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鍼灸医学の懐

黄帝内経の意訳と解説 最後に原文と読み下しを記しています。

逆調論篇第三十四.

通りすがりの路傍にて

 
 本篇の逆を一語で表現すれば、陰陽の不調和について、寒熱・水火・栄衛などのアンバランスを症例を用いて解説している。

 陰陽論を用いて、身体の気の偏性をイメージし、ここでは触れていないが顔の気色であるとか脉診にはどのように現れているのだろうかなどと、空想に耽りながら読み進めると、推理小説を読んでいるかのように、推理と空想の世界が拡がる。

 推理と空想を日常の臨床で、現実として確認できると、いよいよこの書がどれだけ貴重なものなのであるかを実感する。

 現代における脳・神経疾患による不随運動、喘息、リウマチ、不眠などの難病を髣髴とさせる記述があるが、現代医学とはまた違った観点からこれらの疾患を捉えると、現代医学の難病が、東洋医学的には難病でなくなることは、たびたび臨床で経験している。

 筆者は、病証そのものよりも、やはり気の偏在を引き起こす、そのメカニズムの視点こそが重要だと考えている。

 それさえ感得することができれば、表面に現れる症状に囚われることなく、あらゆる疾患、万病に対処することができるからだ。

 あらゆる病に対する東洋医学的な病因病理の認識論は、歴史的時間を経た今日でも十分通用する。

 



原 文 意 訳


 黄帝が申された。
 人身は常に温病や熱病に罹っているわけでも無いであろうに、時として発熱して胸がソワソワと煩わしく、胸が詰まったかのように息苦しく感じる煩満が生じるのは、いったいどのような訳であるのか。

 岐伯がそれに対して申された。
 陰気が少なく、陽気が勝るために、発熱して煩満するのであります。

 帝が申された。
 人身の衣服が問題で寒いのではなく、また元々体内に寒気があるわけでもないのに、寒が体内から生じてくるのは、なぜであろうか

 岐伯が申された。
 これはその人に、痺気が多いためであります。陽気が少なく、陰気が多いからで、身体の寒えの状態は、あたかも水中から出た時のようであります。



 帝が申された。
 人の手足に熱があり、その時に風寒の邪に逢うと、火であぶられたかのように熱するのは、なぜであるのか。

 岐伯が申された。
 この人は、陰気が虚し、陽気が盛んなのであります。手足と申しますは、陽でありまして、風邪もまた陽邪であります。

 この陽に陽が重なりますと、陰気はさらに虚衰し、少なくなってしまった腎水では、もはや盛んに過ぎてしまった火熱を滅することができなくなってしまいます。


 そうなりますと陽は独裁的に身体を支配するようになり、全てを燃やしてしまいますので、生長することができません。


 ですから陽が勝ってしまうと、生長は停止してしまうのであります。


 さらに、風邪に逢って火あぶりのように熱する状態が続きますと、肉体は当然次第に痩せ衰え、げっそりとして来るのであります。





 帝が申された。
 人の身体が寒えており、湯や直接火にあたっても温かくならない。また厚着をしても暖かくならない。

 しかしながらだからと言って身体が凍ったようにガタガタと震えるわけでもないのは、これはどういった病によるのであろうか。


 岐伯が申された。
 この人は、元々腎気が勝っており、腎気が強いことに頼んで、無理をして物事を行い続けたからであります。

 物事を無理をして行い続けますと、多血少気の足太陽の気は衰え、多気少血である足少陰の腎精は枯れたようになり骨髄を充実させることができなくなるのであります。


 一水と申しますは、両火に勝つことができません。

 腎は水臓で骨を生じますが、腎気が虚しますと骨だけでなく髄も充実させることができません。


 従いまして寒が甚だしいと空虚となった、深部の骨にまで達するのであります。


 骨にまで寒が達しているにもかかわらず、身体が凍ったようにガタガタと震えない理由は、一陽の肝と二陽の心に対して、腎は身体の最も陰気の多い最下部にあり、しかも下焦にただ一臓のみ存在する孤臓であるからであります。

 一水の腎は、心肝の二火に勝てないので、深く骨髄に寒が至っていても、筋脈肌肉は二火によって救われるので身体は凍ったかのように冷たくガタガタと震えることもないのであります。


