鍼灸医学の懐

主に黄帝内経の意訳と解説 最後に原文と読み下しを記しています。その他、随時古典資料を追加しています。

傷寒論 - 序文

底本 趙開美刊 「仲景全書」所収 『傷寒論』十巻

                    日本漢方協会学術部 編 東洋学術出版社

 

 

                               張仲景撰

余毎覧越人入之診.望斉侯之色.未嘗不慨然嘆其才秀也。

余は越人の虢(かく)に入るの診、斉侯の色を望むを覧(み)る毎(ごと)に、未だ嘗(かつ)て慨然として其の才の秀でたるを嘆ぜずんばにあらさるなり。

越人  戦国時代の名医扁鵲の名

虢(かく)   戦国時代の国の名

斉侯  斉の桓公。斉は山東省付近。

 

怪当今居世之士.曾不留神医薬.精究方術.上以療君親之疾.下以救貧賤之厄.中以保身長全.以養其生.

怪しむべし。当今居世の士。曾(か)つて神を医薬に留め、方術を精究し、上は以って君親の疾を療し、下は以って貧賤の厄を救い、中は以って身を保ち長全し、以って其の生を養なわず。

 当今居世之士:当今は現代。居世之士は世上(世間のうわさ)の士。 士は文武を学ぶ者の総称。

                 

但競逐栄勢.企踝権豪.孜孜汲汲.惟名利是務.

但栄勢に競逐し、踝(きびす)を権豪に企て、孜孜汲汲(ししきゅうきゅう)として、惟(ただ)名利に是れ務む。

孜孜汲汲  努めて怠らない様。

 

崇飾其末.忽棄其本.華其外而悴其内。皮之不存.毛将安附焉。

其の末を崇飾し、其の本を忽棄(こっき)し、其の外を華とし、而(しか)して其の内を悴(すい)にす。皮之れ存ぜずんば、毛将(は)たいずくんぞに附(つ)かんや。

崇飾其末.忽棄其本  枝葉末節の権勢を求めるため、外見を勿体らしく飾り、身体をも粗末にして根本を捨て去ること。

悴(すい)やつれること。

皮之不存.毛将安附焉 皮がないと毛のつくところはないのである。名利は、命があってのことである。

 

卒然遭邪風之気.嬰非常之疾.患及禍至.而方震慄.

卒然として邪風の気に遭(あ)い、非常の疾に嬰(かか)り、患及び禍に至り、而して方(まさ)に震慄す。

 

降志屈節.欽望巫祝.告窮帰天.束手受敗。

賚百年之寿命.持至貴之重器.委付凡医.恣其所措。

志を降ろし節を屈し、巫祝(ふしゅく)を欽望(きんぼう)す。窮(きゅう)を告ぐれば天に帰し、手を束(つか)ねて敗を受く。

百年の寿命を賚(たまわ)り、持てる至貴の重器を、凡医に委付し、其の措(お)く所を恣(ほしいまま)にす。

 

咄嗟嗚呼.厥身已斃.神明消滅.変為異物.幽潜重泉.徒為啼泣.痛夫,

咄嗟嗚呼(ああ・・・)、厥(その)身は已(すで)に斃(やぶ)れ、神明は消滅し、変じて異物と為す。重泉に幽潜し、徒(いたず)らに啼泣(ていきゅう)を為す。痛ましいかな。 

欽望   懇願すること。

咄嗟嗚呼 詠嘆・嘆息の声。二重のなげき声。尋常でない嘆き表現。

 

挙世昏迷.莫能覚悟.不惜其命.若是軽生.彼何栄勢之云哉.

世を挙げて昏迷し、能く覚え悟ること莫(な)く、其の命を惜まず。是の若く生を軽ろんじ、彼何の栄勢之を云わんや。

 

而進不能愛人知人.退不能愛身知己.遭災値禍.身居厄地.蒙蒙昧昧.惷若游魂.哀乎. 

趨世之士.馳競浮華.不固根本.忘徇物.危若冰谷.至於是也.

而して進みては人を愛し人を知ること能わず、退いては身を愛し己を知ること能わず、災に遭(あ)い禍に値(あ)い、身を厄地に居く。蒙蒙昧昧(もうもうまいまい)、惷(とう)なること游魂の若し。哀しいかな。

趨世の士、浮華に馳競し、根本を固めず、軀(み)を忘れ物に徇(した)がい、危うきこと冰谷の若くにして、是に至るなり。

蒙蒙昧昧  蒙昧、愚昧の意。

惷     愚と同じ。くらい、にぶい。

趨世の士  名利を競い求める世上の士

忘軀徇物  身命の大切さを忘れ、物欲に目をひかれる。

 

余宗族素多.向餘二百。建安紀年以来.猶未十稔.其死亡者.三分有二.傷寒十居其七。

余が宗族素多し。向(さ)きに二百に餘(あま)る。建安紀年以来、猶(なお)未だ十稔(ねん)ならざるに、其の死亡したる者、三分の有二、傷寒十其の七に居く。

建安紀年  西暦196年

 

感往昔之淪喪.傷横夭之莫救.乃勤求古訓.博采衆方.撰用『素問』.『九巻』.『八十一難』.『陰陽大論』.『胎臚薬録』.并平脈辨証.為『傷寒雑病論』.合十六巻.

往昔の淪喪(りんそう)に感じ、横夭(おうよう)の救い莫(な)きを傷み、乃(すなわ)ち勤めて古訓に求め、博く衆方を采(と)り、『素問』、『九巻』、『八十一難』、『陰陽大論』、『胎臚薬録』、并びに平脈辨証を撰用し、『傷寒雑病論』、合せて十六巻を為す。

淪喪  淪は没と同じ。淪喪は死亡のこと。

横夭  生きておれる人々が若くして死ぬこと。

 

雖未能尽愈諸病.庶可以見病知源。若能尋余所集.思過半矣

未だ尽ごとく諸病を愈すこと能(あた)わずと雖(いえ)ども、庶(こ)いねがわくば病を見て以て源を知るべし。若し能(よ)く余が集むる所を尋ぬれば、思いは半ばに過ぎん。

 

夫天布五行.以運万類.人稟五常.以有五臓。経絡付兪.陰陽会通.玄冥幽微.変化難極。

自非才高識妙.豈能探其理致哉。 

夫(そ)れ天は五行を布き、以て万類を運(めぐ)らし、人は五常を稟(う)け、以て五臓有り。経絡付兪、陰陽の会通、玄冥幽微、変化は極め難し。

才高く識妙なるに非らざるよりは、豈(あ)に能く其の理致を探らんや。

運      生・長・化・収・蔵

五常    仁・義・禮・智・信。

付兪    府は気血の集合するところ。愈は気血の注ぐところ。

玄冥幽微  暗黒で、奥が深く、見通しがきかない。

理致    すじみち

 

上古有神農.黄帝.岐伯.伯公.雷公.少兪.少師.仲文.中世有長桑.扁鵲.漢有公乗陽慶及倉公.下此以往.未之聞也.

上古に神農、黄帝、岐伯、伯公、雷公、少兪、少師、仲文有り。中世に長桑、扁鵲有り。漢に公乗陽慶及び倉公有り。此れを下り以て往くも、未だ之れを聞かざるなり。

神農、黄帝 医薬方術の祖としてあがめられている。

岐伯~少師  黄帝の臣で、伝説上の名医。実在は疑わしい。

長桑     扁鵲の師

公乗陽慶   陽慶は倉公の師で、公乗は官名。

 

観今之医.不念思求経旨.以演其所知.各承家技.終始順旧.省病問疾.務在口給.相対斯須.便処湯薬.

今の医を観るに、経旨を思求し、以て其の知る所を演(の)ぶるを念(おも)わず、各おの家技を承け.終始旧に順ず。病を省りみ疾を問うも、務めは口給に在り。相対して斯須(ししゅ)すれば、便(すなわ)ち湯薬を処す。

相対斯須  病人と相対している時間が一寸の間という意味。

 

按寸不及尺.握手不及足.人迎趺陽.三部不参.動数発息.不満五十.

短期未知決診.九候曾無髣髴.明堂闕庭.尽不見察.

所謂窺管而已.夫欲視死別生.実為難矣.

寸を按じて尺に及ばず、手を握りて足に及ばず、人迎趺陽、三部参えず、動数発息、五十に満たず。

短期なれば未だ決診を知らず、九候は曾(かつ)て髣髴無し。明堂闕庭、尽(こと)ごとく見察せず。

所謂(いわゆる)管より窺がうのみ。夫れ死を視て生を別たんと欲するは、実に難きと為す。 

動数発息  動は脈の拍動、発は脈の搏ち出るを言い、息は脈の搏ち去るを言う。

明堂闕庭  明堂は鼻。闕は眉間。庭は顔。

 

孔子云.生而知之者上.学則亜之。多聞博識.知之次也。余宿尚方術.請事斯語。

孔子云う、生まれながらにして之を知る者は上、学ぶは則ち之れに亜(つ)ぐ。多聞博識は知の次なり。

余は宿(つと)に方術を尚(たっ)とぶ。請う斯(こ)の語を事とせん。

 

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氣府論篇第五十九.

梅の蕾もほころんで
 筆者は、本篇「気府論」は、前篇「気穴論」の続編と捉えても差し支えはないと思っている。
 ところで、ここに記されている経絡の巡行と経穴は、他経と入り混じっている。この点の意味においては、次篇「骨空論」の内容が示唆している。
 
 このことの意味を、筆者なりに感じたままに開示したい。

 諸家の主張するように、時代的進歩に従って経絡概念もまた完成されていったという意見も、確かに肯首できる意見である。

 しかしながら筆者は以前から、経絡そのものがデジタルな感覚で理解しようとすることに、少々抵抗感を持っている。

 このことは、朝と昼の区別をどこでつけるのか、という問いと同じ感覚なのである。

 現代的感覚では、時計という機械を用いてデジタルに区分することも可能であると思うが、朝昼の身体的感覚は、各人によって微妙に異なるであろう。

 各人によって異なる感覚であっても、それぞれが会話の中で朝昼の感覚を伝え合うとき、アナログ的な共通認識が持てないだろうか。

 それと同様に、筆者にとって経絡とは、地球に引かれている子午線のようなデジタルなものでなく、もっとアバウトなアナログ的なものだとの感覚を持っている。

 清濁の気がうごめき、天地の気がアナログ的に交じり合って流転している人体の在り様に思いを至す時、むしろこのようなとらえ方が、どうも筆者の感覚にしっくりと来るのだが、読者諸氏はいかがでしょうか。

※本文中の経穴名に関しては、諸説あるのでこれを取り上げず、原文のままにそれらを記した。


原 文 意 訳

 足の太陽経脉の脈気が発する所、七十八穴。

 両眉頭に各一。

 髪際中央、督脈に沿って頭頂までの三寸半に神庭・上星・顖会の三穴。

 その督脈をから相去ること三寸に、督脈、足太陽二行、足少陽二行の五行がある。

 その頭部に浮き上がる気が頭皮中にあるのは、一行中にそれぞれ五穴あるので、五五二十五穴となる。

 さらに頭頂から項に下り、項の大筋の両傍に天柱穴各一。

 風府穴の両傍の風池穴各一。

 背を挟んで尾骶骨に下る間に二十一節あり、その内の十五椎間にそれぞれ一穴ある。

 五臓の兪穴はそれぞれ五穴、六腑の兪穴はそれぞれ六穴ある。

 委中穴から小指に至るまでに各六穴ある。


 足少陽の脈気の発する所、六十二穴。

 両方の頭角に各二穴。

 目の中央から真直ぐに上がった髪際の内に各五穴。

 耳の前上角に頷厭穴各一穴。

 耳の前下角に懸釐穴各一穴。

 鋭髪の下に和髎各一穴。

 客主人(上関)各一穴。

 耳後の陥中に翳風各一穴。

 下関穴各一穴。

 耳下、牙車の後ろに各一穴

 缺盆各一穴。

 腋下三寸、脇下から季肋に至る八肋間に各一穴。

 髀枢中の傍らに各一穴。

 膝から下って足の小指の次指に至るまでに各六兪。



 足陽明の脈気の発する所、六十八穴。

 額顱から髪際に入った傍らに各三穴。

 顴骨の骨空に各一穴。

 人迎各一穴。

 缺盆の外の骨空に各一穴。

 胸中の骨間に各一穴。

 鳩尾を挟む外側、乳の下三寸のところから胃脘を挟んで各五穴。

 臍を挟み、横に三寸に各三穴。

 臍を下ること二寸の左右に各三穴。

 気街の動脉に各一穴。

 伏菟の上に各一穴。

 三里から足の中指に至る間に各八穴。分肉のところに穴空がある。


 手太陽の脈気の発する所、三十六穴。

 目の内眥に各一穴。

 目の外眥に各一穴。

 顴骨の下に各一穴。

 耳輪の上に各一穴。

 耳中に各一穴。

 巨骨穴各一穴。

 曲掖の上の骨穴に各一。

 柱骨の上の陷なるところに各一。

 天窓の上四寸に各一。

 肩解に各一。

 肩解の下三寸に各一。

 肘から下って手小指の端に至る間に、各六兪。

 手少陽の脈気の発する所、三十二穴。

 顴骨の下に各一穴。

 眉の後ろに各一穴。

 額の角上に各一穴。

 完骨の下の後ろに各一穴。

 項中の足太陽の前に各一穴。

 扶突を挟んで各一穴。

 肩貞に各一穴。

 肩貞の下三寸の分間に各一穴。

 肘から小指の次指の端に至るまでの間に、各六兪。



 督脈の気の発する所、二十八穴。

 項の中央に二穴。

 前髪際から後ろにかけて八穴。

 顔面に三穴。

 大椎から尾骶骨にかけてと尾骶骨の傍ら併せて十五穴。

 大椎穴から尾骶骨の下に至るまで二十一節とするのが、脊椎の定法である。



 任脈の気の発する所は、二十八穴。

 喉の中央に一穴。

 胸中の骨間中に各一穴。

 鳩尾の下三寸に上脘穴があり、上脘穴から神闕までの五寸で一寸ごとに一穴、計五穴あり、これがが胃脘に相当する。

 臍から横骨までを六寸とし、一寸ごとに一穴、計六穴がある。これらは腹部の脉の定法である。

 陰に下って前陰と後陰を分かつ会陰に一穴。

 目の下に各一穴。

 唇を下に承漿穴、齦交穴がある。

 衝脉の気の発する所、二十二穴。

 鳩尾を挟んで外に各半寸のところから臍に至る一寸毎に一穴。

 臍を挟むその傍ら五分のところから、横骨に至る一寸毎に一穴。これらも腹部の脉の定法である。

 足少陰の気の発する所の舌下と、足厥陰の気の発する所、陰毛中の急脉に各一穴。

 手少陰各一穴。

 陰陽蹻脉に各一穴。


手足の諸々の魚際もまた、脉気の発する所である。以上、すべて合わせると三百六十五穴となる。

原文と読み下し 

足太陽脉氣所發者.七十八穴.
兩眉頭各一.
入髮至※項三寸半.
傍五.相去三寸.
其浮氣在皮中者.凡五行.行五.五五二十五.
項中大筋兩傍各一.
風府兩傍各一.
侠背以下至尻尾.二十一節.十五間各一.
五藏之兪各五.六府之兪各六.
委中以下.至足小指傍.各六兪.
足の太陽の脉氣の發する所の者、七十八穴。
兩眉頭、各一。
髮に入りて項に至ること三寸半.傍に五.相い去ること三寸。
其の浮氣の皮中にある者、凡て五行、行に五.五五二十五たり。
項中の大筋の兩傍に各一。
風府の兩傍に各一。
侠背以下より尻尾に至る、二十一節.十五間に各一。
五藏の兪各五、六府の兪各六。
委中以下、足の小指の傍に至る、各六兪。

※項 :諸家に倣い頂に改める

足少陽脉氣所發者.六十二穴.
兩角上各二.
直目上髮際内各五.
耳前角上各一.
耳前角下各一.
鋭髮下各一.
客主人各一.
耳後陷中各一.
下關各一.
耳下牙車之後各一.
缺盆各一.
掖下三寸.脇下至.八間各一.
髀樞中傍各一.
膝以下.至足小指次指.各六兪.
足の少陽の脉氣の發するところの者、六十二穴。
兩角の上各二。
直目上の髮際内に各五。
耳前の角上に各一。
耳前角下に各一。
鋭髮の下に各一。
客主人各一。
耳後の陷中に各一。
下關各一。
耳下牙車之後各一。
缺盆各一。
掖下三寸、脇下より胠に至る八間、各一。
髀樞中の傍ら、各一。
膝以下、足小指の次指に至る、各六兪。

