鍼灸医学の懐

主に黄帝内経の意訳と解説 最後に原文と読み下しを記しています。その他、随時古典資料を追加しています。

疏五過論篇第七十七.

 本篇に記されている内容は、内経医学の疾病観に関わることが記述されている。

 人生には卒業・入学・就職・退職・結婚・離婚・死別など、数多くの節目や浮き沈みがつきものである。

 このような人生の荒波の中で、人は様々な事を思い感情もまた揺れ動くものである。

 人の内面的世界や人生の浮き沈みが、病と深くかかわっていることは、臨床的には決して珍しく無い。

 本編で主張されている骨子は、『単に病を診るのではなく、人を観てこれを治す』ということである。

 このような視点に立って病に相対時すれば、病が治癒すればその人の生命が耀く方向へと流れ、その人の望む人生そのものが平和に全うされることに繋がる。

 社会は、関係性で成り立っています。

 世界を広く観れば医学は、小事です。

 政治は、大事です。

 いわば、上から治めるか、下から治めるのかの違いだけです。

 個人個人が平和で健康的調和が保たれていれば、平和で調和的な世界が実現されるというのが、内経医学の思想だと筆者は理解しております。

 これが内経医学で唱えられている『国士たる医療者の意識』だと考えています。

 この世でご縁があり導かれ、与えられたこの仕事を通じて自らを高め、真に社会に貢献することを説いた篇であるとも認識してます。

 ちなみに、黄帝が述べている五過四徳の「徳」については、触れているところがありません。

 五過を要約して陰陽転化すれば、四徳となるのではないかと推測しています。

 この意訳は、筆者の主観が色濃く反映されていますので、深く自分なりの解釈を求められる方は、原文と読み下し文に触れてくださればと思います。

 さて、読者諸氏はいったい、どのように読まれるでしょうか。

 

 

           意 訳

 

 黄帝が深く嘆息しながら、聖人の術に遠く思いを馳せ、思案しておられた。宇宙法則の深遠なることは、深淵を視るがごとく、浮雲を仰ぎ望むかのようである。

 深淵は深いといっても計測することができるが、浮雲を仰ぎ望んでは、その動きや形、その雲の浮き出て消えるその様は計測することができないものだ。

 聖人の術というのは、万民の手本であり、我々もまた見習うべきものである。時に人々の志意の善悪を論じて裁決することがあっても、必ず天道に適っているものだ。

 このように経脉に循(したが)い天の定数を守り、医事を按じてこれに循い、万民の補佐とならなくてはならない。

 さて、医事には五過四徳ということがあるのだが、そちはこれを知っておるか。

 雷公は席を離れ、再拝して申された。

 臣は年少者でして、物事に暗く愚かでありますゆえ惑う者であります。五過と四徳は、聞いたことがございません。

 病形や病名にとらわれてしまっております上に、それらを比類してはみるものの判然とせず、虚しくいずれかの経脉に引き当ててはみるものの、心中にしっくりと来るような納得を得られないでおります。

 帝が申された。

 おおよそ初めて病人を診るときは、必ず元々貴く高い地位にあった者が後に賤民になり下がったのではないかを問うのである。もしそのようであるなら、邪気に中らずとも病は内部から生ずるものである。これを名づけて営脱と称するのである。

 またかつて裕福で後に貧賤に陥いり、発病したものは、名づけて失精と称するのである。この場合、五臓の気がそれぞれ連なるように留滞し、合併症など複雑な状態を現出する。

 医者がこのような病人を診た場合、特に臓腑の異常所見を得られないばかりか、外見上の肥痩にも目立った変化が見られず、診察を終えて詐病ではないかと疑いさえ生ずる有様で、病名のつけようもないのである。

 ところがその日より身体は日に日に痩せ衰えるようになり、気は虚して精もまた無くなってくる。そして病が次第に深くなり気が無くなればゾクゾクとして震え寒がり、時にちょっとしたことにも驚くようになってくるものじゃ。

 これは、外の衛気がジワジワと損耗され、内は栄気が奪するからである。

 腕の良い医者であっても、このような病の背景や由来が病の原因になることを知らないようでは、病情を診察しても診断はおろか適切な治療さえできないものじゃ。これはまた、治療者の過失の第一である。

 

 およそ病を診ようとするのであれば、必ず飲食の内容や状態、住んでいる所が低地なのか高地なのかなど、どのようなところに住居し、またその住居がどんな様子なのかを問うことが大切である。

 その上で、にわかに喜び楽しみ、また窮して苦しむような状態で無いかどうか。または最初は喜び楽しんでいたとしても、その後に窮して苦しんでいないかどうかも大切な着眼点である。