 このような状態の病を、骨痺と名づけ、このような人は関節が引きつれます。





 帝が申された。
 人の肌肉が痺れたり麻痺しており、衣服を着ても依然として変わりがない。これは何という疾なのであろうか。

 岐伯が申された。
 一般的には、衛気は栄気を源と致しますので、相対的に栄気は虚しやすく、衛気は実しているのであります。

 ところが栄衛の調和が大きく崩れ、栄気が大きく虚しますと感覚麻痺の不仁となり、衛気が虚しますと動かなくなります。


 栄衛が共に虚しますと、感覚が麻痺して動かなくなるのでありますが、肌肉は痩せ衰えることはありません。


 人の身体と意志がちぐはぐとなり、動かそうとしていないのに勝手に手足や肌肉が動くようになりますと、死するのでございます。



 帝が申された。
 人に気が上逆して臥することができない状態で、呼吸音のある者と、無い者がいる。

 また日常生活の行動は普通であるが、呼吸音のある者がいる。

 さらに臥することはできるが、行動すると喘ぐ者がいるかと思えば、臥することも行動することもできずに喘ぐ者がいる。

 また臥することができず、臥すると喘ぐ者もいる。これらは全てどこの臓によって起きているのであろうか。

 願わくばその理由を聞かせてもらいたいのだが。



 岐伯が申された。
 臥することができず、呼吸音のある者は、これは陽明の気逆であります。足の三陽は、下行いたしますが、今逆行し上っておりますので、呼吸音がするのであります。

 陽明とは、胃の脉でありまして、胃は六腑の海でございますので、その気は本来、下行すべきなのであります。

 ところが陽明の気が上逆いたしますと、六腑すべてにその類が及び、常道が失われ、心下が塞がって臥することができなくなるのであります。


 「下経」に、胃和せざれば則ち、臥すること安からず、と述べられているのは、このことであります。

 次に、日常生活の行動には特に問題はないのに、呼吸音のする者は、肺の絡脉の気逆であります。

 絡脉が本経にしたがって上下することができない状態ですと、本経も幾分か停滞して行らなくなります。

 しかし、絡脉の病は程度が軽いため、日常生活には問題ありませんが、呼吸に異常が現れ、音がするのであります。


 さらに臥することができず、強いて臥すると喘ぎがするものは、水気が停滞しているためであります。

 水と申しますは、津液の流れと一緒に循るものであります。

 そして腎は水臓でありまして、津液を主ります。


 従いまして、腎気が虚衰して津液を主ることができませんと、臥すると水気が肺に迫りますので喘ぎが生じるのであります。


 ですから、腎気が虚衰して水気が溢れております者は、非常に疲れていても、臥することを好まないのであります。


 帝が申された。よく理解することができた、と。



原文と読み下し

黄帝問曰.人身非常温也.非常熱也.爲之熱而煩滿者.何也.
岐伯對曰.陰氣少而陽氣勝.故熱而煩滿也.
黄帝問いて曰く。人身常に温あらざるなり。常に熱するにあらざるなり。これが熱を爲して煩滿する者は、何んぞや。
岐伯對して曰く。陰氣少なくして陽氣勝つ。故に熱して煩滿するなり。

帝曰.人身非衣寒也.中非有寒氣也.寒從中生者何.
岐伯曰.是人多痺氣也.陽氣少.陰氣多.故身寒如從水中出.
帝曰く。人身衣の寒きにあらず、中に寒氣有るにあらざるに、寒の中より生する者は何んぞや。
岐伯曰く。是れ人に痺氣多ければなり。陽氣少く、陰氣多し。故に身の寒きこと水中より出でざるが如し。

帝曰.人有四支熱.逢風寒.如炙如火者.何也.
岐伯曰.是人者.陰氣虚.陽氣盛.四支者陽也.兩陽相得.而陰氣虚少.少水不能滅盛火.而陽獨治.獨治者.不能生長也.獨勝而止耳.逢風而如炙如火者.是人當肉爍也.
帝曰く。人の四支に熱有り。風寒に逢いて火に炙(あぶ)るが如き者は、何なるや。
岐伯曰く。是の人なる者は、陰氣虚し、陽氣盛んなり。四支なる者は陽なり。兩陽相得て、しかも陰氣虚少なり。少水は盛火を滅すること能わずして、陽獨り治す。獨り治す者は、生長すること能わざるなり。獨り勝ちて止むのみ。風に逢いて炙るが如く火の如き者は、是の人當(まさ)に肉爍(しゃく)すべし。

