹念に、丁寧に実際に触れ、気の偏在を具体的に把握するのが第一である。

 「患者の身体は、いったい何を表現しているのか」

 このような視点で、術者の心に映るものが無いと、やはり治療は難しいというのが筆者の実感する所である。


 <陰氣者.靜則神藏.躁則消亡.>

 陰氣なる者は、靜なれば則ち神藏し、躁なれば則ち消亡す。


 本篇中のこの文言は、金科玉条である。

 この文言にハッと気がついてから、これはなにも痹病にだけのことではなく、あらゆる病に通じることであると知った。

 現代人のいわゆる関節リュウマチは、心神不寧の長期化に伴う心血虚を伴っている場合が多い。

 だが、中医学でいう心血虚の症候は見られない。


 また風論に述べられている通り、風邪(ふうじゃ)は百病の長である。

 肝気が鬱すれば、風邪は退かないのである。

 筆者は、心肝が目付どころと考えている。

 人の心までをも如実に表現している、患者の身体を通じてそのように実感するからである。

 まことに以て古典は、尊いものである。


 ちなみに、一般的にと卑を混同して用いられている場合が多く見受けられるが、病態が正しく表現されていない。正しくは、畀→痹であることを付記しておく。


 



原 文 意 訳
 

 黄帝が申された。
 は、どのような病理で生じるのであろうか。

 岐伯がこれに対して申された。
 風寒湿の三気がまじりあって身体を侵し、を生じるのであります。

 三気の内、風気が強いものは、痛む部位が移動する行となり、寒気が強いものは激しく痛む痛となり、湿気が強いものは痛む部位が固定する著痺となります。

 帝が申された。
 なるほど。では五というものがあるが、それはどのようなものなのか。

 岐伯が申された。
 風寒湿の邪気がそれぞれ勝ったの種別は三種類でありますが、邪気が人体を侵す時期によって、また五に分けることができるのであります。

 すなわち、冬に邪を得ると骨、春に邪を得ると筋、夏に邪を得ると脉、夏の土用の至陰に邪を得ると肌、秋に邪を得ると皮と、分類して認識することができます。

帝が申された。
 これら風寒湿の邪気が、五臓六腑にまで深く入り込み、舍ってしまうことがあるが、何の気がそのようにさせるのであろうか。

 岐伯が申された。
 五臓にはそれぞれの気が合するところがあります。
 病となって邪が退かずに長引きますと、合しているその部位から内部の五藏に伝わり、以下に述べますように各五臓に舍るようになるのであります。

 骨が治らないうちに、再び邪に侵されると、五藏の腎に舍ります。

 筋が治らないうちに、再び邪に侵されると、五藏の肝に舍ります。

 脉が治らないうちに、再び邪に侵されると、五藏の心に舍ります。

 肌が治らないうちに、再び邪に侵されると、五藏の脾に舍ります。

 皮脾が治らないうちに、再び邪に侵されると、五藏の肺に舍ります。

 いわゆると申しますは、それぞれ五臓の旺する時期に、風寒湿の邪気に重ねて侵されたことによるものであります。


 おおよそ、が五臓に居座った場合の症状を申し上げます。

 肺の症状は、胸がもやもやと落ち着かず胸がいっぱいになり、苦しくなるので喘ぎ、吐きます。

 心の症状は、脉に気血が通じなくなり、胸がもやもやと落ち着かなくなると同時に、心下が詰まり、その部位に動悸を打ちます。
 その上突然気が突き上がってくると喘ぐようになり、喉が乾いてゲップがでます。
 さらに厥気が上ると、心神を脅かしますので神気が安定せず、恐れの感情を現すようになります。

 肝の症状は、夜床に就いても気が昂ぶりハッとして驚きやすく、水をたくさん飲んで何度も小便に行くようになります。
 さらにあたかも妊娠しているかのように、次第に下腹部が上に引っ張られ膨満します。

 腎の症状は、よく脹満を来し、うずくまったまま立つことができないので尻が踵から離すことができません。
 さらに頭が本来の背骨の高さよりも下がり、背中も丸まって伸びなくなります。

 脾症状は、手足が無力となってだらりと垂れ下がり、咳をすると胃液を吐き、胸がひどく塞がったかのようになります。

 腸の症状は、度々水を飲む割に小便に行ってもあまり出なく、飲水と中気があわただしく争いますので、時には小便に行くはずの飲水が腸に走って下痢を起こすことがあります。

 胞の症状は、下腹部の膀胱付近を按じると、中の方で痛むようであり、小便は熱い湯のように感じ、鼻からは水様性の鼻水が出ます。


 陰気と申しますは、本来の性質の静でありますと、神気は治まり各藏に蔵されるものです。

 それに反して躁でありますと、治まる所を失って散ってしまい、終には消えて亡くなります。そのような状態で飲食を重ねますと、腸胃は次第に障害されその機能も低下してきます。