足陽明脉氣所發者.六十八穴.
額顱髮際傍各三.
骨空各一.
大迎之骨空各一.
人迎各一.
缺盆外骨空各一.
膺中骨間各一.
侠鳩尾之外.當乳下三寸.侠胃脘.各五.
侠齊廣三寸.各三.
下齊二寸侠之.各三.
氣街動脉各一.
伏菟上各一.
三里以下.至足中指.各八兪.分之所在穴空.
足の陽明の脉氣の發するところの者、六十八穴。
額顱より髮際の傍ら各三。
鼽の骨空に各一。
大迎の骨空に各一。
人迎に各一。
缺盆の外の骨空に各一。
膺中の骨間に各一。
鳩尾を侠むの外、乳下三寸に當り、胃脘を侠む、各五。
齊を侠む廣さ三寸、各三。
齊を下る二寸、これを侠むに、各三。
氣街の動脉に各一。
伏菟の上に各一。
三里以下、足の中指に至るに、各八兪。分はこれ穴空の在る所なり。

手太陽脉氣所發者.三十六穴.
目内眥各一.
目外各一.
骨下各一.
耳郭上各一.
耳中各一.
巨骨穴各一.
曲掖上骨穴各一.
柱骨上陷者各一.
上天窓四寸各一.
肩解各一.
肩解下三寸各一.
肘以下.至手小指本.各六兪.
手の太陽の脉氣の發するところの者、三十六穴。
目の内眥に各一。
目の外に各一。
骨の下に各一。
耳郭の上に各一。
耳中に各一。
巨骨穴各一。
曲掖の上の骨穴に各一。
柱骨の上の陷なる者に各一。
天窓の上四寸に各一。
肩解に各一。
肩解の下三寸に各一。
肘以下、手小指本に至るに、各六兪。

手陽明脉氣所發者.二十二穴.
鼻空外廉項上各二.
大迎骨空各一.
柱骨之會各一.
髃骨之會各一.
肘以下.至手大指次指本.各六兪.
手の陽明の脉氣の發する所の者、二十二穴。
鼻空の外廉、項上に各二。
大迎の骨空に各一。
柱骨の會に各一。
髃骨の會に各一。
肘以下、手の大指の次指本に至るに、各六兪。

手少陽脉氣所發者.三十二穴.
骨下各一.
眉後各一.
角上各一.
下完骨後各一.
項中足太陽之前各一.
侠扶突各一.
肩貞各一.
肩貞下三寸分間各一.
肘以下.至手小指次指本.各六兪.
手の少陽の脉氣の發する所の者、三十二穴。
骨の下に各一。
眉後に各一。
角上に各一。
完骨の下の後に各一。
項中の足の太陽の前に各一。
扶突を挟む、各一。
肩貞に各一。
肩貞の下三寸、分間に各一。
肘以下、手の小指の次指本に至るに、各六兪。

督脉氣所發者.二十八穴.
項中央二.
髮際後中八.
面中三.
大椎以下.至尻尾.及傍.十五穴.
骶骨下.凡二十一節.脊椎法也.
督脉の氣の發する所の者、二十八穴。
項の中央に二。
髮際の後中に八。
面中に三。
大椎以下、尻尾に至り、傍らに及ぶ、十五穴。
下に至る、凡て二十一節、脊椎の法なり。

任脉之氣所發者.二十八穴.
喉中央二.
膺中骨陷中各一.
鳩尾下三寸胃脘.五寸胃脘.以下至横骨.六寸半一.腹脉法也.
下陰別一.
目下各一.
下脣一.
齦交一.
任脉の氣の發する所の者、二十八穴。
喉の中央に二。
膺中の骨陷中に各一。
鳩尾下三寸、胃脘五寸、胃脘以下横骨に至ること六寸半に一.腹脉の法なり。
陰別を下るに一。
目下に各一。
脣の下に一。
齦交一。

衝脉氣所發者.二十二穴.
侠鳩尾外各半寸.至齊寸一.
侠齊下傍各五分.至横骨寸一.腹脉法也.
衝脉の氣の發する所の者、二十二穴。
鳩尾を挟む外に各半寸.齊に至る寸に一。
齊を挟み下る傍ら各五分。横骨に至る寸に一。腹脉の法なり。

足少陰舌下.厥陰毛中急脉.各一.
手少陰各一.
陰陽蹻各一.
手足諸魚際脉氣所發者.凡三百六十五穴也.
足の少陰は舌下なり。厥陰毛中の急脉、各一。
手の少陰に各一。
陰陽蹻に各一。
手足の諸々の魚際、脉氣の發する所の者、凡て三百六十五穴なり。





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氣穴論篇第五十八.


  本篇は天人合一思想に基づいて、主に経穴の数と位置について述べられている。

 筆者自身、本篇と次篇(気府論)は、あまり取るべきところを感じないが、それはすでに経絡・経穴を伝承されているからである。(ありがたいことです)

 それはさておき経穴の数に関しては、一年三百六十五日に応じて、経穴もまた三百六十五穴存在していることになっているが、現代に伝わっているものは三百六十一穴である。(WHOの定義に基づく)

 実際、背部兪穴を見ても、空白部位があり、おそらくは欠落して現代に伝わっていないのであろうと推測している。

 おそらく黄帝内経以後、何度も経絡・経穴の伝承は途絶えたのであろう。

 そのように推測したきっかけは、元代の滑伯仁が著した『十四経発揮』(1341年)の自序に目を落とした時である。

 著者、滑伯仁(かつはくじん)は、その自序で以下のように述べている。(筆者意訳)

 「黄帝内経に目を通すと、その内容のほとんどが鍼についての解説とその効果の大なることを説いている。
 にもかかわらず、世間で湯液は広く行われているのに、鍼道はかすかにしか行われていない。(灸法はわずかに存在しているが)
 このような世相を反映して、経絡・経穴もまた明確なものが無くなってしまっている現状に発奮して、初学者のために『十四経発揮』を現した。」と述べている。

 現代に翻ってさらに考えてみると、黄帝と岐伯が説いている鍼道を行う困難さは、現在も引き続き進行中との感覚がある。

 鍼は、ただ単に刺すだけの針金(はりがね)である。

 誰にでもすぐに簡単に行えるという利点はあるが、内経に記されているように、万病を治すとなるとかなり高度な眼力と技を要求される。

 ただ単なる金属で出来た「はりがね」1本を用いて、拡がる世界がどの程度の視野になるのか。

 鍼はまさに、仙術。

 鍼術家のロマンと思っているのですが、読者諸氏はいかがでしょうか。


原 文 意 訳

 黄帝が問うて申された。
 人体の気穴には、三百六十五があり、一年三百六十五日に応じていると聞き及んでいる。

  しかしながら、その部位については不明瞭なままである。願わくば、ここで直ぐに聞きたいのであるが。

 岐伯はうやうやしく頭を地につけること二拝し、答えて申された。
  まことに難しく困った問いでありますこと。
  聖帝でなければ誰がよくこのような道を極めることが出来ましょうや。
  ありあまる意と言葉を尽くして気穴の部位をお伝えいたします。

 帝は手を捧げてうやうやしく退いて申された。
 そちが余の道を開くこと、目にはまだその部位を見ず、耳にその数を聞いていないにも関わらず、既に目に明らかで耳ですでに聞いたかのようである。

 岐伯が申された。
 聖人はすでに下地が出来ておいでなので、語りやすいものでございます。それは良馬が御しやすいことと同じでございます。

 帝は手を捧げてうやうやしく退いて申された。
 そちが余の道を開くこと、目にはまだその部位を見ず、耳にその数を聞いていないにも関わらず、既に目は明らかで耳ですでに聞いたかのようである。

 岐伯が申された。
 聖人はすでに下地が出来ておいでなので、語りやすいものでございます。それは良馬が御しやすいことと同じでございます。

 余は、聖人の語りやすきではないが、世には真数は人の意を開くと申すではないか。
 今余が問い訪ねるところは真数である。蒙(くら)きを発し、惑を解くには、未だに論ずるに足りないのである。

 しかるに、余願わくばそちの溢れんばかりの志で、言葉を尽くしてその部位を聞かせてもらいたい。そして余の蒙い意を解いて頂きたい。これが叶うなら、この教えを金匱に蔵して、敢えて再び出さぬようしっかりと意に刻むであろう。

 岐伯は再拝して身を起こして申された。
 臣、それらについて言わせていただきます。

五臓の五行穴二十五穴、左右併せて五十穴。

六腑の五行穴に原穴三十六穴、左右併せて七十二穴。

熱兪五十九穴。

水兪五十七穴。

頭上には五行があり、行に五穴あるので、五五二十五穴。

背骨の兩傍に各五。凡そ十穴。

大椎の上兩傍に各一。凡そ二穴。

目瞳子浮白の二穴。

兩髀厭の分中に二穴。

犢鼻二穴。

耳中の多所聞に二穴。

眉本に二穴。

完骨の二穴。

項の中央に一穴。

枕骨に二穴。

上關の二穴。

大迎の二穴。

下關の二穴。

天柱の二穴。

巨虚上下廉の四穴。

曲牙の二穴。

天突一穴。

天府二穴。

天牖二穴。

扶突二穴。

天窓二穴。

肩解二穴。

關元一穴。

委陽二穴。

肩貞二穴。

瘖門一穴。

齊一穴。

胸兪に十二穴。

背兪二穴。

膺兪十二穴。

分肉に二穴。

踝上の横に二穴。

陰陽蹻四穴。

水兪は諸分に在り。

熱兪は氣穴に在り。

寒熱兪は兩骸厭中の二穴に在り。

大禁二十五。天府は下五寸に在り。

凡そ三百六十五穴。これらは鍼行うところであります。

 帝が申された。
 余はすでに気穴の部位と自在に鍼をする所も理解した。願わくば孫絡と谿谷について聞きたいのだが。これらもまた一年三百六十五日と応じているのであろうか。

 岐伯が申された。
 孫絡三百六十五穴の会もまた、一年に応じております。
 奇邪が客した場合、孫絡を通じて外に溢れさせ、栄衛を通じさせます。
 邪気が留まりますと栄衛もまた稽留し、衛気は散じて栄気は内に溢れ、そのままですと気は尽きて血は動かなくなってしまいます。
 すると身体は発熱して衛気を散じますので、内は少気します。
 このような場合は、グズグズせずに疾くこれを瀉して、栄衛の気を通じさせなければなりません。
 鬱滞箇所を見つけたならば、穴所であろうがなかろうがそのようなことに拘わらずこれを瀉すのであります。

 帝が申された。
 よく理解できた。では願わくば谿谷の会を聞きたいのであるが。

 岐伯が申された。
 肉の大会を谷、肉の小会を谿と申します。分肉の間、谿谷の会を栄衛の気は流れ、また大気とも会するのであります。
 邪が溢れて気が塞がり、脉は熱し肉は敗れて栄衛は行らないようになりますと、必ず膿を生じ、内の骨髄はとけ、外は股の肉が破られるようになります。骨節に留まりますと、必ず腐って敗れてしまいます。

 寒邪に何度も侵され、積もり積もって舍ってしまうと、栄衛の気は本来あるべきところに居ることが出来ず、肉は巻き上がり筋は縮み、肋骨と肘は屈伸できなくなります。
 内は骨痹となり、外は知覚麻痺の不仁となります。これは正気が不足してしまったからで、大寒が谿谷に留まってしまったからであります。

 谿谷の三百六十五穴の会もまた一年に応じております。もし小痹がひつこく留まり絡に溢れて脉を循って往来するような場合は、微鍼が適応し、一般的な方法と同じようにいたします。

 帝は、左右の者を退けて立ち、再拝して申された。
 今日は余の蒙(くら)きを発し、惑を解いて下された。これを金匱に蔵し敢えて再び出さないように致す。このようにして金蘭の室にこれを蔵し、「気穴の所在」と署名された。

 岐伯が申された。
 孫絡の脈で經と別れているものは、その穴が盛んであれば瀉すべきものもまた、三百六十五脉ございます。
 邪気は孫絡に並んで絡に注ぎ、さらに十二絡脉に伝え注ぐのであって、ひとり十四絡脉だけが邪に侵されているのではありません。
 関節に邪が入りますと、中を瀉すとは、五臓の十脉を瀉しなさいということであります。

原文と読み下し

黄帝問曰.余聞氣穴三百六十五.以應一歳.未知其所.願卒聞之.
岐伯稽首再拜對曰.窘乎哉問也.其非聖帝.孰能窮其道焉.因請溢意.盡言其處.
黄帝問うて曰く。余は聞くに、氣穴三百六十五を以て一歳に應ずと。未だ其の所を知らず。願わくば卒にこれを聞かん。
岐伯稽首再拜して對えて曰く。窘(きん)なるかな問いや。其れ聖帝にあらざれば、孰れか能く其の道を窮めん。因りて請う。意を溢(いつ)にして盡く其の處を言わん。

帝捧手逡巡而却曰.夫子之開余道也.目未見其處.耳未聞其數.而目以明.耳以聰矣.
岐伯曰.此所謂聖人易語.良馬易御也.
帝手を捧げて逡巡し却きて曰く。夫子の余の道を開くや、目未だ其の處を見ず、耳未だ其の數を聞かず、しかして目は以て明らかにし、耳以て聰くす。
岐伯曰く。此れ所謂聖人は語り易く、良馬は御し易きなり。

帝曰.
余非聖人之易語也.世言眞數開人意.今余所訪問者眞數.發蒙解惑.未足以論也.
然余願聞夫子溢志.盡言其處.令解其意.請藏之金匱.不敢復出.
帝曰く。
余は聖人の語り易きに非ざるなり。世に言う。眞數は人意を開くと。今余が訪ね問う所のものは、眞數の蒙を發し惑を解くなるも、未だ以て論ずるに足らざるなり。
然るに余は願わくば夫子の志を溢にし、言を盡して其の處を言い、其の意を解きさしめよ。請う、これを金匱に臧し、敢えて復た出さざらん。

岐伯再拜而起曰.臣請言之.
※1背與心相控而痛.所治天突與十椎及上紀.上紀者胃也.下紀者關元也.背胸邪繋陰陽左右如此.其病前後痛.胸脇痛.而不得息.不得臥.上氣短氣偏痛.脉滿起.斜出尻脉.絡胸脇.支心貫鬲.上肩加天突.斜下肩.交十椎下.
岐伯再拜して起きて曰く。臣請う、これを言わん。
※1背と心相い控(ひ)いて痛まば、治する所は天突と十椎及び上紀なり。上紀なるものは胃脘なり。下紀なるものは關元なり。背胸の邪の陰陽左右に繋がること此の如し。其の病、前後に痛みり、胸脇痛みて、息するを得ず、臥するを得ず、上氣し短氣して偏痛す。脉滿ちて起り斜めに尻脉に出で、胸脇を絡い、心を支え鬲を貫き、肩を上りて天突に加わり、斜めに肩に下りて十椎下に交わる。

※1 前後につながらない文章であるため意訳せず。

藏兪五十穴.
府兪七十二穴.
熱兪五十九穴.
水兪五十七穴.
頭上五行.行五.五五二十五穴.
中(月呂)兩傍各五.凡十穴.
大椎上兩傍各一.凡二穴.
目瞳子浮白二穴.
兩髀厭分中二穴.
犢鼻二穴.
耳中多所聞二穴.
眉本二穴.
完骨二穴.
項中央一穴.
枕骨二穴.
上關二穴.
大迎二穴.
下關二穴.
天柱二穴.
巨虚上下廉四穴.
曲牙二穴.
天突一穴.
天府二穴.
二穴.
扶突二穴.
天窓二穴.
肩解二穴.
關元一穴.
委陽二穴.
肩貞二穴.
門一穴.
齊一穴.
胸兪十二穴.
背兪二穴.
膺兪十二穴.
分肉二穴.
踝上横二穴.
陰陽蹻四穴.
水兪在諸分.
熱兪在氣穴.
寒熱兪.
在兩骸厭中二穴.
大禁二十五.在天府下五寸.
凡三百六十五穴.鍼之所由行也.
藏兪五十穴。
府兪七十二穴。
熱兪五十九穴。
水兪五十七穴。
頭上五行。行五。五五二十五穴。
中(月呂)兩傍各五。凡十穴。
大椎上兩傍各一。凡二穴。
目瞳子浮白二穴。
兩髀厭分中二穴。
犢鼻二穴。
耳中多所聞二穴。
眉本二穴。
完骨二穴。
項中央一穴。
枕骨二穴。
上關二穴。
大迎二穴。
下關二穴。
天柱二穴。
巨虚上下廉四穴。
曲牙二穴。
天突一穴。
天府二穴。
二穴。
扶突二穴。
天窓二穴。
肩解二穴。
關元一穴。
委陽二穴。
肩貞二穴。
門一穴。
齊一穴。
胸兪十二穴。
背兪二穴。
膺兪十二穴。
分肉二穴。
踝上横二穴。
陰陽蹻四穴。
水兪は諸分に在り。
熱兪は氣穴に在り。
寒熱兪は兩骸厭中の二穴に在り。
大禁二十五。天府は下五寸に在り。
凡そ三百六十五穴。鍼の由りて行うところなり。