帝曰.人有身寒.湯火不能熱.厚衣不能温.然不凍慄.是爲何病.
岐伯曰.
是人者.素腎氣勝.以水爲事.
太陽氣衰.腎脂枯不長.
一水不能勝兩火.腎者水也.而生於骨.腎不生.則髓不能滿.故寒甚至骨也.
所以不能凍慄者.肝一陽也.心二陽也.腎孤藏也.一水不能勝二火.故不能凍慄.病名曰骨痺.是人當攣節也.
帝曰く。人に身に寒有り。湯火も熱すること能わず。厚衣するも温むること能わず。然(しか)れども凍慄せざるは、是れ何病と爲すや。
岐伯曰く。
是の人なる者は、素(もと)腎氣勝るなり。水を以て事を爲すなり。
太陽の氣衰え、腎脂枯れて長ぜず。
一水は兩火に勝つこと能わず。腎なる者は水なり。しかして骨を生ず。腎生ぜざれば、則ち髓滿つること能わず。故に寒甚だしく骨に至るなり。
凍慄すること能わざる所以(ゆえん)の者は、肝は一陽なり。心は二陽なり。腎は孤藏なり。一水二火に勝つこと能わず。故に凍慄すること能わず。病名づけて骨痺と曰く。是の人當に攣節すべし。

帝曰.人之肉苛者.雖近衣絮.猶尚苛也.是謂何疾.
岐伯曰.榮氣虚.衞氣實也.榮氣虚則不仁.衞氣虚則不用.榮衞倶虚.則不仁且不用.肉如故也.人身與志不相有.曰死.
帝曰く。人の肉苛(にくか)なる者は、衣絮(いじょ)を近づけると雖(いえど)も、猶(な)お尚(なお)苛なるが如し。是れ何の疾と謂うや。
岐伯曰く。榮氣虚し、衞氣實するなり。榮氣虚すれば則ち不仁し、衞氣虚すれば則ち用いず。榮衞倶に虚すれば則ち不仁し且(か)つ用いずして、肉は故(もと)の如きなり。人の身と志とを相有(たもた)ざるを、死と曰く。

帝曰.
人有逆氣不得臥.而息有音者.
有不得臥而息無音者.
有起居如故.而息有音者.
有得臥.行而喘者.
有不得臥.不能行.而喘者.
有不得臥.臥而喘者.皆何藏使然.願聞其故.
帝曰く。
人逆氣して臥するを得ずして、息に音ある者有り。
臥すること得ずして息に音無き者有り。
起居故(もと)の如くにして息に音有る者有り。
臥するを得ず、行きて喘(あえ)ぐ者有り。
臥するを得ず。行くこと能わずして喘ぐ者有り。
臥するを得ずして喘ぐ者は、皆何藏の然(しか)らしむるや。願わくばその故を聞かん。

岐伯曰.
不得臥而息有音者.是陽明之逆也.足三陽者下行.今逆而上行.故息有音也.
陽明者胃脉也.胃者六府之海.其氣亦下行.陽明逆.不得從其道.故不得臥也.
下經曰.胃不和則臥不安.此之謂也.
岐伯曰く。
臥するを得ずして、息に音有る者は、是れ陽明の逆なり。足の三陽なる者は下行す。今逆して上行す。故に息に音有るなり。
陽明なる者は胃の脉なり。胃なる者は六府の海なり。其の氣はまた下行す。陽明逆して、其の道に從うを得ず。故に臥するを得ざるなり。
下經に曰く。胃和せざれば則ち臥すること安安からず、とはこれ此れを謂うなり。

夫起居如故而息有音者.此肺之絡脉逆也.
絡脉不得隨經上下.故留經而不行.絡脉之病人也微.故起居如故.而息有音也.
夫れ起居故の如くにして息に音有る者は、此れ肺の絡脉逆するなり。
絡脉、經に隨がいて上下するを得ず。故に經に留まりて行かず。絡脉の人を病ましむるや微なり。故に起居故の如くにして息に音有るなり。

夫不得臥臥則喘者.是水氣之客也.
夫水者循津液而流也.腎者水藏.主津液.主臥與喘也.
帝曰善.
夫れ臥するを得ず。臥せば則ち喘ぐ者は、是れ水氣の客するなり。
夫れ水なる者は、津液に循(した)がいて流れるなり。腎なる者は水藏にして、津液を主り、臥と喘を主るなり。
帝曰く。善し。

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