 淫気と申しますは、邪が深く入り込み、しかも長期間ひつこく居座る、たちの悪い邪気のことであります。

 その淫気による喘息は、すでにの中心が肺に在ります。

 その淫気によって憂思の情が止み難いのは、すでにの中心が心に在ります。

 その淫気によって小便がもれてしまう遺溺は、すでにの中心が腎に在ります。

 その淫気により気力も体力も尽きてしまったかのようになる乏竭(ぼうけつ)は、すでにの中心が肝に在ります。

 その淫気によって肌の色・張り・艶が無くなる肌絶は、すでにの中心が脾に在ります。

 これら諸々のが治らないと、次第に内部に入り込んで盛んとなるものであります。

 しかしながら風寒湿の邪気の内、風邪が中心の場合は、比較的治りやすいのであります。


 帝が申された。
 病に罹り、時に死亡する者、疼痛が慢性化した者、また比較的容易に治る者などがいるが、それは一体どのような訳であろうか。

 岐伯が申された。
 病邪が直接臓に入りますと、死亡いたします。

 病邪が筋骨の間に連なる様に留まる場合、疼痛は長引くのであります。

 その病邪が、正気に阻まれて深く侵入することができず、体表のごく浅い皮膚にあるようですと、比較的治りやすいのであります。


 帝が申された。
 その病邪が六腑に舍るのは、どのような訳であろうか。

 岐伯が申された。
 これもまた同様に、飲食の不摂生、住居の不適切がこの病の根本原因となるのであります。

 六腑にもまた五藏と同じく兪穴がございます。

 その兪穴に風寒湿の邪気が中り、飲食の不摂生で正気が弱っていると兪穴から侵入し、やがて六腑に舍るようになるのであります。


 帝が申された。
 鍼を以てこれを治療するには、どのようにすればよいのであろうか。

 岐伯が申された。
 五藏にはそれぞれ兪穴があり、六腑には合穴があります。

 それに応じて分かれている経絡を手で探り、邪気を発するところを探し出します。

 そしてそれに従って補瀉の手を加えますと、病は治るのであります。


 帝が申された。
 栄衛の気もまた、人に病を起こさせるのであろうか。

 岐伯が申された。
 栄気と申しますは、水穀の精気でありまして、これによって五臓は調和を保ち、六腑は潤いを得ることができます。

 また栄気は脉に入り気血となって全身を養いますれば、栄気は経絡を通じて上下し、五藏を貫き六腑を絡うことになります。

 衛気と申しますは、水穀中の強く荒々しく、しかも猛々しい悍気(かんき)のことであります。

 しかも衛気は、慓疾滑利でありまして、潤滑に素早く瞬時に動くという性質を有しております。

 したがいまして、衛気は皮膚中や筋間を循り、五藏を包んでいる肓膜を温め、胸腹に広く散じてその機能を全うしています。

 ところが、何らかの原因で、その気が逆流しますと病みますが、順調に循れば病であったとしても癒えるのであります。

 ですから衛気が順調に循り、風寒湿の邪気を合することが無ければ、病とはならないのであります。


 帝が申された。
 なるほど、よく理解できた。

 痹病であっても、痛んだり痛まないもの、不仁(ふじん)であったりまた寒であったり熱であったり、さてまた燥であったり湿であったりと、その病態は様々であるが、その理由はどのようであるのか。