帝曰.余已知氣穴之處.遊鍼之居.願聞孫絡谿谷.亦有所應乎.
岐伯曰.孫絡三百六十五穴會.亦以應一歳.以溢奇邪.以通榮衞.榮衞稽留.衞散榮溢.氣竭血著.外爲發熱.内爲少氣.疾寫無怠.以通榮衞.見而寫之.無問所會.
帝曰く。余は已に氣穴の處、遊鍼の居を知れり。願わくば孫絡谿谷を聞かん。亦た應ずる所有るや。
岐伯曰く。孫絡と三百六十五穴と會し、亦た以て一歳に應ず。以て奇邪を溢し、以て榮衞を通ず。榮衞稽留すれば、衞は散じ榮は溢し、氣竭(つ)き血著(つ)きれば、外は發熱を爲し、内は少氣を爲す。疾(と)く寫して怠ることなく、以て榮衞を通じ、見われればこれを寫し、會する所を問うこと無かれ。

帝曰善.願聞谿谷之會也.
岐伯曰.
肉之大會爲谷.肉之小會爲谿.肉分之間.谿谷之會.以行榮衞.以會大氣.邪溢氣壅.脉熱肉敗.榮衞不行.必將爲膿.内銷骨髓.外破大膕.留於節湊.必將爲敗.
帝曰く善し。願わくば谿谷の會を聞かん。
岐伯曰く。
肉の大會を谷と爲し、肉の小會を谿と為す。肉分の間、谿谷の會、以て榮衞を行らし、以て大気を會す。邪は溢し氣は壅(ふさ)がれ、脉は熱し肉は敗れ、榮衞行らざれば、必ず將(まさ)に膿を爲さんとす。内は骨髄を銷(と)かし、外は大膕(だいかく)を破る。節湊(せつそう)に留まれば、必ず將に敗を爲さんとす。

積寒留舍.榮衞不居.卷肉縮筋.肋肘不得伸.内爲骨痺.外爲不仁.命曰不足.大寒留於谿谷也.
積寒留舍すれば、榮衞居せず、肉は卷き筋は縮み、肋肘伸びるを得ず。内は骨痺を爲し、外は不仁をなす。命じて不足と曰く。大寒谿谷に留まれり。

谿谷三百六十五穴會.亦應一歳.其小痺淫溢.循脉往來.微鍼所及.與法相同.
谿谷三百六十五穴と會し亦た一歳の應ず。其の小痺淫溢し、脉に循(したが)いて往來するは、微鍼の及ぶ所、法と相い同じ。

帝乃辟左右而起.再拜曰.今日發蒙解惑.藏之金匱.不敢復出.乃藏之金蘭之室.署曰氣穴所在.
岐伯曰.孫絡之脉別經者.其血盛而當寫者.亦三百六十五脉.並注於絡.傳注十二絡脉.非獨十四絡脉也.内解寫於中者十脉.
帝乃ち左右を辟(ひら)きて起き、再拜して曰く。今日蒙を發し惑を解けり。これを金匱に藏し、敢えて復た出さずと。乃ちこれを金蘭の室に藏し、署して氣穴の在る所と曰く。
岐伯曰く。孫絡の脉、經と別れる者は、其の血盛んにして當に寫すべき者も、亦た三百六十五脉、並びに絡に注ぎて、十二絡脉に傳注し、獨り十四絡脉に非ざるなり。解に内(い)るは、中を寫すとは、十脉なり。

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經絡論篇第五十七.



 本篇は、前篇『皮部論篇』の続編であるように感じる。

 筆者の感覚では、例えば手足を診た時、経絡別に五色が現れているとは認識できない。

 しかし、顔面の気色だけでなく体幹部や四肢が現す色は、大変重要と感じている。

 本篇で取るべきところは、四時陰陽の盛衰によって様々に変化する色艶の、常と変を噛分けることの重要性であると筆者は考えている。



原 文 意 訳 

 黄帝が問うて申された。体表に現れる浅い絡脉の色は、青、黄、赤、白、黒とそれぞれ一様でないのは、いったいどういう訳であろうか。


 岐伯が答えて申された。

 経脉には、それぞれ常とする色がございますが、絡脉は常に一定しておらず、その時々の状況に応じて色が変化いたします。


 黄帝が申された。

 経脉の定まった本来の色とは、どのようであるのか。

 岐伯が申された。

 心は赤、肺は白、肝は青、脾は黄、腎は黒でありまして、これらは全て十二経脉の色に応じております。

 帝が申された。絡脉の陰陽もまた、十二經脉の色に応じているのであろうか。

 岐伯が申された。

 陰経の絡脉の色は、それぞれの經脉の色に応じております。

 ところが陽経の絡脉の色は、経脉の色に応じておらず、一定しておりません。

 それよりもむしろ、四時陰陽の盛衰に従ってその色を現します。

 従いまして、冬季のように寒が多いときは、気血の運行が渋りますので、青黒くなってまいります。

 また夏期のように熱が多い時には、気血の運行が盛んになりますので、肌も潤い艶も良くなりますので、黄赤となって参ります。

 このように陽経の絡脉の色の変化が、四時陰陽の盛衰に適っておりますれば、まずは病の無い状態と判断することが出来ます。

 ところが、五色の全てが現れておりましたら、寒熱が錯綜していると判断することが出来るのであります。

 帝が申された。

 なるほど、よく理解できた。


原文と意訳

黄帝問曰.夫絡脉之見也.其五色各異.青黄赤白黒不同.其故何也.
岐伯對曰.經有常色.而絡無常變也.


黄帝問うて曰く。夫れ絡脉の見れるや、其の五色各おの異にし、青黄赤白黒同じからず。其の故は何なるや。
岐伯對えて曰く。經に常色有り。而して絡に常無くして變ずるなり。

帝曰.經之常色何如.
岐伯曰.心赤.肺白.肝青.脾黄.腎黒.皆亦應其經脉之色也.


帝曰く。經の常色は何如。
岐伯曰く。心は赤、肺は白、肝は青、脾は黄、腎は黒、皆亦其の經脉の色に應ずるなり。

帝曰.絡之陰陽.亦應其經乎.
岐伯曰.
陰絡之色.應其經.陽絡之色.變無常.隨四時而行也.
寒多則凝泣.凝泣則青黒.
熱多則淖澤.淖澤則黄赤.
此皆常色.謂之無病.五色具見者.謂之寒熱.
帝曰善.


帝曰く。絡の陰陽も亦其の經に應ずるや。
岐伯曰く。
陰絡の色は、其の經に應じ、陽絡の色は、變じて常なし。四時に隨いて行くなり。
寒多ければ則ち凝泣し、凝泣すれば則ち青黒なり。
熱多則ち淖澤なり。淖澤なれば則ち黄赤なり。
此れ皆常の色にして、これを無病と謂う。五色具(そな)わり見われる者は、これを寒熱と謂う。
帝曰く。善し。


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皮部論篇第五十六.

七種山 虹の滝
 東洋医学は、体表に現れる気色や肌の色つやなどによって、五臓六腑の充実度を観る。

 瓜やスイカなど、外から眺めて触って軽く叩いて、中の状態を候うようなものである。

 ただ、候うに、瓜やスイカと違う点は、命がけだということである。

 本篇では、外邪がどのように伝変していくかということ。

 そして外邪に侵され始めた時には、体表にその変化が現れるので、それをつぶさに見て治療につなげなさいということだろう。

 当時の外感病は、いったいどのようなものであったのかなど、色々と想像した。

 明の王陽明が、地方に左遷された時、人々がまだ洞穴に住んでおり統制が取れないと、何かの本で目にしたことがある。

 まして素問が著されたと言われている春秋戦国時代にあっては、中央と地方の格差はどのようであったのだろう。

 当時と現代とでは、その衣食住の有様は、大きくかけ離れていたのだろうことは容易に推測できる。

 そして『傷寒論』の序文に在るような、村が全滅するような疫病が、幾度となく横行したのであろう。

 治病は、戦いと同じく機先を制するのが最上である。

 その機先は、体表に在る。

 本篇の邪は、外邪と意訳した。

 主に外感病を扱った『傷寒論』を内傷病に応用するように、内邪もまた逆のルートを通じて体表に現れる。

 直接臨床と繋がるような記載は無いと思われるが、このような見方、捉え方、考え方は大いに学ぶべきものがあると感じている。

 
原 文 意 訳

 黄帝が問うて申された。

 余は皮には十二經脉に分けた部位があり、脈には経の筋道があり、筋には結び絡う部位があり、骨には大小・長短の尺度がある。

 そしてその生じる病は、各々異なっていると聞いている。

 その各部位を明確に別ち、病が上下左右、陰陽のどちらにあるのか、病の始まりと予後など、それらの道理を聞かせてもらいたいのであるが。



 岐伯が答えて申された。

 皮の分部を知ろうとされるのでしたら、経脉を基準とすればよろしいのであります。これは全ての分部と經脉も同じでございます。

 陽明の陽は、害蜚(がいひ)と申しまして、陽明の気がさらに陽に傾きますと、陽気は消散してしまいます。上下、手足の陽明も同様であります。

 意識的に見て皮部に浮絡が存在するのは、すべて陽明の絡を見ているのであります。

 その浮絡の色が、青が多いようでしたら、それは痛みを現しているのでして、黒が多ければ痹を、黄赤が多ければ熱を、白が多ければ寒を、五色の全てが現れているようでしたら寒熱錯綜をそれぞれ表しております。

 絡に外邪が盛んとなりますと、経脉に入って留まるようになります。

 陽である絡は皮部でありますから外を主り、陰である経は臓腑に連なっておりますので内を主っております。

 少陽の陽は、その機能から枢持と言われておりまして、開の太陽、閉の陽明の枢軸を握っております。

 上下・手足の少陽も同様であります。

 意識的に見て皮部に浮絡が存在するのは、すべて少陽の絡を見ているのであります。

 絡に外邪が盛んとなりますと、経脉に入って留まるようになります。

 従いまして、陽である絡に在ります外邪は、陰である経を伝って内に入り込みますし、陰である經脉に在ります邪は、経脉を離れて次第に内の臓腑に滲むように入り込むのであります。

 これは、すべての經脉についても同じであります。

 太陽の陽は、外邪が最初に侵す部位であり、腠理開合の関所であります。

 ですからその機能から関枢と言われております。上下・手足の太陽も同様であります。

 意識的に見て皮部に浮絡が存在するのは、すべて太陽の絡を見ているのであります。

 絡に外邪が盛んとなりますと、経脉に入って留まるようになります。

 少陰の陰は、太陰と厥陰の枢であり、水を主っているところから、枢儒(濡)を言われております。

 意識的に見て皮部に浮絡が存在するのは、すべて少陰の絡を見ているのであります。

 絡に外邪が盛んとなりますと、経脉に入って留まるようになります。

 そして邪気は経脉から臓腑にはいり、さらに内の骨に注ぐのであります。

 心主の陰は、害肩と申しまして、厥陰の陰がさらに傾きますと、陰気は万物を塞ぎとめてしまうことになります。上下・手足の厥陰も同様であります。

 意識的に見て皮部に浮絡が存在するのは、すべて心主の絡を見ているのであります。

 絡に外邪が盛んとなりますと、経脉に入って留まるようになります。

 太陰の陰は、土中に潜む虫の出入りする関所の如く、体内の気血の出入りを主るので関蟄(かんちつ)と申します。

 意識的に見て皮部に浮絡が存在するのは、すべて太陰の絡を見ているのであります。

 おおよそ、十二經脉の絡脉と申しますは、皮部のことであります。

 でありますから百病が生じ始めるのは、必ず皮毛にその兆しが現れるのであります。

 もし、外邪が皮部に中りますと、腠理は開いて参ります。そうしますと外邪は絡脉に入って居座る様になり、そのまま留まって去りませんと経脉に伝入致します。

 さらにそのまま去らずに留まりますと、腑に入りまして腸胃に集まる様になるのであります。

 外邪が皮部に入り始めますと、ゾクゾクとして寒気がして体表の毛は逆立ち、そして腠理は開いてしまいます。

 そして絡脉に入ってしまいますと、絡脉は正邪抗争の結果、盛んとなり変色致します。

 また絡脉から経脉に入りますと、正気の不足を感じるようになり、経脉もまた陷下して参ります。

 さらに邪気が筋骨の間に留まり、外邪が寒に傾いているようでしたら筋が引きつれ骨もまた痛んで参ります。

 熱に傾いているようでしたら、筋は弛み骨は衰えて細り、肉は融ける様にやせ衰え、力こぶのような充実した肉は破れたかのように無力となり、毛は立ち枯れのようになってしまいます。

 帝が申された。

 夫子はこれまで、十二の皮部について話された。

 その皮部に病を生じる共通点はいかようなのか。

 岐伯が申された。

 皮と申しますは、経脉の一部でございます。

 ですから外邪が皮に舍りますと正気は敗れて腠理が開きます。

 そうしますと外邪は勢いに乗って絡脉に侵入し、絡脉で正邪の抗争が起こり、脉が満ちたにもかかわらず追い出すことが出来ないと、経脉に注ぎ入り、経脉でもまた外邪の侵入を防ぎきれないと臓腑にまで達してそこに舍るようになります。

 従いまして、皮には分部があり、皮の異変に気がつかないで治療の機会を失いますと、やがて大病を患うことになるのであります。


 帝が申された。 

 よく理解できた、と。



原文と読み下し



黄帝問曰.
余聞皮有分部.脉有經紀.筋有結絡.骨有度量.其所生病各異.別其分部.左右上下.陰陽所在.病之始終.願聞其道.
黄帝問うて曰く。
余は聞く。皮に分部有り、脉に經紀有り、筋に結絡り有り、骨に度量有り。其の生ずる所の病、各おの異なる、と。其の分部を別ち、左右上下、陰陽の在る所、病の始終、願わくば其の道を聞かん。

岐伯對曰.
欲知皮部.以經脉爲紀者.諸經皆然.
陽明之陽.名曰害蜚.上下同法.
視其部中有浮絡者.皆陽明之絡也.
其色多青則痛.多黒則痺.黄赤則熱.多白則寒.五色皆見.則寒熱也.
絡盛則入客於經.陽主外.陰主内.


岐伯對えて曰く。
皮部を知らんと欲すれば、經脉を以て紀と爲す者なり。諸經皆然り。
陽明の陽、名づけて害蜚(がいひ)と曰く。上下法を同じくす。
其の部中を視て、浮絡有る者は、皆陽明の絡なり。
其の色青多きは則ち痛み、黒多きは則ち痺し、黄赤なれば則ち熱し、白多きは則ち寒し、五色皆見われれば則ち寒熱なり。
絡盛んなれば則ち入りて經に客す。陽は外を主り、陰は内を主る。

少陽之陽.名曰樞持.上下同法.
視其部中有浮絡者.皆少陽之絡也.
絡盛則入客於經.
故在陽者主内.在陰者主出以滲於内.諸經皆然.


少陽の陽、名づけて樞持と曰く。上下法を同じくす。
其の部中を視て、浮絡有る者は、皆少陽の絡なり。
絡盛んなれば則ち入りて經に客す。
故に陽に在る者は内を主り、陰に在る者は出るを主り以て内に滲(にじ)む。諸經皆然り。

太陽之陽.名曰關樞.上下同法.
視其部中有浮絡者.皆太陽之絡也.
絡盛則入客於經.


太陽の陽、名づけて關樞と曰く。上下法を同じくす。
其の部中を視て、浮絡有る者は、皆太陽の絡なり。
絡盛んなれば則ち入りて經に客す。

少陰之陰.名曰樞儒.上下同法.
視其部中有浮絡者.皆少陰之絡也.
絡盛則入客於經.其入經也.從陽部注於經.

其出者.從陰内注於骨.
少陰の陰、名づけて樞儒と曰く。上下法を同じくす。
其の部中を視て、浮絡有る者は、皆少陰之の絡なり。
絡盛んなれば則ち入りて經に客す。其の經に入るや、陽部より經に注ぐ。
其の出ずる者は、陰より内りて骨に注ぐ。

心主之陰.名曰害肩.上下同法.
視其部中有浮絡者.皆心主之絡也.
絡盛則入客於經.


心主の陰、名づけて害肩と曰く。上下法を同じくす。
其の部中を視て、浮絡有る者は、皆心主の絡なり。
絡盛んなれば則ち入りて經に客す。

太陰之陰.名曰關蟄.上下同法.
視其部中有浮絡者.皆太陰之絡也.絡盛則入客於經.