 もしそのようであれば、皆精気を傷っているものである。精気が尽きて絶えてしまえば、肉体もまた損なわれてしまうのである。

 さらにまた、にわかに怒するようなことがあれば陰気を傷り、にわかに喜ぶようなことがあれば、陽気を傷ってしまうのである。怒が過度であれば、厥気が上行して脈は満ち、ついには身体が傷れて死に至るのである。

 愚医がこのような者を治療するに際しては、七情の病であることなど眼中にないので病に対する補瀉を知ることさえができないのじゃ。病情の機序も理解できないので、神気の現れである精華は日を追うごとに抜けていき、虚に乗じて邪気がはびこるようになるのである。これが治療者の過失の第二である。

 

 脈診に長じている者は、必ず比類と奇恒、つまり病や症例を比較して分類し、一般論と特殊論をかみ分けた上で、従容として脈が表現しているものを正確につかみ取ることができるのである。

 したがって医師となってこれらのことを知らないということであれば、貴き医師としては不足である。これが治療者の過失の第三である。

 

 また診察に際しては、三つの定石があるのじゃ。

 まずはその人が世上で貴いと言われている身分なのか、それとも賤しいと言われている身分なのかどうか。

 そしてかつては国を任される程の身分にありながら、何かのことで敗れて成り下がったのかどうか。

 また侯王など、高い地位を望んで得られなかったのかどうか。

 これらのことを必ず、問いて明らかとすることが大事なのじゃ。

 そして貴き地位にあった者が、一度権勢を失うと精神はすでに内に傷れているものであるから、邪に中らずとも身体はやがて敗亡していくものである。

 地位だけでなく金銭においても同じことが言えるのじゃ。

 元々裕福であった者が貧者に転落すれば、邪に中るまでもなく、自ら皮毛はやつれ衰え、筋肉が硬くなって姿勢も屈したようになり、手足が萎えて自由が利かなくなる痿躄(いへき)となり、全身が引きつれたかのようになるものじゃ。

 このような病態の患者に対しては、医師たるものが毅然とした態度と言動で患者の心の有り様を説き諭すべきなのである。

 もし医師がそのような厳然たる態度を取り、諭すことが出来ないのであれば、患者の神気は動かないであろう。

 ましてや、医師が患者の気を損ねることを恐れたり、また自分の身を守るために患者の訴えに同調し、柔軟な態度で患者に接すれば、医師、患者ともに神気は乱れて常道を失うであろう。

 そのようなことでは移精変気の法を用いることなど、とてもおぼつかず、医事そのものが成り立たなくなるのじゃ。

 こうなってしまっては、双方ともに元も子も無くしてしまう。

 これが治療者の過失の第四である。

 

 おおよそ診察に際しては、必ず終始循環の法則に則り、発病前・発病・発病後の経過・病の予後の、最低この四つを知ることである。

 その上で、患者の身の回りの状態や日常の生活状況などの細々としたことを聞いてゆくのじゃ。

 その上で脉を切して名を問い、男女の生理の違いを参合して診断するのである。

 そして親族縁者、親友・恋人との生き別れ・死に別れなどの愛別離などがあれば、神気は鬱して結ばれていよう。

 また憂恐喜怒などの七情の情動が大いに乱れれば、五臓の精気は空虚となり気血は内を離れて守りを失するであろう。

 医師がこれらのことを知ることができないのであれば、どのように高邁で深淵な医学理論であろうと、これを語ってなんになろうか。

 かつて裕福であった者が貧賤のどん底に陥るようなことにでもなれば、そのうちに筋は斬られたかのように動かなくものじゃ。今まだ身体は動かせてはいても、気血の流れは次第に身体を潤さなくなるものである。

 そうすると、傷敗した血気は留まって硬く結ばれることとなり、陽にせまって変化して膿を生じ、さらに留結が留結を生んで寒熱交錯の病態となるのである。

 このことを知らず、しかも術の至っていない粗工である医師が治療にあたり、手足、腹背など手当たり次第に何度も刺鍼すれば、身体の精気は解散し、手足は転筋のように引きつれてしまうのである。このようなところにまで陥れば、死期もあと幾日と数えることができるようになってしまうのじゃ。

 治療にあたる医師が、これらの人情に不明で、また根となる病の背景を問うことさえ知らず、ただ死期を告げるだけでは、これもまた駄医の粗工である。これが治療者の過失の第五である。

 

 おおよそこれらの五過を犯してしまうのは、学んで術を手にしてはいるが、人事や世情に暗いからである。

 だからこそ、聖人とまで謳(うた)われる人物の治療は、必ず天地陰陽の消長・転化、四季の移り変わりの法則、それら天地に従って五臓六腑が変化する理(ことわり)、表裏関係にある男女の生理の違いなど、自然と人間との相関性をしっかりと認識しておるのじゃ。

 さらにそれだけではなく、鍼灸・砭石の宜しき所、毒藥の主る所など、落ち着いてゆったりとして構えてはいても、これらに世上の人間の人事までをも加味してすべてお見通しである。