 岐伯が申された。
 病で痛むものは、風寒湿の内の、寒気が多いが故であります。

 病であるのに、痛みは無く感覚を失う不仁となるものは、病となってから慢性化したものでありまして、それに従って邪気もまた深く入り込んだがためにであります。

 すると栄衛の気の流れもまた次第に渋り、時に経絡相互の関係に不調和を来し、通じなくなりますますので、皮膚の感覚機能も失調し、不仁となるのであります。

 痹病で寒するものは、元々の素体として陽気少、陰気多であるところに、三邪気の寒邪が加わりますので、寒となるのであります。

 痹病で熱するものは、同様に素体として陽気多、陰気少であるところに、三邪気が加わりますと、邪気と激しく抗争し、邪気が勝って退きませんと熱となるのであります。

 痹病で汗多く、肌表が常に濡れているものは、湿気が湿邪として感応する確率が高くなります。

 このような者の素体は、陽気少、陰気多でありますので、風寒湿の内、湿邪が加わりますと、全身が濡れるような汗が多く出るのであります。



 帝が申された。
 病であっても、痛まないものがいるが、どのような訳であろうか。

 岐伯が申された。
 が骨に在りますと、全身が重くなります。

 脉に在りますと、血は凝滞して流れなくなります。

 筋に在りますと、屈したまま伸びなくなります。

 肉に在りますと、感覚麻痺である不仁となります。

 皮にありますと、寒となります。

 したがいまして、これらの五者は、それぞれの場に単に留まっているだけなので、身体の不調はあっても、痛まないのであります。

 しかしながら、先に述べましたように、重ねて邪に侵されますと様相は一変いたします。

 一般的に病は、寒邪に逢いますと引きつりますが、熱に逢いますと緩むものであります。

 帝が申された。
 なるほど、あい分かった。



原文と読み下し



黄帝問曰.之安生.
岐伯對曰.
風寒濕三氣雜至.合而爲也.
其風氣勝者.爲行.寒氣勝者.爲痛.濕氣勝者.爲著也.
黄帝問いて曰く。はこれ安(いずくん)ぞ生ずるや。
岐伯對して曰く。
風寒濕の三氣雜(まじわ)り至り、合してるなり。
其の風氣勝つ者は、行と爲り、寒気勝つ者は、痛と爲り、湿気勝つ者は、著痺と爲る。

帝曰.其有五者.何也.
岐伯曰.
以冬遇此者.爲骨.以春遇此者.爲筋.以夏遇此者.爲脉.以至陰遇此者.爲肌.以秋遇此者.爲皮
帝曰く。其の五有る者は、何なるや。
岐伯曰く。
冬に以て此れに遇う者は骨と爲り、春に以て此れに遇う者は筋と爲り、夏に以て此れに遇う者は脉と爲り、至陰に以て此れに遇う者は肌と爲り、秋に以て此れに遇う者は皮と爲る。

帝曰.内舍五藏六府.何氣使然.
岐伯曰.
五藏皆有合.病久而不去者.内舍於其合也.
不已.復感於邪.内舍於腎.
不已.復感於邪.内舍於肝.
不已.復感於邪.内舍於心.
不已.復感於邪.内舍於脾.
不已.復感於邪.内舍於肺.
所謂者.各以其時.重感於風寒濕之氣也.
帝曰く。内は五藏六府に舎るは、何の氣の然らしむるや。
岐伯曰く。
五藏に皆合有り。病久しくして去らざる者は、内りてその合に舍るなり。
故に
已まず、復た邪に感ずれば、内りて腎に舍す。
已まず、復た邪に感ずれば、内りて肝に舍す。
已まず、復た邪に感ずれば、内りて心に舍す。
已まず、復た邪に感ずれば、内りて脾に舍す。
已まず、復た邪に感ずれば、内りて肺に舍す。
所謂なる者は、各おのその時を以て、風寒濕の氣に重感するなり。

之客五藏者.
者.煩滿喘而嘔.
者.脉不通.煩則心下鼓.暴上氣而喘.乾善噫.厥氣上則恐.
者.夜臥則驚.多飮數小便.上爲引如懷.
者.善脹.尻以代踵.脊以代頭.
者.四支解墮.發嘔汁.上爲大塞.
者.數飮而出不得.中氣喘爭.時發
者.少腹膀胱按之内痛.若沃以湯.澀於小便.上爲清涕.
凡その五藏に客する者は、
は、煩滿して喘ぎて嘔す。
は、脉通ぜず、煩すれば則ち心下鼓す。暴(にわか)に上氣して喘ぎ、乾して善く噫す。厥氣上れば則ち恐す。
は、夜臥すれば則ち驚し、多飮して數しば小便す。上りて引を爲すこと懷の如し。
は、善く脹し、尻を以て踵に代(かわ)り、脊を以て頭に代る。
は、四支解墮し、發し汁を嘔す。上は大いに塞を爲す。
は、數しば飮して出るを得ず、中氣喘爭して、時に泄を發す。
は、少腹膀胱これを按ずれば内痛む。沃(そそ)ぐに湯を以てするが若し、小便澀(しぶ)り、上は清涕を爲す。

陰氣者.靜則神藏.躁則消亡.飮食自倍.腸胃乃傷.
淫氣喘息.聚在肺.
淫氣憂思.聚在心.
淫氣遺溺.聚在腎.
淫氣乏竭.聚在肝.
淫氣肌絶.聚在脾.
不已.亦益内也.其風氣勝者.其人易已也.
陰氣なる者は、靜なれば則ち神藏し、躁なれば則ち消亡す。飮食自ずから倍すれば、腸胃は乃ち傷る。
淫氣喘息すれば、聚まりて肺に在り。
淫氣憂思すれば、聚まりて心に在り。
淫氣遺溺すれば、聚まりて腎に在り。
淫氣乏竭すれば、聚まりて肝に在り。
淫氣肌絶すれば、聚まりて脾に在り。
已まざれば、亦た益ます内れるなり。其の風氣勝つ者は、其の人已み易きなり。
  