太陰の陰、名づけて關蟄(かんちつ)と曰く。上下法を同じくす。
其の部中を視て、浮絡有る者は、皆太陰の絡なり。絡盛んなれば則ち入りて經に客す。

凡十二經絡脉者.皮之部也.
是故百病之始生也.必先於皮毛.邪中之.則腠理開.開則入客於絡脉.留而不去.傳入於經.留而不去.傳入於府.廩於腸胃.
邪之始入於皮也.泝然起毫毛.開腠理.
其入於絡也.則絡脉盛色變.
其入客於經也.則感虚.乃陷下.
其留於筋骨之間.寒多則筋攣骨痛.
熱多則筋弛骨消.肉爍䐃破.毛直而敗.

凡そ十二經の絡脉は、皮の部なり。
是れ故に百病の始めて生ずるや、必ず皮毛に先んず。邪これに中れば、則ち腠理開く。開けば則ち入りて絡脉に客し、留まりて去らずんば、傳えて經に入る。留まりて去らずんば、傳えて府に入り、腸胃に廩(あつ)まる。
邪の始めて皮に入るや、泝然(そぜん)として毫毛起き、腠理開く。
其の絡に入れば、則ち絡脉盛んにして色變ず。
其の入りて經に客すれば、則ち虚に感じて、乃ち陷下す。
其の筋骨の間に留まりて、寒多きは則ち筋攣し骨痛む。
熱多きは則ち筋弛み骨消し、肉爍(と)け䐃(きん)破れ、毛直して敗す。

帝曰.夫子言皮之十二部.其生病皆何如.
岐伯曰.
皮者脉之部也.邪客於皮.則腠理開.開則邪入客於絡脉.絡脉滿則注於經脉.經脉滿則入舍於府藏也.
故皮者有分部.※不癒而生大病也.
帝曰善.


帝曰く。夫子皮の十二部を言えり。其の病を生ずるは皆いかん。
岐伯曰く。
皮は脉の部なり。邪皮に客せば、則ち腠理開く。開けば則ち邪入りて絡脉に客し、絡脉滿つれば則ち經脉に注ぐ。經脉滿つれば則ち入りて府藏に舍す。
故に皮に分部有り、癒せざれば大病を生じるなり。
帝曰く、善し。



※原文、不與(不与)を甲乙経に倣い不癒に作る。


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長刺節論篇第五十五.

慶良間
 前篇に引き続き鍼法について述べられているが、鍼の補寫、遅速、深浅に関しては、他篇と矛盾することが多々ある。 

 これらから推測できることは、刺法に関しては当時から様々な流派ややり方があったことが分かる。

 これは巨刺と繆刺も同じである。

 巨刺と繆刺の鍼法は異なるが、生体全体を見渡し、気の偏在を空間的にとらえ、陰陽の平衡を計ろうとした鍼術としてみれば、同じ視点に立った鍼法であることが分かる。

 気の偏在を捉えること無く、巨刺、繆刺を固定的に捉え鍼を下すと、確実に誤る。

 このように臨床に際しては、原則に囚われず、生体が表現している状態に従って自由に遅速、深浅を加減することこそが大事と解釈することが出来る。

 人体は、一時も静止することなく千変万化するものである。

 その様々に変化する現象の中から、不変のものを見出しその場その場に応じて、一鍼を下すのが鍼灸医学である。

 このような生体の在り様に対して、原則は参考にすれども、定まった鍼法など無いに等しいのだと筆者は考えている。

 当然、本篇で取り上げられている病証と刺法は、ひとつのやり方であり例であって、決して固定的に捉えるべきではないと筆者は考える。

 この例から、何を読み取るかこそが大事と思う。

 固定的に捉えると、対象は実態から離れ、死んでしまうからである。

 また本篇で筆者が注目したのは、以下の一文である。

 <深專者.刺大藏.迫藏刺背.背兪也.刺之迫藏.藏會.腹中寒熱去而止.>

 この記載によって、腹部募穴と背部兪穴間の気の動きを明確にすることが出来る。

 気の動きを概念で捉えることができれば、あとはそのような視点で臨床的に照合していく過程に入ることが出来る。

 このあたりの詳細は、ブログ『一の会 東洋医学講座』 <背部兪穴と胸腹部募穴①~④>筆者の思惑を述べているので、興味のある方は訪れて頂けたらと思います。

 またこの篇は、誤字、脱字の類が多かったので、甲乙経、新校正などを参考に筆者なりに理解しやすいように読み替えたので、含みおいて頂けたらと思う。 
 

 

原 文 意 訳

 鍼の治療家は、診察前に病人の話し方に耳を傾けるものである。

 病が頭に在り、頭が急に痛むときは、鍼が骨に達すると治まるものである。


 その際には、皮は、鍼の出入りする部位であるが、骨肉と皮を傷害するようであってはならない。

 陰刺というは、一か所に刺し入れ、その傍らの四方に刺すのである。

 四方の面積大に気を集めたり散らしたりできるので、寒熱の病を治することができるのである。

 邪気が深い時には、五臓を刺す。

 邪気が五臓に迫ろうとしている時に背兪を刺すのは、五臓の気が背兪に会するからである。

 従って、正邪抗争の場を五臓から背兪に引くために刺鍼するのである。

 そして腹中の寒熱の症状が去れば、鍼もまた止めるのである。

 その際の要は、鍼を速く瞬間的に抜針し、浅いところで少し出血させることである。

 化膿した腫れ物を治するには、化膿部位を直接刺し、できものの大小を意識的に視て鍼の深浅を決めるのである。

 大きなものは、多く刺し、しかも深くするのである。

 その際には、鍼を真直ぐに持って刺入するのが、古来からの方法である。

 小腹部に固いしこりのある病は、皮肉の盛り上がっているところを刺し、そこから少腹部に至ったところで止める。

 さらに第四胸椎の傍らの厥陰兪を刺し、さらに腰骨の両側にある居髎付近と、さらに季脇肋の章門、京門付近を刺し、腹中の凝り固まった気を刺鍼部位に導き、熱所見が無くなれば治まるのである。

 少腹に病があって、腹痛がして大小便が無いのは、疝という病名である。これは寒邪に侵されたことが原因である。

 寒邪に傷られた疝には、小腹部と両方の内股、環跳付近を数多く刺す。下腹部以下全体が、はっきりと温かくなって来ると治まるのである。

 病が筋に在り、筋肉が痙攣して関節も痛み、歩くことが出来ないものを、筋痹と申します。

 筋痹には、筋上を刺すのが古来からの方法である。

 分肉の間を刺して、骨に中らないようにしなければならない。

 病が起こっても、筋が熱するようになると病は癒えて止まるのである。

 病が肌膚に在り、肌膚の尽くが痛むのを、肌痹と申します。寒湿に傷られたからであります。

 大肉・小肉の分間に、多く深く鍼を発し、肌膚が熱するようにするのが、古来からの方法です。

 その際には、筋骨を傷らないように致します。

 もし筋骨を傷りますと、廱(よう=できもの)を発するようになるか、思わぬ病変を生じます。

 大肉・小肉の分間の尽くが熱するようになりますと、病は癒えて止まります。

 病が骨に在り、骨が重く感じて挙動することが出来ず、骨髄は酸痛(だるく痛む)し、寒気の影響を受けるようになるものを、骨痹と申します。

 骨に届くように深く刺すが、脉肉を傷らないようにするのが、古来からの方法である。運鍼は、大肉・小肉の分間を進め、骨が熱するようになると、病は癒えて止まります。

 病が諸陽経に在り、寒と熱の症状が混在し、大肉・小肉の分間もまた、寒と熱の症状が混在しているのを、名づけて狂と申します。

 このような場合、虚脈を刺し、大肉・小肉の分間をしっかりと見て、寒熱の気が交流して、全体が熱すると病は癒えて止まるのである。

 この狂症が初めて発病し、一年に一度発作を起こして治らず、また月に一度発作を起こして治らず、さらに月に四五度発作を起こすようになりますと、これを癲病と申します。

 この際、諸分肉、諸経脉を刺すのであるが、寒の症状が無い場合は、鍼を以てこれを調え熱を平にすれば、病は癒えて止まるのである。

 風を病み、寒熱の症状があり、一日数回発熱して汗が出るような場合は、まず諸の分理絡脉を刺す。

 発汗して寒熱の症状があっても、三日に一度鍼をし、百日すると癒えるのであります。

 大風を病み、骨節が重く、髭や眉が抜け落ちてしまうのを、名づけて大風と申します。

 肌肉を刺すのが、古来からの方法である。発汗すること百日。

 骨髄を刺して発汗させること百日。

 凡そ合計二百日刺鍼し、髭と眉毛が生じて来たら、刺鍼もまた止めるのであります。




原文と読み下し



刺家不診.聽病者言.※1(病)在頭.頭疾痛.爲※2(藏)鍼之.刺至骨.病已※3止(上).無傷骨肉及皮.皮者道也.

陰刺入一.傍四處.治寒熱.

深專者.刺大藏.迫藏刺背.背兪也.

刺之迫藏.藏會.腹中寒熱去而止.

※4(與)刺之要.發鍼而淺出血.


刺家診せず、病者の言を聽く。病は頭に在り、頭疾痛めば、爲にこれに鍼す。刺して骨に至らば、病已み止まる。骨肉及び皮を傷ること無かれ。皮なるは、道なり。

陰刺は一を入れて傍ら四處す。寒熱を治す。

深さ專らなるは、大藏を刺す。

藏に迫るは、背を刺す。背の兪なり。

これ藏に迫るを刺すは、藏會なればなり。腹中の寒熱去りて止む。

刺の要は、鍼を發して淺く血を出すなり。

※1在のうえに病の文字ありとす。

※2(藏)全元起本には蔵の文字がない。これにならう。

※3上を止に改める。

※4與を読まず。



治腐腫者.刺腐上.視癰小大.深淺刺.
※刺大者多而深之.必端内鍼爲故止.必端内鍼爲故止.

腐腫を治するは、腐の上を刺す。癰の小大を視て、深く淺く刺す。

大なるを刺すは、多くしてこれを深くし、必ず端(ただ)しく鍼を内れるを故止と爲す。

※原文は「刺大者多血.小者深之.」甲乙経は、刺大者多而深之.必端内鍼爲故止.とあるに従う。


病在少腹有積.刺皮[骨盾].以下至少腹而止.

刺侠脊兩傍四椎間.刺兩[骨客]髎.季脇肋間.導腹中氣.熱下已.

病少腹に在りて積有るは、皮[骨盾](ひとつ)以下を刺し、少腹に至りて止む。

侠脊の兩傍四椎の間を刺し、兩[骨客]髎(かりょう)、季脇肋の間を刺す。腹中の氣を導き、熱下れば已む。


病在少腹.腹痛不得大小便.病名曰疝.得之寒.

刺少腹兩股間.刺腰髁骨間.刺而多之.盡炅病已.

病少腹に在り。腹痛みて大小便を得ず。病名づけて疝と曰く。これを寒に得る。

少腹兩股の間を刺し、刺腰髁骨(かこつ)の間を刺す。刺してこれを多くす。盡く炅(けい)して病已む。


病在筋.筋攣節痛.不可以行.名曰筋痺.

刺筋上爲故.刺分肉間.不可中骨也.病起.筋炅病已止.


病筋に在り。筋攣し節痛み、以て行くべからず。名づけて筋痺と曰く。

筋上を刺す故と爲す。分肉の間を刺して、骨に中るべからず。病起.筋炅すれば病已(や)みて止る。


在肌膚.肌膚盡痛.名曰肌痺.傷於寒濕.

刺大分小分.多發鍼而深之.以熱爲故.

無傷筋骨.傷筋骨.癰發若變.

諸分盡熱.病已止.


病肌膚に在りて、肌膚盡く痛む。名づけて肌痺と曰く。寒濕に傷らる。

大分小分を刺す。多く鍼を發してこれを深くし、以て熱するを故と爲す。

筋骨を傷ること無かれ。筋骨を傷れば、癰を發し若しくは變ず。

諸分盡く熱すれば、病已えて止む。


病在骨.骨重不可擧.骨髓酸痛.寒氣至.名曰骨痺.

深者刺無傷脉肉爲故.其道大分小分.骨熱病已止.


病骨に在り。骨重くして擧げるべからず。骨髓酸痛し、寒氣至る。名づけて骨痺と曰く。

深き者は刺して脉肉を傷ること無きを故と爲す。其の道は大分小分、骨熱すれば病已えて止む。


病在諸陽脉.且寒且熱.諸分且寒且熱.名曰狂.

刺之虚脉.視分盡熱.病已止.

病初發.歳一發不治.月一發不治.月四五發.名曰癲病.

刺諸分諸脉.其無寒者.以鍼調之.病止.


病諸陽の脉に在り。且つ寒し且つ熱す。諸分且つ寒し且つ熱するは、名づけて狂と曰く。

これを虚脉に刺し、分盡く熱するを視れば、病已えて止む。

病初めて發し、歳に一たび發して治せず。月に一たび發して治せず。月に四五たび發するを、名づけて癲病と曰く。

諸分諸脉を刺す。其の寒無き者は、鍼を以てこれを調えれば、病止む。


病風.且寒且熱.炅汗出.一日數過.先刺諸分理絡脉.

汗出且寒且熱.三日一刺.百日而已.

風を病みて、且つ寒し且つ熱し、炅汗出ずること、一日に數過するは、先ず諸の分理絡脉を刺す。

汗出で且つ寒し且つ熱するは、三日に一たび刺す。百日にして已む。


病大風.骨節重.鬚眉墮.名曰大風.刺肌肉爲故.汗出百日.

刺骨髓.汗出百日.凡二百日.鬚眉生而止鍼.


大風を病みて、骨節重く、鬚眉墮つるを、名づけて大風と曰く。肌肉を刺すを故と爲す。汗出ずること百日、

骨髓を刺して、汗出ずること百日、凡そ二百日、鬚眉生じて鍼を止む。



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鍼解篇第五十四.

花咲き虫が飛び交う・・・盛夏

 本篇は、鍼の基本的な補瀉法と、それを施したのちの変化の目安について述べられている。

 さらに、内経医学で一貫している『天人相応』思想が、ここでも記載されているが、これをこじつけと思ってしまうと、内経医学の深いところが見えなくなってしまうので一考されたい。

 『天人相応』を、日常生活の中で常に観ていくことが、臨床につながる。


 鍼の遅速に関しては、本篇の内容は基礎的なことで、例えば瀉法を用いる際に陽邪と陰邪とでは大きく異なる。

 また瀉法を施した後、鍼穴を閉じるとの記載もあるが、これもその時々の状態によるので、全般的な補瀉の記載に関しては、決して固定的に捉えないのが良いと思う。

 また、補瀉に関しては、技術的なことは脇に置いておいて、術者の意念がその効果を大きく作用すると付け加えたい。

 言い換えると、「瀉す」、「補う」、という術者の確信が効果を左右する。

 基本的な補瀉について述べられているが、鍼の技術的なことはすでにクリア出来ていて、そこからさらに一歩進んでより効果を上げるため、また鍼の本質を伝えるために、術者の『心持ちの大事』を説いていると、筆者は感じている。