 従って学問と道理とが一体となり、明確に目の前の病人を治することができるのである。

 

 そもそも貴賤貧富の者たちは、それぞれに備わっている品が異なっているのであるから、気血もまたその理(ことわり)が異なっているものである。

 また年齢的に気が盛んな年少者であるのか、気が衰え始めた年長者であるのかや、勇ましいか怯えやすいかなどの性格・性質なども問診術で探るのである。

 このようにまず太極をしっかりと捉えた上で、全体と細部とを矛盾を生じないようにはっきりと道理を以てつなげ、そもそも病に至った本質を知るのである。

 ちなみに、四時八風の理や九候などの診察法は、かならず付き添えて行うのである。

 

 治病の道は、内臓の気を最も貴びこれを宝とすることである。色々と考えをめぐらしてその理を求め、どうしてもその診断がつかない場合は、八綱・表裏の診断に立ち返り、そこに過ちが無かったかどうかを確認するのである。

 そして天の度数を人に当てはめてこれを守り、これを治療のよりどころとしてさらに兪穴の理を得てこの術を行えば、生涯医師としてあやういことから逃れることができるであろう。

 もしこの兪穴の理を知らないようであれば、五臓に熱が集まり積もり、六腑に廱(よう=腫物)を発するようになるであろう。

 病人を診察して病因病理や病理機序を明確にできないようであれば、医師として常道を逸した者というべきであろう。

 しかし、謹んでこれまで述べてきたことを踏まえて治療に臨めば、経に記されていない言外のことまでもが、明確に心に映るであろう。

 上経・下経に記されている、陰陽で病を明確に処する揆度(きたく)陰陽、一般論と特殊論の奇恒、五臓に中った病など、これらの最終診断は、明堂の気色・光沢などを診て決するのである。

 さらにこれに病の終始をつまびらかにすることが出来れば、自由闊達、鍼を自由無尽に駆使することが出来るであろう。

            原文と読み下し

 

黄帝曰.嗚呼.遠哉閔閔乎.若視深淵.若迎浮雲.視深淵尚可測.迎浮雲莫知其際.聖人之術.爲萬民式.論裁志意.必有法則.循經守數.按循醫事.爲萬民副.故事有五過四徳.汝知之乎.

黄帝曰く。ああ、遠なるかな※閔閔(ぴんぴん)乎として、深淵を視るが若き、浮雲を迎えるが若し。深淵を視るは尚測るべし。浮雲を迎えては其の際を知ることなし。聖人の術は、萬民の式たり。志意を論裁して、必ず法則有り。經に循いて數を守り、醫事を按循して、萬民の副と爲す。故に事に五過四徳有り。汝これを知るや。

※閔閔…ああでもない、こうでもないと思いをめぐらすこと。

 

 雷公避席再拜曰.臣年幼小.蒙愚以惑.不聞五過與四徳.比類形名.虚引其經.心無所對.

雷公席を避け再拜して曰く。臣年幼小にして、蒙愚にして以て惑う。五過と四徳を聞かず。形名を比類し、虚しく其の經を引くも、心に對する所無し。

 

帝曰.

凡未診病者.必問嘗貴後賎.雖不中邪.病從内生.名曰脱營.

嘗富後貧.名曰失精.

五氣留連.病有所并.

醫工診之.不在藏府.不變躯形.診之而疑.不知病名.

身體日減.氣虚無精.病深無氣.洒洒然時驚.病深者.以其外耗於衞.内奪於榮.

良工所失.不知病情.此亦治之一過也.

帝曰く。

凡そ未だ病を診せざる者は、必ず嘗(かつ)て貴くして後に賎しきかを問う。邪に中らずと雖(いえ)ども病は内より生ず。名づけて脱營と曰く。

嘗て富み後に貧しきは、名づけて失精と曰く。

五氣留連して、病并せる所有り。

醫工これを診るに、藏府に在らず、躯形は變せず、これを診して疑い、病名知らず。

身體は日に減じ、氣虚して精無し。病深く氣無ければ、洒洒然(さいさいねん)として時に驚す。病深き者は、其の外の衞を耗し、内は榮を奪するを以てなり。

良工の失する所、病情を知らず。此れ亦た治の一過なり。

 

 

凡欲診病者.必問飮食居處.暴樂暴苦.始樂後苦.皆傷精氣.精氣竭絶.形體毀沮.

暴怒傷陰.暴喜傷陽.厥氣上行.滿脉去形.

愚醫治之.不知補寫.不知病情.精華日脱.邪氣乃并.此治之二過也.