帝曰.其時有死者.或疼久者.或易已者.其故何也.
岐伯曰.
其入藏者死.
其留連筋骨間者.疼久.
其留皮膚間者.易已.
帝曰く。其れ時に死する者、或いは疼(うず)き久しき者、或いは已え易き者あり。其の故は何なるや。
岐伯曰く。
其れ藏に入る者は死す。
其れ筋骨の間に留連する者は、疼き久し。
其れ皮膚の間に留る者は、已易し。
  
帝曰.其客於六府者.何也.
岐伯曰.此亦其食飮居處.爲其病本也.六府亦各有兪.風寒濕氣中其兪.而食飮應之.循兪而入.各舍其府也.
帝曰く。其れ六府に客する者は、何んぞや。
岐伯曰く。此れ亦た其の食飮居處、其の病の本と爲す。六府も亦た各おの兪有り。風寒濕氣其の兪に中り、しかして食飮これに應じ、兪を循りて入り、各おの其の府に舎るなり。

帝曰.以鍼治之奈何.
岐伯曰.五藏有兪.六府有合.循脉之分.各有所發.各隨其過.則病也.
帝曰く。鍼を以てこれを治すること奈何にするや。
岐伯曰く。五藏兪有り、六府に合有り、脉の分を循り、各おの發する所有り。各おのその過ぎるに隨えば、則ち病(いゆ)るなり。

帝曰.榮衞之氣.亦令人乎.
岐伯曰.
榮者.水穀之精氣也.和調於五藏.灑陳於六府.乃能入於脉也.
故循脉上下.貫五藏.絡六府也.
衞者.水穀之悍氣也.其氣慓疾滑利.不能入於脉也.故循皮膚之中.分肉之間.熏於肓膜.散於胸腹.逆其氣則病.從其氣則愈.不與風寒濕氣合.故不爲
帝曰く。榮衞の氣、亦た人をしてならしめるや。
岐伯曰く。
榮なる者は、水穀の精氣なり。五藏を和調し、六府を灑陳(さいちん)すれば、乃ち能く脉に入るなり。
故に脉を循りて上下し、五藏を貫き、六府を絡うなり。
衞なる者は、水穀の悍氣なり。其の氣は慓疾滑利にして、脉に入ること能わざるなり。故に皮膚の中、分肉の間を循り、肓膜を熏じ、胸腹に散ず。逆すれば其の氣は則ち病む。從えば其の氣は則ち愈ゆ。風寒濕の氣と合せず。故にさず。

帝曰善.或痛.或不痛.或不仁.或寒或熱.或燥或濕.其故何也.
岐伯曰.
痛者.寒氣多也.有寒故痛也.
其不痛不仁者.病久入深.榮衞之行.經絡時疏.故不通.皮膚不營.故爲不仁.
其寒者.陽氣少.陰氣多.與病相益.故寒也.
其熱者.陽氣多.陰氣少.病氣勝.陽遭陰.故爲熱.
其多汗而濡者.此其逢濕甚也.陽氣少.陰氣盛.兩氣相感.故汗出而濡也.
帝曰く、善し。或いは痛み、或いは痛まず、或いは不仁し、或いは寒し、或いは熱し、或いは燥し、或いは濕す。其の故は何なるや。
岐伯曰く。
痛なる者は、寒氣多きなり。寒有るが故に痛むなり。
其の痛まずして不仁する者は、病久しくして深く入り、榮衞の行り(しぶ)りて、經絡時に疏なり。故に通ぜずして、皮膚營まず。故に不仁を爲す。
其の寒なる者は、陽氣少なく、陰氣多し。病と相い益す。故に寒するなり。
其の熱する者は、陽氣多く、陰氣少なし。病の氣勝る。陽は陰に遭う。故に熱と爲る。
其の多汗にして濡れる者は、此れ其の濕に逢うこと甚だしきなり。陽氣少なく、陰氣盛ん。兩氣相い感ず。故に汗出でて濡るなり。

帝曰.夫之爲病.不痛何也.
岐伯曰.
在於骨.則重.
在於脉.則血凝而不流.
在於筋.則屈不伸.
在於肉.則不仁.
在於皮.則寒.
故具此五者.則不痛也.
之類.逢寒則急(蟲).逢熱則縱.
帝曰善.
帝曰く。夫れの爲す病たるや、痛ざるは何なるや。
岐伯曰.く。
骨に在れば、則ち重し。
脉に在れば、則ち血凝りて流れず。
筋に在れば、則ち屈して伸びず。
肉に在れば、則ち不仁す。
皮に在れば、則ち寒す。
故に此の五を具(そな)うる者は、則ち痛まざるなり。
凡そ類、寒に逢えば則ち急(蟲)し、熱に逢えば則ち縱(ゆる)む。
帝曰く、善し。


※甲乙経に倣い、蟲を急に作る



 鍼専門 いおり 鍼灸院