鍼灸医学の懐

主に黄帝内経の意訳と解説 最後に原文と読み下しを記しています。その他、随時古典資料を追加しています。

解精微論篇第八十一.

 足かけ6年に及ぶこのシリーズも、ようやく終えることが出来、自分の中にも一応の区切りがついたかのように感じている。

 過去の投稿を振り返り見ると、随所に筆者のその拙さが露呈しており、赤面の情に絶えないものがある。

 ここを一つの終わりにして、また次の始まりとしたい。

 さて、本篇の内容を、なぜ締めくくりの81篇に持ってきたのであろうか。

 編纂者の意図を汲みかねるが、本篇の内容は、身体と七情との兼ね合いを「泣く」という現象の病理を説いたものである。

 ここから表題の「精微を解く」ことの意味を拡大解釈すれば、人体に表現されるあらゆる症状。

 つまり森羅万象を観て、気の動きを陰陽で捉えろ と訴えているように感じる。

 対象を認識する手段は様々存在していても、天人合一、陰陽の道理を離れてこの医学は成り立たないのだと語りかけられてるようである。

 読者諸氏のお考え、ご意見など賜れば、幸甚です。

 

             原 文 意 訳

 

 黄帝が明堂に居られたとき、雷公がお願いして申された。
 臣は帝より授かりました医学を、医学生に伝えております。

 経論、従容形法、陰陽刺灸、そして湯薬の滋養するところなど、これらを用いて臨床指導を行っております。
 ところが医学生には賢愚の者が居りまして、未だに完璧という状況ではありません。
 すでにお聞きしております、悲哀喜怒などの七情の問題、燥濕寒暑などの自然環境の変化と人体の問題、陰陽婦女など小児・婦人科の問題などにつきまして、さらに詳しくお聞かせ願いたく存じます。
 さらに卑賎富貴、人の形体、帝に仕えている多くの部下や通使に、帝のお指図通り、事あるたびにこの道術を行ってまいりました。
 ここに至りまして、経にも記されていないような諸問題を抱えております。
 臣は愚鈍なもので聞き漏らしたのかも知れませんが、これらの諸問題についてお聞かせくださいませんでしょうか。


 帝が申された。

 おぉ~そうであったか、それらは大変重要な事である。


 雷公が願い問われた。
 大声をあげて泣き叫んでも、涙の出ないものがおります。ところが中には涙は出るのですが鼻水が少ない者もおりますが、これらの違いの理由はどこに在るのでしょうか。


 帝が申された。
 それらは、すでに経に記されていることである。


 雷公が重ねて問われた。
 涙も鼻水も共に水であります。その水がどこから、何によって生じるのか分からないのであります。


 帝が申された。
 汝のこの質問は、直接治療には利益の無いことである。
 なにより医師として知っておくべきことは、陰陽の道によってこれらのことが生じているということである。


 心には五臓の精が集中している。目はその心気が現れる穴であり、顔面の気色や目の気色には、心の状態が現れているものである。
 これらのことから、その人に徳が備わっておれば気が和している状態が目に現れ、なにか失うようなことがあれば憂いの状態が目に現れるのが道理である。
 従って悲哀すれば涙は出るものであり、涙が出るということは水がどこかから生じて目にあふれ出たということになる。
 そしてその水の大元は、体内に蓄えられた積水によるものであり、積水は至陰である腎の精である。
 この腎精の水である涙が出ない場合は、腎がこれを固摂しているからであり、腎気は水を動かすが同時に制御もしているのである。
 したがって特殊な状況でなければ、涙は出ることが無いのが通常である。


 陰である水の精は志であり、陽である火の精は神である。この上下・水火が互いに感応し合い、心志が共に悲しむことによって、目に涙という水を生じさせるのである。
 ゆえに以下のような諺がある。
 「心悲しむを名づけて志悲という。」と。 これは志と心精が、一緒になって目に湊(あつま)ることを言っているのである。


 以上のことを踏まえて、心腎がともに悲しみに感応すれば、神気は心にのみ伝えて精を上らせ、孤立した腎志は悲んで水の制約を解くので、水は上って目から涙が出るのである。(神気が上実下虚を起こし、腎の固摂が解かれるので上に水が溢れるということであろう)
 涙も鼻水も脳に関係する。脳というのは陰であり、また同じ陰である髄は骨を充たしているものである。この故に、陰である脳からにじみ出てきたものが、鼻水なのである。
 志は骨を主っているのだから、水が動いて涙として出てくると同時に、脳髄から滲みだしてきた鼻水も同時に出てくるのである。涙も鼻水も、共に水の類(同源)であり動きも似ているのである。