凡そ病を診んと欲する者は、必ず飮食居處を問う。暴かに樂しみ暴かに苦しみ、始め樂しみ後苦しむは皆精氣を傷る。精氣は竭絶(けつぜつ)し、形體は毀沮(きそ)す。

暴かに怒すれば陰を傷り、暴かに喜こべば陽を傷る。厥氣上行し、脉滿ちて形去る。

愚醫はこれを治して、補寫を知らず、病情を知らず、精華は日に脱し、邪氣は乃ち并す。此れ治の二過なり。

 

 

善爲脉者.必以比類奇恒.從容知之.爲工而不知道.此診之不足貴.此治之三過也.

善く脈を爲(おさ)める者は、必ず比類奇恒を以て、從容としてこれを知る。工と爲りて道を知らず。此れ診の貴きに足らず。此れ治の三過なり。

 

診有三常.必問貴賎.封君敗傷.及欲侯王.

故貴脱勢.雖不中邪.精神内傷.身必敗亡.始富後貧.雖不傷邪.皮焦筋屈.痿躄爲攣.

不能嚴.不能動神.外爲柔弱.亂至失常.病不能移.則醫事不行.此治之四過也.

診に三常有り。必ず貴賎、封君の敗傷、及び侯王たらんと欲するを問う。

故に貴きにて勢を脱すれば、邪に中らずと雖ども、精神内に傷れて、身必ず敗亡す。始め富み後貧するは、邪は傷らずと雖ども、皮は焦し筋は屈し、痿躄(いへき)して攣を爲す。

醫嚴なること能わず、神を動かすこと能わず、外は柔弱と爲せば、亂れて常を失うに至る。病移ること能わざれば則ち醫事行なわれず。此れ治の四過なり。

 

 

凡診者必知終始.有知餘緒.

切脉問名.當合男女.離絶結.憂恐喜怒.五藏空虚.血氣離守.工不能知.何術之語.

凡そ診する者は必ず終始を知り、餘緒を知ること有り。

脉を切して名を問い、當に男女を合すべし。離絶菀結、憂恐喜怒すれば、五藏は空虚し、血氣守りを離る。工知ること能わざれば、何の術をかこれを語らん。

 

 

嘗富大傷.斬筋絶脉.身體復行.令澤不息.故傷敗結留.薄歸陽膿.積寒炅.粗工治之.亟刺陰陽.身體解散.四支轉筋.死日有期.醫不能明.不問所發.唯言死日.亦爲粗工.此治之五過也.

嘗つて富しが大いに傷れ、筋を斬(た)ち脉を絶つ。身體は復(ま)た行くも、澤をして息せざらしめん。故に傷敗して結留し、薄(せま)れば陽に歸して膿み、積みて寒炅(かんけい)す。粗工これを治するに、亟(しば)しば陰陽を刺せば、身體は解散し、四支は轉筋して、死日に期有り。醫明らかとすること能わず、發する所を問わず、唯だ死日を言うは、亦た粗工と爲す。此れ治の五過なり。

 

 

凡此五者.皆受術不通.人事不明也.

故曰.聖人之治病也.必知天地陰陽.四時經紀.五藏六府.雌雄表裏.刺灸砭石.毒藥所主.從容人事.以明經道.

凡そ此の五者は、皆術を受けて通ぜず、人事明かならざるなり。

故に曰く。聖人の病を治するや、必ず天地陰陽、四時經紀、五藏六府、雌雄表裏、刺灸砭石.毒藥の主る所、從容として人事を知り、以て經道を明らかとする。

 

 

貴賎貧富.各異品理.問年少長.勇怯之理.

審於分部.知病本始.八正九候.診必副矣.

貴賎貧富、各おの品理を異にす。年の少長、勇怯の理を問いて、

部分を審らかとし、病の本始を知る。八正九候、診必副す。

 

 

治病之道.氣内爲寳.循求其理.求之不得.過在表裏.

守數據治.無失兪理.能行此術.終身不殆.

不知兪理.五藏菀熟.癰發六府.診病不審.是謂失常.

謹守此治.與經相明.

上經下經.揆度陰陽.奇恒五中.決以明堂.審於終始.可以横行.

病を治するの道、氣内を寳と爲す。循(めぐ)りて其の理を求む。これを求めて得ざれば、過は表裏に在り。

數を守り治に據(よ)りて、兪の理を失すること無く、能く此の術を行えば、終身殆(あや)うからず。

兪の理を知らざれば、五藏は菀熟し癰(よう)は六府に發す。病を診て審らかならず。是れを常を失うと謂う。

謹しみて此の治を守れば、經と相い明らかなり。

上經下經、揆度陰陽、奇恒五中、決するに明堂を以てし、終始を審らかにして、以て横行すべし。

 

※揆度(きたく) 揆・はかる、やりかた 度・ほどあい、程度、

 <素問・玉板論要篇> 病の深浅をはかる。 <素問・病能論篇> 脉象から病を推測・判断する。