原 文 意 訳

 
  帝が問うて申された。願わくば九鍼の解釈と虚実の道理を聞きたいのであるが。

 それに対して岐伯が申された。

 虚を刺してこれを実しますと、鍼下に熱感が生じます。気が集まりますと熱となるからであります。

 満ちているものを泄する場合は、鍼下が寒するものであります。気が散ってしまいますと、冷えるからであります。

 宛陳、つまり鬱滞して久しいものを取り除こうとする場合は、悪血を出してやります。

 邪が勝つときは、これを虚すとは、抜鍼後に鍼穴を按じて邪が出ていくのを妨げてはならないということです。

 徐にして疾なれば則ち實すとは、補法のことであります。つまり鍼は徐々に刺入し、抜鍼は疾くして鍼穴を按ずるのであります。

 疾くして徐なれば則ち虚すとは、瀉法のことであります。つまり鍼を疾く刺入し、抜針は徐々に行ってから鍼穴を按ずるのであります。

 虚と実について申しますなら、寒温の気の多少を判断材料に致します。

 有るが如き無きが如しとは、鍼を疾く操作する瞬間瞬間のことで、それを言葉で知ることはできないものであります。

 先と後を察するとは、病の新旧、病因病理を察知することであります。

 虚と実を爲すと申しますは、医師は正確に補瀉を行い、補瀉の法を意識から決して離してはなりません。

 気を得たのか失したのかが曖昧な時は、補瀉を明確に判断せず、補瀉の法を離れてしまったからであります。

 補瀉を的確に行うには、九鍼が最も優れております。と申しますのは、九鍼には、それぞれ病態に適うように考案されているからであります。

 補瀉にあたりましては、気の去来に従ってタイミングよく鍼穴を開闔いたします。

 九鍼とは、それぞれ異なった形をしておりまして、まさに補瀉を行うべきところをよく見極めて、九種類の鍼を用いるということであります。

 実を刺して虚するのを待つと申しますは、鍼を刺して留め置き、陰気が盛んになりましてから鍼を去るということであります。

 虚を刺して実するのを待つと申しますは、同じく陽気が盛んになり、鍼下が熱してから鍼を去るということであります。

 経気がすでに至りましたら、慎重にそれを守り失することがあってはなりません。途中で迷って補瀉を変更してはなりません。

 鍼の深浅は志にありとは、病が内外のどこにあるのかを心を専一にして知ることであります。

 遠近は一の如しとは、鍼の深浅・病位を伺うのは、気が至る感覚と同じであるということであります。

 深淵に臨むが如しとは、油断せず慎重になるということであります。

 手に虎を握るが如しとは、慎重にしかも鍼をしっかりと持ち、鍼下の正邪を掴むことであります。

 術者の意識は、周りの様々なことに囚われることなく心を静かにし、病人を観て集中し、左右のものに気を取られキョロキョロ見てはなりません。

 鍼は斜めに下してはならないという意味は、襟を正して偏らず、まっすぐに刺し下すということであります。

 必ずその神を正すとは、病人の目を見てその神を制して落ち着かせ、病人の気がめぐりやすくすることであります。


 それはつまり、互いの目を合わすことにより、患者の神が鎮まるかどうかは、互いの信頼関係と治療効果に大きく影響するということであります。

 いわゆる三里は、膝を下ること三寸にあります。

 跗上(足の甲)は、膝を挙げますと指の間がはっきりとして見やすいものであります。

 巨虚と申しますは、足の向う脛を挙げますと、ひとりくぼむところで、下廉は陥下しているところです。

 帝が申された。余は九鍼が上は天地・四時・陰陽に応ずと聞いている。願わくばその有様を聞いて、後世に伝え、以て鍼の常道にしたいと思うのだが。

 岐伯が申された。

 一は天、二は地、三は人、四は時、五は音、六は律、七は星、八は風、九は野でありまして、人の身体もまたこれに応じておるのであります。


 そして鍼にも、それぞれ適応するところがありますので、九鍼と申すのであります。

 人の皮膚は、人体を包んでおり、天もまた万物を覆っているのと相関いたします。


 同様に人の肉は土に属し、身体に起伏を生じ適度に潤っている様が大地と相関いたします。

 人の脉は状況に応じて常に変化しておりますので、天地の気が交流して様々に変化する様と相関いたします。

 人の筋は、しっかりと骨を束ねているので、人体を移動させることが出来ます。時もまた連続して流れ四時はばらばらにやってくるのではなく、規則的に移り変わる様と相関しております。

 人の声は五音を備え発しますので、五音に応じます。

 人の陰陽消長の気は、大自然の気に応じており、三陰三陽六律の音階変化に応じております。

 人の歯や面目の位置は定まっているように、これらは天の星と相関いたします。

 人の気が出入りする様は、風と相関いたします。

 人には九竅三六五絡がありますが、これは野に湧水があり、また河川が縦横無尽に流れている様に応じます。

 従いまして、一鑱鍼(ざんしん)は皮を刺し、二員針(えんしん)は肉を刺し、三鍉針は脉を刺し、四鋒針は筋を刺し、五鈹針は骨を刺し、六員利鍼は陰陽気血を調和し、七毫鍼は精気を補益し、八長鍼は風邪を駆除し、九大鍼は九竅を疎通します。


 このように三六五節の邪気を除くため、各病状と病位に適うように九鍼を用いるのであります。

 人の心意は、自然界の
気まぐれに吹く八風と同じで、千変万化致します。

 ですから人の気は天の気に応ずと申すのであります。

 人の髪、歯、耳目、五声が調和して聡明なのは、五音六律に調和があることに応じています。

 そして人の陰陽脉血気は、大地に応じているのであります。


原文と読み下し



黄帝問曰.願聞九鍼之解.虚實之道.

岐伯對曰.

刺虚則實之者.鍼下熱也.氣實乃熱也.

滿而泄之者.鍼下寒也.氣虚乃寒也.

宛陳則除之者.出惡血也.

邪勝則虚之者.出鍼勿按.

徐而疾則實者.徐出鍼而疾按之.

疾而徐則虚者.疾出鍼而徐按之.

言實與虚者.寒温氣多少也.

若無若有者.疾不可知也.

察後與先者.知病先後也.

爲虚與實者.工勿失其法.

若得若失者.離其法也.

虚實之要.九鍼最妙者.爲其各有所宜也.

補寫之時者.與氣開闔相合也.

九鍼之名.各不同形者.鍼窮其所當補寫也.


黄帝問うて曰く。願わくば九鍼の解、虚實の道を聞かん。

岐伯對して曰く。

虚を刺して則ちこれを實すとは、鍼下熱するなり。氣實すれば乃ち熱するなり。

滿つればこれを泄すとは、鍼下寒也するなり。氣虚すれば寒するなり。

宛陳(えんちん)なれば則ちこれを除くとは、惡血を出すなり。

邪勝てば則ちこれを虚すとは、鍼出して按ずること勿れ。

徐にして疾なれば則ち實すとは、徐に鍼を出だし疾くこれを按ずるなり。

疾くして徐なれば則ち虚すとは、疾く鍼を出だし、徐にこれを按ず。

實と虚を言うは、寒温の氣の多少なり。

無きが若く有るが如きとは、疾くして知るべからざるなり。

後と先を察するとは、病の先後也を知るなり。

虚と實を爲すとは、工はその法を失すること勿れ。

得るが如く失するが如しとは、その法を離れるなり。

虚實の要、九鍼最も妙なりとは、その各々に宜しき所有るが爲なり。

補寫の時とは、氣の開闔と相い合するなり。

九鍼の名、各々形同じからずとは、鍼はその當に補寫する所を窮むるなり。



刺實須其虚者.留鍼陰氣隆至.乃去鍼也.

刺虚須其實者.陽氣隆至.鍼下熱.乃去鍼也.

經氣已至.愼守勿失者.勿變更也.

深淺在志者.知病之内外也.

近遠如一者.深淺其候等也.

如臨深淵者.不敢墮也.

手如握虎者.欲其壯也.

神無營於衆物者.靜志觀病人無左右視也.

義無邪下者.欲端以正也.

必正其神者.欲瞻病人目.制其神.令氣易行也.

所謂三里者.下膝三寸也.

所謂跗之者.擧膝分易見也.

巨虚者.䯒足蹻獨陷者.

下廉者.陷下者也.

實を刺しその虚を須(ま)つとは、鍼を留め陰氣隆(さか)んに至りて、乃ち鍼を去るなり。

虚を刺しその実を實須(ま)つとは、陽氣隆んに至りて、鍼下熱すれば、乃ち鍼を去るなり。

經氣已に至れば、、愼しみ守りて失すること勿れ、變更すること勿れ。

深淺は志に在りとは、病の内外を知るなり。

近遠一如しとは、深淺その候等しきなり。

深淵に臨むが如しとは、敢えて墮ちざるなり。

手に虎を握るが如しとは、その壯なることを欲するなり。

神衆物を營すること無かれとは、志靜にして病人を觀て左右を視ること無かれとなり。

義にして邪(ななめ)に下すこと無かれとは、端にして以て正ならんことを欲するなり。

必ずその神を正すとは、病人の目を瞻(み)て、その神を制し、氣をして行ること易からしめんと欲するなり。

所謂三里は、膝の下三寸なり。

所謂跗之(ふし)は、膝を擧ぐれば分けて見易きなり。

巨虚は、足の䯒(こう)を蹻(あ)ぐれば、獨り陷するものなり。

下廉は、陷の下なるものなり。



帝曰.余聞九鍼.上應天地四時陰陽.願聞其方.令可傳於後世.以爲常也.

岐伯曰.

夫一天.二地.三人.四時.五音.六律.七星.八風.九野.

身形亦應之.鍼各有所宜.故曰九鍼.


帝曰く。余は聞くに、九鍼は上は天地四時陰陽に應ずと。願わくばその方を聞き、後世に傳え以て常と爲すべからしめんなり。

岐伯曰く。

夫れ一は天。二は地。三は人。四は時。五は音。六は律。七は星。八は風。九は野。

身の形も亦たこれに應ず。鍼各々宜しき所有り。故に九鍼と曰く。



 

人皮應天.人肉應地.人脉應人.人筋應時.人聲應音.人陰陽合氣應律.人齒面目應星.人出入氣應風.人九竅三百六十五絡應野.

故一鍼皮.二鍼肉.三鍼脉.四鍼筋.五鍼骨.六鍼調陰陽.七鍼益精.八鍼除風.九鍼通九竅.除三百六十五節氣.此之謂各有所主也.


人心意應八風.人氣應天.人髮齒耳目五聲.應五音六律.人陰陽脉血氣應地.
人の皮は天に應ず。人の肉は地に應ず。人の脉は人に應ず。人の筋は時に應ず。人の聲は音に應ず。人の陰陽は気に合し律に應ず。人の齒面目は星に應星ず。人の出入の氣派〕風に應風ず。人の九竅三百六十五絡は野に應ず。

故に一鍼は皮。二鍼は肉。三鍼は脉。四鍼は筋。五鍼は骨。六鍼は陰陽を調し、七鍼は精を益し、八鍼は封を除き、九鍼は九竅に通じ、三百六十五節の氣を除く。此れをこれ各々主る所有りと謂うなり。

人の心意は八風に應ず。人の氣は天に應天ず。人の髮齒耳目五聲は、五音六律に應ず。人の陰陽脉血氣は地に應ず。






※以下、王冰の注釈以来、虫損、残欠にのため意味不明であるとされ、後世新たに発見されるのを待つ部分とされているので、原文のみを記すにとどめる。

人肝目應之九.九竅三百六十五.人一以觀動靜.天二以候五色.七星應之以候髮毋澤.五音一以候宮商角徴羽.六律有餘不足應之.二地一以候高下有餘.九野一節兪應之以候閉.節.三人變一分人候齒泄多血少.十分角之變.五分以候緩急.六分不足.三分寒關節.第九分四時人寒温燥濕.四時一應之以候相反一.四方各作解.

九竅三百六十五.人一以觀動靜.天二以候五色.七星應之以候髮毋澤.五音一以候宮商角徴羽.六律有餘不足應之.二地一以候高下有餘.九野一節兪應之以候閉.節.三人變一分人候齒泄多血少.十分角之變.五分以候緩急.六分不足.三分寒關節.第九分四時人寒温燥濕.四時一應之以候相反一.四方各作解.


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刺志論篇第五十三.


 本篇は、基本的な虚実の概念と、変証について述べられている。また初歩的な刺鍼後の手技についても記載されている。

 実に関しては、邪気実としての解説と外邪侵入との解説を多く見るが、「鬱滞即邪」の概念からすると、正気の鬱滞・有余もまた即邪気と転化する視点を見落とさないようにするのが肝要かと思う。

 さらに虚実の概念も、内経では一貫しておらず、単に緊張や充実していることを指して実と表現しているので、実=邪気(もしくは外邪)と短絡しないように気をつけるのが良いと思う。

 さらに言えば、読者諸氏は文中の虚実が何を軸にして論じているのかを明確にしながら読み進めると、より一層理解の幅が広がると思うので参考にされたい。

 また、常と変に関しては、臨床的には常見するので、筆者の独断で意訳に加えた。千変万化する現象から、真仮・虚実の見極めはやはり巧拙に関わってくると実感している。

 さて、本篇の表題『 刺志論』であるが、馬蒔は「志」は「記」と注しているが、「志」が「誌」に通じるためであろう。

 本文最初に、黄帝が「虚実の要」を聞かせてもらいたいとの記述から、虚実は決して誤ってはならない重要な診断であることが知れる。

 「志」とは本来、こころがある方向に向かうことであるから、刺鍼に際しては、決して曲げたり曖昧にしてはならない虚実の概念を述べているからこそ、表題を『 刺志論』としたのではなかろうかと、筆者は考えている。

 読者諸氏は、如何。





原 文 意 訳

  黄帝が問うて申された。願わくば、虚実の要となることを聞きたいのであるが。

 岐伯がそれに対して申された。

 気が実しておれば形もまた実しており、気が虚しておれば形もまた虚しているというのが理に適った常の状態であります。これに反しておりますと、変でありますので病んでおります。

 食を十分に摂取できるものは、気もまた盛んであります。反対にあまり食べることが出来ないものは、気が虚しているというのが常であり、これに反した変でありますと、病んでいるのであります。

 脉力が充実しておれば血色も良く、血もまた充実しており、脉力が弱ければ血色も悪く、血もまた不足しているのが常であります。これに反した変でありますと、病んでいるのであります。

 帝が申された。理に適っていない反・変の状態とはいかなるか。

 岐伯が申された。

 気が盛んであるにもかかわらず、身体が寒していたり、気が不足しているにもかかわらず、身体が熱しておりますと、理に適わない反・変であります。

 しっかりと食物を摂っているにもかかわらず、気が少ないのも反・変であります。


 反対に、あまり食べることが出来ないにもかかわらず、気が多いのも反・変であります。

 脉が盛んで血が少なく血色が悪い、脉が弱いのに血が多く血色が良いというのも、また反・変であります。

 気が盛んであるにもかかわらず身体が寒しているのは、これは寒邪に傷られたからであります。

 気が不足しているにもかかわらず身体が熱しているのは、暑邪に傷られたからであります。

 たくさん食しているのに気が虚している者は、身体のどこかに出血しているところがあり、湿が下焦に在って気を阻んでいるからであります。

 少ししか食していないのに気が多い者は、邪気が胃と肺に在って正気と抗争しているからであります。

 脉が弱いのに血が多く血色が良いのは、水飲が中焦に留まり気と結んで熱しているためである。

 脉が大きく打っているのに血が少なく血色が悪いのは、脉が風気を受け、飲み物も取れないからであります。

 実と申しますは、気が内に入って一杯になった状態で、虚とは正気が抜け出でて不足した状態であります。

 気が実している者は、有余している分だけ身体が熱するものであり、気が虚している者は、不足している分だけ身体が冷えるものです。

 気有余の実でありましたら、鍼の押手であります左手の指で鍼穴を開くようにしまして、気不足の虚でありましたら、同じく鍼穴を閉じるように手技を致すのであります。




原文と読み下し

黄帝問曰.願聞虚實之要.

岐伯對曰.

氣實形實.氣虚形虚.此其常也.反此者病.

穀盛氣盛.穀虚氣虚.此其常也.反此者病.

脉實血實.脉虚血虚.此其常也.反此者病.


黄帝問うて曰く。願わくば虚實の要を聞かん。

岐伯對して曰く。

氣實して形實し、氣虚して形虚す。此れ其の常なり。此れに反するものは病む。

穀盛んにして氣盛ん、穀虚して氣虚す。此れ其の常なり。此れに反するものは病む。

脉實して血實し、脉虚して血虚す。此れ其の常なり。此れに反するものは病む。



帝曰.如何而反.

岐伯曰.

氣虚身熱.此謂反也.

穀入多而氣少.此謂反也.

穀不入而氣多.此謂反也.

脉盛血少.此謂反也.

脉少血多.此謂反也.


帝曰く。如何にしてか反すや。

岐伯曰く。

氣虚して身熱す。此れを反と謂うなり。

穀入ること多くして氣少なし。此れを反と謂うなり。

穀入らずして氣多し。此れを反と謂うなり。

脉盛んにして血少し。此れを反と謂うなり。

脉少く血多し。此れを反と謂うなり。



氣盛身寒.得之傷寒.

氣虚身熱.得之傷暑.

穀入多而氣少者.得之有所脱血.濕居下也.

穀入少而氣多者.邪在胃及與肺也.

脉小血多者.飮中熱也.

脉大血少者.脉有風氣.水漿不入.此之謂也.


氣盛んにして身寒するは、これを傷寒に得る。

氣虚して身熱す。これを傷暑に得る。

穀入ること多くして氣少き者は、これ脱血する所有りて、濕下に居るに得る。

穀入ること少くなくして氣多き者は、邪は胃と肺に在るなり。

脉小にして血多き者は、飮して中は熱するなり。

脉大にして血少き者は、脉に風氣有り、水漿入らず。此れを之れ謂うなり。


夫實者氣入也.虚者氣出也.

氣實者熱也.氣虚者寒也.

入實者.左手開鍼空也.

入虚者.左手閉鍼空也.


夫れ實するとは、氣の入るなり。虚するとは、氣出ずるなり。

氣實する者は熱するなり。氣虚する者は寒するなり。

實に入る者は、左手もて鍼空(はりあな)を開くなり。

虚に入る者は、左手もて鍼空を閉すなり。


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刺禁論篇第五十二.