 これを兄弟に例えることもできる。
 なにか重大で急なことがあれば共に死し、また共に助け合い共に生きるようなものである。
 このように志が早々に悲しんで水の制約を解けば、涙と鼻水は一緒になってとめどなく流れ出るのである。これは涙と鼻水が同じ水の類に属しているからである。


 雷公が思わず申された。

 「偉大だ」と。


 再度請いて問わせていただきます。
 人が大声を張り上げて泣いており、涙の出ない者が居ります。もしくは出るには出ても少なく、鼻水もまた涙に従って一緒に出ない者などが居りますが、これはいったいどのような訳なのでありましょうや。


 帝が申された。
 それはだな、涙が出ないということは、大声を張り上げてはいても、本当に悲しんでいないからである。
 そもそも泣かないということは、神に慈悲が無いからである。神に慈悲が無ければ腎も悲しんで水の制約を解くことも無い。
 したがって、陰陽・上下が互いに水を保持しているのであるから、どうして涙だけが出てくる道理があろうか。


 志というのは堅持する気であり、悲というのはこみあげてくる感情の気である。
 この志悲がせめぎ合えば、惋(えん)という鬱積した状態となる。この鬱積したものがその拮抗を失い、陰気を衝けば志は目を去り神気も精を保持することが出来ず、精神共に目から去ることとなる。
 結果として涙と鼻水が出ることとなるのである。


 ところで汝は、經言を読んでいながら、これらのことについてよく思考しなかったのであろうか。厥証になれば、目に見る所なしとあるではないか。


 人が厥証になれば、陽気は上部に結集し、陰気は下部に結集する。
 上部に陽気が結集すれば、火となり孤立する。一方下部に陰気が結集すれば、足が冷え水が集まり脹をなすことになる。
 目には水が存在するが、上部に結集した五火には勝てないものである。そのゆえに目が見えなくなるのである。


 また陽邪である風気が目にあたると涙が出て止まらなくなる現象は、内を守っている陽気と風邪が合わさって火邪となり、目を焼いてしまうからである。


 自然界の現象を見るがよい。
 火熱が一気に盛んともなれば風が起ころう。
 風は上昇気流となり、雨を招来するであろうが。
 自然現象も人体生理も、同じ道理で営まれているのであるぞ。

 

 

 

       原文と読み下し文

 

黄帝在明堂.

雷公請曰.

臣授業.傳之行教.以經論.從容形法.陰陽刺灸.湯藥所滋.行治有賢不肖.未必能十全.

若先言悲哀喜怒.燥濕寒暑.陰陽婦女.請問其所以然者.

卑賎富貴.人之形體.所從群下.通使臨事.以適道術.謹聞命矣.

請問有毚愚仆漏之問.不在經者.欲聞其状.

黄帝明堂に在り。

雷公請いて曰く。

臣業を授かり、これを傳えて教えを行う。經論、從容形法、陰陽刺灸、湯藥の滋する所を以て、治を行うも、賢不肖有りて、未だ必ずしも十全たること能わず。

若し先に言う悲哀喜怒、燥濕寒暑、陰陽婦女、其の然る所以の者を請いて問う。

卑賎富貴、人の形體、從う所の群下通使、事に臨みて、以て道術に適わしむる。

謹しみて命を聞けり。請い問う。愚仆漏の問い、經に在らざる者有り。其の状を聞かんことを欲す。

 

帝曰.大矣.

公請問.哭泣而涙不出者.若出而少涕.其故何也.

帝曰.在經有也.

帝曰く。大なりと。

公請いて問う。哭泣して涙出でざる者、若くは出でて涕の少なきは、其の故は何ぞや。

帝曰く。經に在りて有るなり。

※涕・・・てい: 感情がこもったなみだ、もしくは涙と鼻水

 

復問.不知水所從生.涕所從出也.

帝曰.

若問此者.無益於治也.工之所知.道之所生也.

夫心者五藏之專精也.目者其竅也.華色者其榮也.是以人有徳也.則氣和於目.有亡.憂知於色.

是以悲哀則泣下.泣下水所由生.

水宗者積水也.積水者至陰也.至陰者腎之精也.宗精之水.所以不出者.是精持之也.輔之裹之.故水不行也.