もうすぐ梅雨明けでしょうか


 この篇では、禁鍼穴と過誤の起こりやすい部位を明確にし、同時に深く刺すことを戒めている。

 この篇を読み返す度に、病に苦しむ人を、治してあげたいという想いで行った鍼治療で、反って患者が目の前で悪化したり死亡する情景に接して、術者はどのような気持ちになったのだろうかと想像してしまう。

 治すことが出来ないと、治療者も病人も共に苦しむものだ。まして悪化・死亡など、あってはならないことが、過去に起きたからこそ、ここに記述されているのである。

 このことに深く思いを至らせて、過誤の無いように努めるのは最低のことで、術者は、はるかにそれ以上のでなければならない。

 深刺しと局所治療は、よほどの根拠がない限り、施すべきでないというのが筆者の考えである。

 内経医学では、全身の『気の偏在』を視野に入れ、心身ともに人としての本来の姿に戻すことを第一の目的として刺鍼する。

 外後頭隆起の下方、腦戸穴・瘂門穴に深刺しして、脳に中ると即死であるとの記載は、当時から脳の重要性を一定認識していることが知れる。

 にもかかわらず、内経医学では脳は腎精の余りであるとして、さほど重要視していないのは、重要である。

 そして東洋医学では、生命の中枢は脳ではなく、五臓に求めている。

 西洋医学とは、人体観・生命観が異なるためである。

 実際の臨床において、現代医学的に脳の疾患と診断されたものであっても、五臓の虚実を調えることで治癒した筆者の臨床症例は、数えてはないがかなり存在する。

 現代医学的病名は、参考にはなるが東洋医学とは世界が異なる。

 現象として現れている症状を無視するのではないが、それにとらわれず全体性の回復を図り、結果として症状が消失するのが東洋医学の基本的な視点であることを、再確認しておきたい。

 



原 文 意 訳

 黄帝が問うて申された。願わくば、刺鍼に際しての禁忌を聞きたいのであるが。

 岐伯が申された。

 臓には要害となるところがございますので、必ずこれらを知っておかなくてはなりません。

 肝の気は、左に生じまして、肺の気は右に蔵されております。

 心の気は、表在部を流れており、腎の気は深在部を流れて諸臓を治めております。


 脾は土で中央でありますれば、他の四臓それぞれの必要に応じて気血を送り、胃は水穀五味が聚る所であります。

 膈の上は、人体の父母である心肺があり、七節下・至陽穴の傍ら膈兪穴には、心の気の根である腎気が昇ってきております。

 これらのことを十分にわきまえて治療すれば福とすることが出来ますが、そうでなければ咎を負うことになります。

 もし、刺して心に中れば一日で死し、その変動は噫(おくび)となって現れます。

 同様に、刺して肝に中れば五日で死し、その変動はやたらと多言となって現れます。

 刺して腎に中れば、六日で死し、その変動は嚔(くさめ=くしゃみ)となって現れます。

 刺して脾に中れば、十日で死し、その変動は呑(どん)、つまり嚥下困難な状態に現れます。

 刺して胆に中れば、一日半で死し、その変動は、嘔(おう)、つまり吐き気となって現れます。

 刺して足の甲の大きな脉に中りますと、出血が止まらず死します。

 刺して顔面の脉の支別が浮いて見える溜脉に中りますと、不幸にして失明致します。

 刺して頭の腦戸に中りますと、鍼が脳に入って即死致します。

 刺して舌下の脉に中り、それが大いに過ぎますと出血が止まらなくなり、瘖(いん)、つまり言語障害になります。

 足下に分布する絡を刺し、脉に中ってしまうと、内出血となるので腫れて参ります。

 郄中、つまり委中穴の大脉に中りますと、顔面の気色を失い昏倒致します。

 気街、つまり気衝穴に刺して脉に中り、出血しない場合は鼠蹊部が腫れます。

 椎間を刺し、髄に中りますとせむしとなります。

 乳の上を刺して乳房に中りますと、腫れて内部から腐って参ります。

 缺盆穴の中を刺し、深刺しすると気が泄れ、あえぎながら咳をするようになります。

 手の魚腹を刺し、深刺しすると腫れて参ります。

 大いに酒に酔っているものを刺してはなりません。陽気過多であるので、気が乱れて収拾がつかなくなります。

 大いに起こっているものを刺してはなりません。怒気で上逆しているのが、さらにひどくなります。

 その他、疲労困憊している人、食後満腹となっている人、大いに餓えている人、大いに渇している人、大いに驚いて気が乱れている人、これらの人は、刺してはなりません。

 ですので、疲労困憊している人はしばらく休ませ回復を待ち、満腹の人は飲食が臓腑になじむのを待ち、餓えているものは少し食を進め、渇しているものは少し飲水をさせ、驚いて乱れている気が落ち着つくのを待ってからなど、刺鍼までには工夫が必要であります。

 陰股、つまり股の内側を刺して大脉に中り、出血が止まらなければ死します。

 客主人(上関)穴を深刺して脉に中りますと、頭内の気が漏れ、聾となります。

 膝蓋骨を刺し、液が出るとビッコとなります。

 腕の太陰脉を刺し、出血が多いと、たちどころに死します。

 すでに虚している足少陰を刺し、重ねて出血させて虚となりますと、舌が思うように動かなくなり言葉も話せなくなります。

 胸を深刺しし、肺に中りますと喘いで仰向けになって呼吸するようになります。

 肘窩を深刺し、気が鬱滞すると肘の屈伸が出来なくなります。

 大腿内側の下三寸を深刺しすると、小便を失禁するようになります。

 少腹を刺し、膀胱に中りますと腹腔内に小便が流出し、少腹が満となります。

 ふくらはぎを深刺しすると、その部位が腫れます。

 眼窩を刺して、脉に中りますと、涙が漏れ出たり失明致します。

 関節を刺し、液が出ると屈伸できなくなります。 



原文と読み下し

黄帝問曰.願聞禁數.

岐伯對曰.

藏有要害.不可不察.

肝生於左.

肺藏於右.

心部於表.

腎治於裏.

脾爲之使.

胃爲之市.

鬲肓之上.中有父母.七節之傍.中有小心.從之有福.逆之有咎.


黄帝問うて曰く。願わくば禁數を聞かん。

岐伯對して曰く。

藏に要害有り。察せざるべからず・

肝は左に生ず。

肺は右に藏す。

心は表に部す。

腎は裏に治まる。

脾はこれが使たり。

胃はこれが市たり。

鬲肓の上、中に父母有り。七節の傍、中に小心あり。これに從えば福有り。これに逆えば咎有り。 


刺中心.一日死.其動爲噫.

刺中肝.五日死.其動爲語.

刺中腎.六日死.其動爲嚔.

刺中肺.三日死.其動爲欬.

刺中脾.十日死.其動爲呑.

刺中膽.一日半死.其動爲嘔.


刺して心に中れば、一日にて死す。其の動は噫を爲す。

刺して肝に中れば、五日にて死す。其の動は語を爲す。

刺して腎に中れば、六日にて死す。其の動は嚔を爲す。

刺して肺に中れば、三日にて死す。其の動は欬を爲す。

刺して脾に中れば、十日にて死す。其の動は呑を爲す。

刺して膽に中れば、一日半にて死す。其の動は嘔を爲す。


刺跗上.中大脉.血出不止死.

刺面中溜脉.不幸爲盲.

刺頭中腦戸.入腦立死.

刺舌下中脉太過.血出不止.爲瘖.

刺足下布絡中脉.血不出.爲腫.

刺郄中大脉.令人仆脱色.

刺氣街中脉.血不出.爲腫鼠僕.

刺脊間.中髓.爲傴.

刺乳上.中乳房.爲腫根蝕.

刺缺盆中.内陷氣泄.令人喘欬逆.

刺手魚腹.内陷爲腫.


跗上を刺して大脉に中れば、血出でて止ざれば死す。

面を刺して溜脉に中れば、不幸なるは盲を爲す。

頭を刺して腦戸に中れば、腦に入れば立ちどころに死す。

舌下を刺して脉に中ること太過なれば、血出でて止まざれば、瘖となる。

足下の布絡を刺して脉に中り、血出でざれば、腫となる。

郄中の大脉を刺せば、人をして仆(たお)れ色脱せしむ。

氣街を刺し脉に中りて、血出でざれば、鼠僕は腫となる。

脊間を刺し、髄に中れば、傴(く)となる。

乳上を刺し、乳房に中れば、腫れて根蝕む。

缺盆の中を刺し、内陷して氣泄れれば、人をして喘し欬逆せしむ。

手の魚腹を刺して、内陷すれば腫となる。 


無刺大醉.令人氣亂.

無刺大怒.令人氣逆.

無刺大勞人.

無刺新飽人.

無刺大饑人.

無刺大渇人.

無刺大驚人.


大醉を刺すこと無かれ。人をして氣亂れしむ。

大怒をを刺すこと無かれ。ひとをして氣逆せしむ。

大勞の人を刺すこと無かれ。

新飽の人を刺すこと無かれ。

大饑の人を刺すこと無かれ。

大渇の人を刺すこと無かれ。

大驚の人を刺すこと無かれ。 


刺陰股中大脉.血出不止死.

刺客主人.内陷中脉.爲内漏.爲聾.

刺膝髕.出液爲跛.

刺臂太陰脉.出血多.立死.

刺足少陰脉.重虚出血.爲舌難以言.

刺膺中.陷中肺.爲喘逆仰息.

刺肘中.内陷氣歸之.爲不屈伸.

刺陰股下三寸.内陷.令人遺溺.

刺掖下脇間.内陷.令人欬.

刺少腹.中膀胱溺出.令人少腹滿.

刺腨腸.内陷.爲腫.

刺匡上.陷骨中脉.爲漏爲盲.

刺關節中.液出.不得屈伸.


陰股を刺し大脉に中り、血出でて止まざれば死す。

客主人を刺し、内陷して脉に中れば、内漏を爲し、聾となる。

膝髕(しつひん)を刺し、液出ずれば跛(は)となる。

臂の太陰の脉を刺し、出血多ければ、立ちどころに死す。

足の少陰の脉を刺し、重ねて虚し血出だせば、舌言うを以て難きを爲す。

膺中を刺し、陷して肺に中れば、喘逆し仰息となる。

肘中を刺し、内陷し氣これに歸すれば、屈伸せざるを爲す。

陰股の下三寸を刺し、内陷すれば、人をして遺溺せしむ。

掖下脇間を刺し、内陷すれば、人をして欬せしむ。

少腹を刺し、膀胱に中りて溺出ずれば、人をして少腹滿せしむ。

腨腸(せんちょう)を刺し、内陷すれば、腫を爲す。

匡上(きょうじょう)の陥骨を刺して脉に中れば、漏を爲し盲を爲す。

關節の中を刺し、液出ずれば、屈伸を得ず。 


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刺齊論篇第五十一.

梅雨明けが待ち遠しい

 本篇『刺齊論』は、前篇「刺要論」の続編となっている。筆者の考えは、前編ですでに述べているので、特筆すべき事柄はない。

 ただ、なぜ『刺齊論』として別に論じているのだろうという漠然とした疑問は残る。

 『刺齊論』の齊の文字は、古代祭壇の前で奉仕することを意味している。

 そこから、心身を清めて慎む意味となった経緯を思うと、患者を目の前にして術者は心身を清め、つつしんで鍼の深浅を図らなければならないということなのであろうか。




原文意訳



 黄帝が問うて申された。願わくば、刺鍼の深浅の区別を聞きたいのであるが。

 それに対して岐伯が申された。

 骨を目標として刺鍼する場合には、肉を傷ってはなりません。

 同様に筋を刺すには肉を、肉を刺すには脉を、脉を刺す場合には皮を、皮を刺すには肉を、肉を刺すには筋を、筋を刺すには骨をそれぞれ傷ってはならないのであります。

 帝が申された。余は未だその言わんとする所の意味がいまひとつよく分からない。

 願わくば、言わんとする所をさらに解いて頂きたいのであるが。

 岐伯が申された。

 骨を刺して筋を傷ること無かれと申しますのは、鍼が筋に至ったところで去ってしまい、骨に及ばないことを申します。

 同様にそれぞれ筋を目標に刺し肉には至ったところで去ってしまい筋に及ばず、

 肉を目標に刺し脉に至ったところで去ってしまい肉に及ばず、

 脉を目標に刺し皮に至ったところで去ってしまい脉に及ばない、ということであります。

 つまり、浅すぎるのであります。

 いわゆる、皮を刺して肉を傷ること無かれと申しますは、病邪が皮の表在部にあれば、鍼もまた浅く皮の部分を刺して肉を傷ってはならないのであります。

 また、肉を刺して筋を傷ること無かれと申しますは、病邪の存在する肉を過ぎて深刺しすると筋に中って障害してしまいます。

 同様に、筋を刺して骨を傷ること無かれと申しますは、病邪の存在する筋を過ぎて深刺しすると、骨に中って障害してしまいます。つまり深すぎるのであります。

 以上、謹んで鍼の深度を考慮せず刺鍼することを、道理に反すると申すのであります。





原文と読み下し

黄帝問曰.願聞刺淺深之分.

岐伯對曰.

刺骨者無傷筋.

刺筋者無傷肉.

刺肉者無傷脉.

刺脉者無傷皮.

刺皮者無傷肉.

刺肉者無傷筋.

刺筋者無傷骨.


黄帝問いて曰く。願わくが刺の淺深の分を聞かん。

岐伯對して曰く。

骨を刺す者は、筋を傷ること無かれ。

筋を刺す者は、肉を傷ること無かれ。

肉を刺す者は、脉を傷ること無かれ。

脉を刺す者は、皮を傷ること無かれ。

皮を刺す者は、肉を傷ること無かれ。

肉を刺す者は、筋を傷ること無かれ。

筋を刺す者は、骨を傷ること無かれ。


帝曰.余未知其所謂.願聞其解.

岐伯曰.

刺骨無傷筋者.鍼至筋而去.不及骨也.

刺筋無傷肉者.至肉而去.不及筋也.

刺肉無傷脉者.至脉而去.不及肉也.

刺脉無傷皮者.至皮而去.不及脉也.


帝曰く。余は未だ其の謂う所を知らず。願わくば其の解を聞かん。

岐伯曰く。

骨を刺して筋を傷ること無かれとは、鍼筋に至りて去れば、骨に及ばざるなり。

筋を刺して肉を傷ること無かれとは、肉に至りて去れば、筋に及ばざるなり。

肉を刺して脉を傷ること無かれとは、脉に至りて去れば、肉に及ばざるなり。

脉を刺して皮を傷ること無かれとは、皮に至りて去れば、脉に及ばざるなり。



所謂

刺皮無傷肉者.病在皮中.鍼入皮中.無傷肉也.

刺肉無傷筋者.過肉中筋也.

刺筋無傷骨者.過筋中骨也.此之謂反也.


所謂

皮を刺して肉を傷ること無かれとは、病皮中に在り、鍼皮中に入れば、肉を傷ること無きなり。

肉を刺して筋を傷ること無かれとは、肉を過れば筋に中るなり。

筋を刺して骨を傷ること無かれとは、筋を過れば骨に中るなり。此れ之を反と謂うなり。


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刺要論篇第五十.

梅雨と言えば紫陽花

 本篇は、刺鍼に際しての基本的な深度について述べられている。

 <素問・金匱真言論篇、宣明五気篇>に記されている五主(皮・肉・脉・筋・骨髄)を例に挙げて、どこを狙って針先を進めるのかを説いている。

 ちなみに、筆者は五主を目標に鍼を下すことは無い。

 それよりもむしろ、本篇を意訳したように、正邪抗争の場=病位と、生体の正気の状態と邪気の種類、その勢いを念頭にし、刺鍼後の深度は意識に無い。

 あるのは、瀉法であればいかにして邪気を捕まえるか、補法であればいかにして気を集めるか、のみである。

 だた刺鍼は、たとえ補法であっても生体を傷つけるので、「いかに浅く刺すか」「いかに数少なく刺すか」は、よくよく工夫が必要である。

 歴史的に禁鍼穴として禁忌の穴所があるが、いわゆる解剖学的な安全深度を意識しなくてもよい鍼法を目指すのが良いと筆者は考えている。

 諸氏は、如何。


原文意訳

黄帝が問うて申された。願わくば、刺法の要となることを聞きたいのであるが。

 それに対して、岐伯が申された。

 病には、浮沈。つまり正邪が争う病位がございます。従いまして刺法にも深浅がございまして、その時々において正邪の状態と病位を捉えて、浅すぎず深すぎず的確に刺すのであります。

 病位を過ぎますと、裏であります身体内部の気が傷れますし、及ばざれば身体の浅いところに鬱滞を生じますので、そこに反って邪が聚るようになります。

 病位をわきまえずに刺鍼しますと、良くしてあげようという気持ちで行ったとしても大きな害を与える大賊となってしまいます。そうなると五臓六腑の気は動じて正常に機能しなくなり、後々大病を生じてしまうのであります。

 ですから、以下のように言うのであります。

 病が毫毛・腠理に在るもの、皮膚に在るもの、肌肉に在るもの、脈に在るもの、筋に在るもの、骨に在るもの、髄に在るものがあります。

 このようでありますから、毫毛・腠理を刺す場合は皮を傷ってはなりませんし、皮を傷ってしまいますと肺の気が動じて秋に温瘧の病となり、ゾクゾクとして振るえるかのような悪寒症状が現れます。

 皮を刺す場合は、肉を傷ってはなりません。肉を傷ってしまいますと脾の気が動じ、四季の終わりの土用十二日間、合計七十二日に腹が脹満して煩悶する病が現れ、食欲もなくなります。

 肉を刺す場合は、脉を傷ってはなりません。脉を傷ってしまいますと心の気が動じ、夏になりますと心痛の病が現れます。

 脉を刺す場合は、筋を傷ってはなりません。筋を傷ってしまいますと肝の気が動じ、春になりますと熱を生じて筋がだらりと弛む病が現れます。

 筋を刺す場合は、骨を傷ってはなりません。骨を傷ってしまいますと腎のきが動じ、冬になりますと腹が脹り、腰痛がする病が現れます。

 骨を刺す場合は、髄を傷ってはなりません。髄を傷ってしまいますと次第に髄が溶け出して漏れてしまい、脛は重だるくなり、身体もまた重だるくて動けなくなる感覚が、いつまで経っても去らない病が現れます。




原文と読み下し

黄帝問曰.願聞刺要.
岐伯對曰.
病有浮沈.刺有淺深.各至其理.無過其道.
過之則内傷.不及則生外壅.壅則邪從之.
淺深不得.反爲大賊.内動五藏.後生大病.

黄帝問いて曰く。願わくば刺要を聞かん。
岐伯對して曰く。
病に浮沈有り、刺に淺深有り。各おの其の理に至りて、其の道を過ぐることなかれ。
これを過ぐれば則ち内傷り、及ばざれば則ち外に壅を生ず。壅すれば則ち邪これに從う。
淺深を得ざれば、反って大賊を爲し、内は五藏動じ、後に大病を生ず。



故曰.
病有在毫毛腠理者.
有在皮膚者.
有在肌肉者.
有在脉者.
有在筋者.
有在骨者.
有在髓者.


故に曰く。
病毫毛腠理に在る者有り。
皮膚に者在る者有り。
肌肉に者在る者有り。
脉に者在る者有り。
筋に者在る者有り。
骨に者在る者有り。
髓に者在る者有り。


是故刺毫毛腠理無傷皮.皮傷則内動肺.肺動.則秋病温瘧.泝泝然寒慄.
刺皮無傷肉.肉傷則内動脾.脾動.則七十二日四季之月.病腹脹煩.不嗜食.
刺肉無傷脉.脉傷則内動心.心動.則夏病心痛.
刺脉無傷筋.筋傷則内動肝.肝動.則春病熱而筋弛.
刺筋無傷骨.骨傷則内動腎.腎動.則冬病脹腰痛.
刺骨無傷髓.髓傷則銷鑠䯒酸.體解㑊然不去矣.


是の故に、毫毛腠理を刺すに皮を傷ることなかれ。皮傷るれば則ち内は肺を動ず。肺動ずれば則ち秋に温瘧を病み、泝泝(そそ)然として寒慄す。
皮を刺すに肉を傷ることなかれ。肉傷るれば則ち内は脾を動ず。脾動ずれば則ち七十二日四季の月、腹脹煩を病み、食を嗜なまず。
肉を刺して脉を傷ることなかれ。脉傷るれば則ち内は心動ず。心動ずれば則ち夏に心痛を病む。
脉を刺すに筋を傷ることなかれ。筋傷るれば則ち内は肝動ず。肝動ずれば則ち春に熱して筋弛むを病む。
筋を刺すに骨を傷ることなかれ。骨傷るれば則ち内は腎動ず。腎動ずれば則ち冬に脹腰痛を病む。
骨を刺すに髓を傷ることなかれ。髓傷るれば則ち銷鑠(しょうしゃく)して䯒(こう)酸し、體は解㑊(かいえき)然として去らざるなり。


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脉解篇第四十九.




 本篇の表題は「脉解」であるので、経脉の変動、つまり偏盛・偏衰した場合の病症について解説したものと理解される。

 
 ところが、経脉の変動が主たる原因ではなく、あくまで臓腑そのものが原因で、臓腑の状態が経脉に現れた状態を解説したものと捉えるのが正確だと考える。
 
 逆に、経絡だけが単体で変動するかのように捉えるのは、この医学が全体性を重視している視点からは、外れることになる。
 
 また六経の月の配当が他の諸篇とことなっているが、筆者の力量では、残念ながら正誤を判断するには至らない。
 
 ただ、天人合一思想を踏まえ、この篇に記載された自然界の気の盛衰と人体とを相関させ、想像力をたくましくして、具体的に人体の気の偏在をイメージできるように意訳を試みた。
 
 諸氏のご意見を、期待しております。





原 文 意 訳



 足太陽には腰が腫れて痛む病証がある。


  正月は太陽寅(いん)の月で、正月は陽気が上に生じ始める時期である。しかし、陰気はまだ盛んであるために、陽気は自ずと伸びやかになれないものである。

 このように、太陽の陽気が伸びやかになれず、内に鬱するので腰が腫れしかも痛むのである。

 身体の左右が偏って虚となり、びっことなる病証がある。
 
 正月は天の陽気が生じ始め、地気の凍りついているところを日の当たる西から融かし、西から地気の陽気が昇る。
 
 びっことなるのは、冬が寒く、正気がすこぶる不足し、偏った天の気に対応することが出来ないので偏枯してびっことなるのである。

 いわゆる上半身が強ばり背が引きつるのは、陽気が大いに昇り抜けて行かず鬱滞して争うために強ばり引きつるのである。

 いわゆる耳鳴りは、自然界の陽気が高まると気が昇って躍るかのように、人体の陽気も上部に昇り聚るために耳鳴りがするのである。

 いわゆる陽気が盛んに過ぎて狂躁や癲癇の疾を起こす者は、陽気がことごとく上部に集中し、陰気は下に集中して陰陽・上下が交流せず、上実下虚となっているからである。
 
 いわゆる気が上に浮けば聾となる者も、すべては陰陽の気の失調である。

 いわゆる陽気が中に入り言葉がスラスラでない瘖(いん)となるのは、盛んであった陽気が中に籠って張り出すことが出来ず、あたかもすでに正気が衰えたかのようになるためである。

 何らかの原因で、内の精気が奪すれば手足が冷えあがる厥となり、瘖となり手足の自由も利かなくなる。
 
 これは、腎虚のためであり、少陰の陽気が四肢に達しないので厥するのである。

 少陽のいわゆる心脇が痛むのは、少陽が盛んに過ぎたものが、心に表れたからである。
 
 九月は、天の陽気が尽きて陰気が盛んなので、少陽の気が鬱しやすく脇から腋下にその累が及ぶため心脇が痛むのである。

 いわゆる寝返りが出来ないのは、陰気が万物に収蔵して動かなくなるように、少陽の気が内に鬱するためである。

 いわゆる少陽の気が盛んに過ぎて躍るかのようになるのは、九月は万物がことごとく衰え、草木もまた枯れ落ちて、高いところから低いところに落ちて舞うかのごときに相関する。
 
 少陽の気が盛んであり、しかも万物が収斂して下に降りれば、人体の陽気もまた下って長じるので、まるで躍っているかのようになるのである。

 陽明のいわゆる水を浴びたかのように振寒する病証がある。
 
 陽明は正午であり一年では五月である。五月は陽気が盛んであると当時に陰気が生じてこれに加わるので、急に水を浴びたかのように振寒するのである。

 いわゆる脛が腫れ股を閉じることができないのも、五月になると盛んであった陽気が次第に衰え、一陰の気が昇って上部で陽気と争い始め、下に陽気が降りなくなるので脛が腫れて股を閉じることができなくなったからである。

 いわゆる上部では喘ぎと水飲の邪を生じることがある。
 
 陰気は本来下に降るのである。ところが昇りっぱなしとなると陰気は臓腑の間に停滞して水飲の邪となり、肺気に迫るので喘ぐのである。

 いわゆる胸痛して呼吸が浅く息切れするのは、水飲の邪が臓腑に在り、肺気に迫るためである。

 いわゆる甚だしいと手足が冷えあがる厥となり、人と火を嫌い、木を打つかん高い音を聞くと驚いて動揺するのは、陰陽・上下・水火の気が互いに迫って緊張して交わらないためである。

 いわゆる部屋の戸や窓を閉め切ってひとりで居たがるのは、陰陽の気が迫り緊張していたのが、陽気が尽きてしまい、陰気が盛んとなり、陰陽が消長しないためである。

 いわゆる発作的に高いところに登って歌ったり衣服を脱ぎ捨てて走り出すのは、陰陽・内外の気が交流せず、大きく外に偏って熱を生じたためである。

 いわゆる邪が孫絡に侵入すると、頭痛・鼻詰まりを起こし、お腹まで腫れることがある。
 
 陽明の気は、顔面に結集しているので頭痛・鼻詰まりを起こすのであるが、孫絡で太陰と繋がっているので腹まで腫れるのである。

 太陰の諸症で、いわゆる脹を病むのは、太陰は子(ね)の月である十一月に相当し、万物は全て内部に蔵される時期であるためである。

 いわゆる心に上走して噫(い=おくび)となるのは、陰が盛んであるため胃の気が下ることが出来ず、心に属している陽明の絡脉を逆走するからである。

 いわゆる物を食して吐き気がするのは、すでに脾胃に物がいっぱいである所にさらに食したため、胃気が下ることが出来ず、上に溢れるようになったからである。

 いわゆる快便と放屁があると、すっきりとして心地よくなるのは、十二月ともなると陰気が衰え陽気が生じ始める時に相当するので、濁氣を排泄すると陽気が通じて軽快になるからである。

 いわゆる少陰が腰痛の原因となるのは、十一月は万物の陽気が全て敗れてしまうからである。ちなみに、少陰とは腎のことである。

 いわゆる吐き気がして咳をし、上気して喘ぐのは、陰気は下に在り、陽気は上に在るために、諸陽の気もまた浮いてしまい、依り従う根となるところを失ってしまったからである。

 いわゆる、居ても立ってもいられないような精神不安の状態で、長く立ったり坐ったり出来ず、起き上がると目の前がぼんやりとして物がはっきりと見えないという症状がある。
 
 それはあたかも秋気が至り始め、微かに霜が下り始めると、まさに万物はこの粛殺の気を受けて枯れ始めることに相関する。
 
 つまり陰陽の気が内から奪し、陰陽の気が定まらなくなるので上記の症状が現れるのである。

 いわゆる呼吸が微弱で息切れしやすい少気であるにもかかわらずよく怒るのは、秋気の収斂の気により、陽気が伸びやかに外に張り出すことが出来ないためである。
 
 陽気、とりわけ肝気が内に鬱して治まらないために、少気が現れるがこれは実であり、しかも怒気によって上から陽気を発しようとするのでよく怒るのである。これを煎厥というのである。

 いわゆる今にも人に捕えられるかのように恐れるのは、秋の粛殺の気が完全に万物の陽気を奪い去り切れていあにからである。
 陰気はまだ少なくてもこれから次第に盛んになり、、段々と滅ぼされる陽気は追われて内に入ろうとし、陰気が陽気を段々と追い込んでいくので、恐れるようになるのである。

 いわゆる食臭を嗅ぐのを嫌がるのは、胃の気が無くなり、鬱して熱を生じているために、陽の気である臭気を嫌がるのである。

 いわゆる顔色が大地のように黒くなるのは、秋の粛殺の気が陽気を奪い大地に返そうとするので、陰気である大地の色と変化するのである。

 いわゆる咳をして出血するのは、陽脉が傷れたためである。
 
 陽気が上部に盛んでないのに脉だけが満ちているのは、陰裏に陽気が鬱しており、その鬱した陽気の勢いが強ければ上に衝き上げて咳となり、脉を破って鼻から出血するからである。

 いわゆる厥陰による㿗疝=陰嚢腫大と婦人の少腹が腫れる病がある。
 
 厥陰は辰(しん)で三月に当る。
 
 この三月は少陽の気が発し始める陽中の陰の時期であり、冬の閉蔵によって既に生じている邪はまだ内部に潜んでいる。
 
 それが少陽の気の動きと同時に動き出すので、このような病を生じるのである。

 いわゆる腰脊が痛んでうつ伏せになったり仰向けになることも出来なくなる病証がある。
 
 これは三月発陳の気が盛んとなると万物は次第に花咲き栄えるが、何らかのことで一度枯れ萎(しお)れると再び伸びることが出来ないことに相関する。

 いわゆる㿗・癃・疝(陰嚢腫大や尿閉)、皮膚が脹れるのは、陰邪が盛んに過ぎて脈道を塞ぎ、鬱滞して通じなくなるためである。

 いわゆる甚だしいと喉が渇き、熱が体内に留まる熱中となることがあるが、これは少陽の気が伸びやかになれないために、陰陽の気もまた内に鬱して熱化するからである。




原文と読み下し
 


太陽所謂腫腰月隹者.正月太陽寅.寅太陽也.正月陽氣出在上.而陰氣盛.陽未得自次也.故腫腰

月隹痛也.

病偏虚爲跛者.正月陽氣凍解地氣而出也.所謂偏虚者.冬寒頗有不足者.故偏虚爲跛也.

所謂強上引背者.陽氣大上而爭.故強上也.

所謂耳鳴者.陽氣萬物盛上而躍.故耳鳴也.

所謂甚則狂巓疾者.陽盡在上.而陰氣從下.下虚上實.故狂巓疾也.所謂浮爲聾者.皆在氣也.

所謂入中爲瘖者.陽盛已衰.故爲瘖也.

内奪而厥.則爲瘖俳.此腎虚也.

少陰不至者.厥也.


太陽に所謂腰腫れ月隹(すい)痛むとは、正月は太陽寅、寅は太陽なり。正月は陽氣出で上に在りて陰氣盛ん。陽は未だ自ずと次いでするを得ざるなり。故に腰腫れ月隹痛むなり。
病偏虚して跛を爲す者は、正月に陽氣、地氣を凍解して出づるなり。所謂偏虚なる者は、冬の寒に頗る不足有る者なり。故に偏虚して跛を爲すなり。
所謂上に強りて背に引く者は、陽氣大いに上りて爭す。故に上に強ばるなり。
所謂耳鳴る者は、陽氣萬物上に盛んにして躍(おど)る。故に耳鳴るなり。
所謂甚だしければ則ち狂巓疾する者は、陽盡(ことごと)く上に在りて、陰氣は下に從う。下虚して上實す。故に狂巓疾なり。所謂浮(うか)みて聾を爲す者は、皆氣に在るなり。
所謂中に入り瘖を爲す者は、陽盛んにして已に衰う。故に瘖を爲すなり。
内奪して厥すれば、則ち瘖俳を爲す。此れ腎虚するなり。
少陰至らざる者は、厥するなり。


少陽所謂心脇痛者.言少陽盛也.盛者心之所表也.九月陽氣盡.而陰氣盛.故心脇痛也.

所謂不可反側者.陰氣藏物也.物藏則不動.故不可反側也.

所謂甚則躍者.九月萬物盡衰.草木畢落而墮.則氣去陽而之陰.氣盛而陽之下長.故謂躍.


少陽に所謂心脇痛むとは、少陽盛んと言うなり。盛んなる者は心の表する所なり。九月陽氣盡(つ)きて、陰氣盛ん。故に心脇痛むなり。
所謂反側すべからざる者は、陰氣物に藏す。物に藏さば則ち動せず。故に反側すべからざるなり。
所謂甚だしければ則ち躍る者は、九月萬物盡く衰え、草木畢(ことごと)く落ちて墮(おつ)れば則ち
 
氣陽を去りて陰に之(ゆ)く。氣盛んにして陽下に之きて長ず。故に躍ると謂う。


陽明所謂洒洒振寒者.陽明者午也.五月盛陽之陰也.陽盛而陰氣加之.故洒洒振寒也.

所謂脛腫而股不收者.是五月盛陽之陰也.陽者衰於五月.而一陰氣上.與陽始爭.

故脛腫而股不收也.

所謂上喘而爲水者.陰氣下而復上.上則邪客於藏府間.故爲水也.

所謂胸痛少氣者.水氣在藏府也.水者陰氣也.陰氣在中.故胸痛少氣也.

所謂甚則厥.惡人與火.聞木音則愓然而驚者.陽氣與陰氣相薄.水火相惡.故愓然而驚也.

所謂欲獨閉戸牖而處者.陰陽相薄也.陽盡而陰盛.故欲獨閉戸牖而居.

所謂病至則欲乘高而歌.棄衣而走者.陰陽復爭.而外并於陽.故使之棄衣而走也.