復た問う。水の從(よ)りて生ずる所、涕の從(よ)りて出ずる所を知らざるなり。

帝曰く。

若(なんじ)の此れを問う者は、治に益無きなり。工の知る所は、道の生ずる所なり。

夫れ心なる者は五藏の專精なり。目なる者は其の竅なり。華色なる者は其の榮なり。是れを以て人に徳有るは、則ち氣は目に和す。亡(うしな)うこと有れば憂を色に知る。

是れを以て悲哀すれば則ち泣下る。泣下るは水の由りて生ずる所なり。

水宗なる者は積水なり。積水なる者は至陰なり。至陰なる者は腎の精なり。宗精の水、出でざる所以の者は、是れ精れを持せばなり。これを輔(たす)けこれを裹(つつ)む。故に水行かざるなり。

 

夫水之精爲志※.火之精爲神.水火相感.神志倶悲.是以目之水生也.

故諺言曰.

心悲名曰志悲.志與心精.共湊於目也.

是以倶悲.則神氣傳於心.精上不傳於志.而志獨悲.故泣出也.

泣涕者腦也.腦者陰也.

髓者骨之充也.故腦滲爲涕.

志者骨之主也.是以水流而涕從之者.其行類也.

夫涕之與泣者.譬如人之兄弟.急則倶死.生則倶生.其志以早悲.是以涕泣倶出而横行也.夫人涕泣倶出而相從者.所屬之類也.

夫れ水の精を志と爲し、火の精を神と爲す。水火相感じ、神志倶に悲しむ。是れを以て目の水生ずるなり。

故に諺言(げんげん)に曰く。

心悲しむは名づけて志悲と曰く。志と心精と共に目に湊るなり。

是れを以て倶に悲しめば、則ち神氣は心に傳え、精は上りて志に傳えずして、志は獨り悲しむ。故に泣出ずるなり。

泣涕なる者は腦なり。腦なる者は陰なり。

髓なる者は骨の充なり。故に腦滲(にじ)みて涕を爲す。

志なる者は骨の主なり。是れを以て水流れて涕これに從う者は、其の行類すればなり。

夫れ涕と泣なる者は、譬えば人の兄弟の如し。急なれば則ち倶に死し、生くれば則ち倶に生く。其の志以て早く悲しむ。是れを以て涕泣倶に出でて横行するなり。夫れ人の涕泣倶に出でて相從う者は、屬する所の類なればなり。

 

雷公曰.大矣.

請問.人哭泣而涙不出者.若出而少.涕不從之.何也.

雷公曰く。大なるかな。

請うて問う。人哭泣して涙出でざらぬ者、若しくは出ずるも少く、涕これに從わざるは、何なるや。

 

帝曰.

夫泣不出者.哭不悲也.

不泣者.神不慈也.

神不慈則志不悲.陰陽相持.泣安能獨來.

夫志悲者惋.惋則沖陰.沖陰則志去目.志去則神不守精.精神去目.涕泣出也.

惋…鬱積した感情

帝曰く。

夫れ泣して出でざる者は、哭して悲まざるなり。

泣かざる者は、神慈せざるなり。

神に慈あらざれば則ち志は悲しまず。陰陽相持す。泣安(いずく)んぞ能く獨り來らんや。

夫れ志悲しむ者は惋す(わん)す。惋すれば則ち陰に沖す。陰に沖すれば則ち志は目を去る。志去れば則ち神は精を守らず。精神目を去り、涕泣出ずるなり。

 

且子獨不誦不念夫經言乎.厥則目無所見.

夫人厥.則陽氣并於上.陰氣并於下.陽并於上.則火獨光也.

陰并於下.則足寒.足寒則脹也.

夫一水不勝五火.故目眥盲.

且つ子獨り夫の經言を誦せず念ぜざるや。厥すれば則ち目に見る所無し。

夫れ人厥すれば、則ち陽氣上に并し、陰氣下に并す。陽上に并すれば、則ち火獨り光あるなり。

陰下に并すれば、則ち足寒す。足寒すれば則ち脹するなり。

夫れ一水は五火に勝たざるなり。故に目眥盲す。

 

是以衝風.泣下而不止.

夫風之中目也.陽氣内守於精.是火氣燔目.故見風則泣下也.

有以比之.夫火疾風生.乃能雨.此之類也.

是れを以て風衝けば、泣下りて止まざず。

夫れ風の目に中るや、陽氣内に精を守る。是れ火氣目を燔(や)く。故に風を見れば則ち泣下るなり。

以てこれを比する有り。夫れ火疾(と)くして風生じて、乃ち能く雨するは、此れこの類なり。