所謂客孫脉.則頭痛鼻鼽腹腫者.陽明并於上.上者則其孫絡太陰也.故頭痛鼻鼽腹腫也.


陽明の所謂洒洒(さいさい)として振寒するとは、陽明は午なり。五月は盛陽の陰に之くなり。陽盛んにして陰氣これに加う。故に洒洒として振寒するなり。
所謂脛腫れて股收(おさ)めずとは、是れ五月盛陽の陰に之なり。陽は五月に衰え、しかして一陰の氣上り、陽と始めて爭う。故に脛腫れて股收まらざるなり。
所謂上に喘して水を爲すとは、陰氣下りて復(ま)た上る。上れば則ち邪は藏府間に客す。故に水を爲すなり。
所謂胸痛み少氣するは、水氣は藏府に在るなり。水は陰氣なり。陰氣中に在り。故に胸痛みて少氣するなり。
所謂甚だしければ則ち厥し、人と脾を惡む。木音を聞けば則ち惕然として驚するは、陽氣と陰氣相い薄(せま)り、水火相い惡む。故に惕然として驚するなり。
所謂獨り戸牖(ゆう)を閉じて處せんと欲するは、陰陽相い薄るなり。陽盡きて陰盛ん。故に獨り戸牖を閉じて居さんと欲す。
所謂病至れば則ち高きに乘りて歌い、衣を棄てて走らんと欲する者は、陰陽復た爭いて、外は陽に并す。故にこれをして衣を棄てて走らんと欲するなり。
所謂孫脉に客すれば則ち頭痛し鼻鼽し腹腫れるは、陽明上に并す。上は則ち其の孫絡は太陰なり。故に頭痛し鼻鼽し、腹腫れるなり。


太陰所謂病脹者.太陰子也.十一月萬物氣皆藏於中.故曰病脹.

所謂上走心爲噫者.陰盛而上走於陽明.陽明絡屬心.故曰上走心爲噫也.

所謂食則嘔者.物盛滿而上溢.故嘔也.

所謂得後與氣.則快然如衰者.十二月陰氣下衰.而陽氣且出.故曰得後與氣.則快然如衰也.


太陰の所謂脹を病むとは、太陰は子なり。十一月は萬物の氣皆中に藏す。故に脹を病むと曰く。

所謂上りて心に走りて噫を爲すとは、陰盛んにして上りて陽明に走る。陽明の絡は心に屬す。故に上に走りて噫を爲すと曰く。

所謂食すれば則ち嘔するとは、物盛滿して上に溢る。故に嘔するなり。

所謂後と氣を得れば則ち快然として衰うが如きは、十二月は陰氣下に衰え、陽氣且(まさ)に出ず。故に後と氣を得れば則ち快然として衰うが如しと曰く。



少陰所謂腰痛者.少陰者腎也.十月萬物陽氣皆傷.故腰痛也.

所謂嘔欬上氣喘者.陰氣在下.陽氣在上.諸陽氣浮.無所依從.故嘔上氣喘也.

所謂色色不能久立久坐.起則目 無所見者.萬物陰陽不定.未有主也.秋氣始至.微霜始下.而方殺萬物.陰陽内奪.故目 無所見也.

所謂少氣善怒者.陽氣不治.陽氣不治.則陽氣不得出.肝氣當治而未得.故善怒.善怒者.名曰煎厥.

所謂恐如人將捕之者.秋氣萬物未有畢去.陰氣少.陽氣入.陰陽相薄.故恐也.

所謂惡聞食臭者.胃無氣.故惡聞食臭也.

所謂面黒如地色者.秋氣内奪.故變於色也.

所謂欬則有血者.陽脉傷也.陽氣未盛於上.而脉滿.滿則欬.故血見於鼻也.


※色色 甲乙経 類経 に従い邑邑として意訳する

少陰の所謂腰痛するは、少陰は腎なり。十月は萬物の陽氣は皆傷る。故に腰痛するなり。

所謂嘔欬し上氣して喘ぐは、陰氣下に在り、陽氣上に在り、諸陽の氣は浮いて、依り從う所無し。故に嘔欬し上氣して喘ぐなり。

所謂色色として、久しく立ち久しく坐ずること能わず。起きれば則ち目 として見るところ無きは、萬物の陰陽定まらずして、未だ主有らざるなり。秋氣始ねて至り、微しく霜始めて下る。しかして方に萬物を殺し、陰陽内に奪す。故に目 として見る所無きなり。

所謂少氣し善く怒るは、陽氣治まらず。陽氣治まらざれば、則ち陽氣出るを得ず。肝氣當に治まるべくして未だ得ず。故に善く怒る。善く怒る者は、名づけて煎厥と曰く。

所謂恐れること人の將にこれを捕えんとするが如き者は、秋氣は萬物未だ畢(ことごと)く去ること有らず。陰氣少なく、陽氣入り、陰陽相薄る。故に恐するなり。

所謂食臭を聞きて惡む者は、胃に氣無し。故に食臭を聞きて惡むなり。

所謂面の黒きこと地の色の如き者は、秋氣内に奪す。故に色變ずるなり。

所謂欬すれば則ち血有る者は、陽脉傷れるなり。陽氣未だ上に盛んならずして脉滿つ。滿つれば則ち欬す。故に血鼻に見るなり。



厥陰所謂㿗疝.婦人少腹腫者.厥陰者辰也.三月陽中之陰.邪在中.故曰疝少腹腫也.

所謂腰脊痛不可以俛仰者.三月一振榮華.萬物一俛而不仰也.

所謂㿗癃疝膚脹者.曰陰亦盛.而脉脹不通.故曰㿗癃疝也.

所謂甚則嗌乾熱中者.陰陽相薄而熱.故嗌乾也.

厥陰の所謂㿗疝(たいせん)し、婦人少腹腫れるは、厥陰は辰なり。三月は陽中の陰、邪は中に在り。故に㿗疝少腹腫れると曰くなり。

所謂腰脊痛みて以て俛仰(ふぎょう)すべからずとは、三月一たび振いて萬物を榮華するも、一たび俛して仰せざるなり。

所謂㿗癃(たいりゅう)疝して膚脹れるとは、陰も亦た盛んにして、脉脹りて通ぜざるを曰うなり。故に㿗癃疝と曰うなり。

所謂甚だしければ則ち嗌乾きて熱中するとは、陰陽相薄りて熱す。故に嗌乾くなり。
 
 
 鍼専門 いおり鍼灸院




大奇論篇第四十八.


冬と緑と赤
本篇では、脉証から病証を論じているが、気血の盛衰と病邪の位置を連想しながら読み進めても、判然としないところが多々ある。

 ここで記されている脉証は、多分に主観的なものであるが、本来言葉で伝えることのできないものを、何とか伝えようとしている古人の思いが伝わってくるようであった。

 人の生くべき者か死すべき者かを判断し、生きるべきものを生かすことは、至難の業である。

 冒頭に記されている肝滿、腎滿、肺滿とは、すべて気滞を起こしている状態である。

 推測される病因は、外邪、飲食の不節、七情内鬱が考えられる。

 これ以外に、一体何を推測することが出来ようか。

 先ずは陰陽を分かち、さらに陰中の陰陽、陽中の陰陽へと分け入ると、次第に見えてくる。

 筆者は、そのように考えている。



原 文 意 訳

 何らかの原因で、肝滿、腎滿、肺滿となり、それぞれの臓気が鬱滞いたしますと、腫を生じます。

 肺気が塞がりますと、喘ぐようになり左右の腋下が満となります。

 肝気が塞がりますと、左右の腋下が満となり、寝ようとしても気が高ぶったかのようになり、ちょっとしたことでハッと驚くようになり、小便も出なくなります。

 腎気が塞がりますと、足元から少腹にかけて浮腫が生じ、左右の脛は偏って浮腫み、股から下はびっこを引き、半身不遂のようになりやすくなります。

 心脉が満で大であれば、意識障害を起こして引きつけ、筋肉も痙攣する。

 肝脉が小で急であれば、同じく意識障害を起こして引きつけ、筋肉も痙攣する。

 肝脉がにわかに大きく乱れるのは、驚くようなことがあったからであり、反って脉が触れ難く、言語が出なくなる者は、脉が出てくれば自然と治るものである。

 腎脉、肝脉、心脉共に小で急であり、時として拍動を触知できないのは、腹部に邪実となるものがあり、腫瘍である瘕を生じる。

 肝と腎の脉がともに沈であるのは、身体下部に気が落ち込んで水が停滞し、浮腫を起こす石水となります。


 また共に浮でありますと、身体上部に気が昇って水が停滞し、浮腫みを起こす風水となります。

 さらに、共に虚でありますと、死に至り、共に小で弦でありますと、ちょっとしたことで驚くようになります。

 腎脉と肝脉が共に大で急沈であれば、生殖器が腫れ痛む疝となる。

 心脉が、滑で急を拍てば、心疝となり、肺脉が沈を拍つと肺疝となる。

 三陽が急であれば、腹中にしこりを生じる瘕となり、三陰が急であれば、腹部が痛む疝となり、二陰が急であれば、意識障害を起こす癎厥となり、二陰が急であれば、ハッとして驚きやすくなる。

 脾脉が沈んでいながら外に張り出すように拍つのは、痢疾であるである腸辟で、外に出ようとするものが出ている姿であるから、痢疾が久しくても自然と治まるのである。

 肝脉が小で緩であれば、これもまた腸壁であるが、邪がある程度出ている姿であるので、治りやすいのである。

 腎脉が小で沈を拍っていれば、腸辟でしかも下血し、出血が温かく感じさらに身体が熱するものは、下血が止まらずに死します。

 心肝による腸辟もまた、下血しますが、二臓が同時に病む者は治療すべきであります。しかし脉が小で沈濇で、身体が熱するものは死します。熱が現れて七日で死するものです。

 胃脉が沈で濇を拍ち、胃部が外に張り出すように大となり、心脉が小で堅く急であれば、すべて半身不遂となる偏枯となります。


 男子は左に発し、女子は右に発します。

 言葉を発することが出来て舌も回るようであれば、30日で起きることが出来、男子左、女子右に偏枯を発する順証であり、言葉を発することができないものでも三年で起きることができるようになります。しかし20歳未満のものは、3年で死します。

 脉が勢いよく拍ち、鼻から出血して身体が熱する者は、死します。このような場合、脉の去来は浮いて空中に宙ぶらりんな感じがするものであります。

 脉の去来が喘ぐようなものを、暴厥と申します。暴厥と申しますは、相手も言うことも分からなくなる、意識障害のことであります。

 脉の去来が数のようであれば、少しのことでもにわかに驚くようになりますが、三四日もすれば自然に治まります。

 脉の去来が浮いて押し寄せてくる数のような感覚で、一息十至以上であるものは、経気が不足した虚であり、わずかにでもこの脉を見れば、九、十日で死す。

 脉の去来が、木片が火で燃えるかのように盛んで揺らめくように安定しないのは、すでに心の精気が奪しており、草が乾いて枯れる季節に死す。

 脉の去来が、木の葉が散じるかのように無力で頼りないのは、すでに肝の精気の虚であり、木の葉が落ちる季節に死す。

 脉の去来が、訪問客のように起伏するのは、脉が塞がって鼓するのである。これはすでに腎気が不足しており、棗の花が落ちる季節に死す。

 脉の去来が、泥丸のように滑らかでないのは、胃の精気がすでに不足しており、楡の莢(さや)がはじけて落ちる季節に死す。

 脉の去来が、長くて堅く感じるのは、すでに胆気が不足しており、稲が熟するころに死す。

 脉の去来が、弦で細い糸のように感じるのは、すでに膀胱腑の精気が不足しており、病んでよく話すようであれば、霜の降りる頃に死すが、そうでなければ治すことができる。

 脉の去来が、漆が交わるように左右に振れて一定しないものは、わずかでもこの脉を見たならば三十日で死す。

 脉の去来が、涌泉のように浮き上がって肌中で鼓する感じのものは、すでに太陽の経気が不足しており、食物の気味が薄く感じるようであれば、韮の花が咲く季節に死す。

 脉の去来が、土が崩れるかのようであり、これを按じても脉を得ることできないのは、すでに肌気が不足しており、五色の内、先ず黒が現れていれば、葛の若葉が芽吹く季節に死す。

 脉の去来が、ぶらりとした口蓋垂のようであり、浮にして少し押さえれば益々大となるのは、すでに十二経脉の兪穴が不足しており、水が凍る季節に死す。

 脉の去来が、刀の刃のようであり、これを浮にして小急、按じて堅く大にして急であるのは、五藏の積熱で、ひとり腎だけに寒熱が併せ籠っているからである。このような人は、座ることもできず、立春の時に死す。

 脉の去来が、丸のようで滑でありながら捉えどころが無く、これを按じてみても脉を得ることができないのは、すでに大腸の気が不足しており、棗の葉が芽生え始める季節に死す。

 脉の去来が、華のように軽く柔らかいものは、ビクビクとしてよく恐れ、座ったり寝たりすることを好まず、立ち行きて常に聞き耳を立てている。これはすでに小腸の気が不足しており、秋の季節に死す。




原文と読み下し



肝滿.腎滿.肺滿.皆實即爲腫.

肺之雍.喘而兩胠滿.

肝雍.兩胠滿.臥則驚.不得小便.

腎雍.脚下至少腹滿.脛有大小.髀䯒大.跛易偏枯.


肝滿、腎滿、肺滿、皆實すれば即ち腫を為す。

肺の雍は、喘して兩胠滿す。

肝の雍は、兩胠滿し、臥すれば則ち驚し、小便を得ず。

腎の雍は、脚下より少腹に至りて滿し、脛に大小有り。髀䯒大いに跛(は)して偏枯し易し。



心脉滿大.癇瘛筋攣.

肝脉小急.癇瘛筋攣.

肝脉騖暴.有所驚駭.脉不至.若瘖.不治自已.


心脉滿大なるは、癇瘛(かんせい)して筋攣す。

肝脉小急なるは、癇瘛して筋攣す。

肝脉騖暴(ぶぼう)するは、驚駭する所有り、脉至らず、若し瘖するは、治せずして自ら已む。



腎脉小急.肝脉小急.心脉小急不鼓.皆爲瘕.

腎脉小急、肝脉小急、心脉小急にして鼓せざるは、皆瘕と爲す。



腎肝并沈.爲石水.

并浮.爲風水.

并虚.爲死.

并小絃.欲驚.


腎肝并(あわ)せて沈なるは、石水と爲す

并せて浮なるは、風水と爲す。

并せて虚なるは、死と爲す。

并せて小絃なるは、驚せんと欲す。



腎脉大急沈.肝脉大急沈.皆爲疝.

心脉搏滑急.爲心疝.

肺脉沈搏.爲肺疝.


腎脉大にして急沈、肝脉大にして急沈なるは、皆疝となす。

心脉搏(う)つこと滑急なるは、心疝と爲す。

肺脉沈搏(はく)なるは、肺疝と爲す。



三陽急.爲瘕.

三陰急.爲疝.

二陰急.爲癇厥.

二陽急.爲驚.


三陽急なるは、瘕と爲す。.

三陰急なるは、疝と爲す。

二陰急なるは、癇厥と爲す。

二陽急なるは、驚と爲す。



脾脉外鼓沈.爲腸澼.久自已.

肝脉小緩.爲腸澼.易治.

腎脉小搏沈.爲腸澼下血.血温身熱者死.

心肝澼.亦下血.二藏同病者可治.其脉小沈濇.爲腸澼.其身熱者死.熱見七日死.


脾脉外に鼓して沈なるは、腸澼と爲す。久しくとも自ら已む。

肝脉小緩なるは、腸澼と爲す。治し易し。

腎脉小にして搏沈なるは、腸澼下血と爲す。血温し身熱する者は死す。

心肝澼するも、亦た下血す。二藏同じく病む者は治すべし。其の脉小にして沈濇なるは、腸澼と爲す。其の身熱する者は死す。熱見(あら)われて七日にして死す。



胃脉沈鼓濇.胃外鼓大.心脉小堅急.皆※爲(鬲)偏枯.男子發左.女子發右.不瘖舌轉.可治.三十日起.其從者瘖.三歳起.年不滿二十者.三歳死.


胃の脉沈にして濇を鼓す。胃外に鼓して大、心脉小堅にして急なるは、皆偏枯を爲す。男子は左に發し、女子は右に發す。瘖せずして舌轉ずるは、治すべし。三十日にして起つ。其の從なる者は瘖すること三歳なるも起つ。年二十に滿たざる者は、三歳にして死す。



※鬲を爲に改める



脉至而搏.血衄身熱者死.脉來懸鉤浮.爲常脉.

脉至如喘.名曰暴厥.

暴厥者.不知與人言.

脉至如數.使人暴驚.三四日自已.


脉至りて搏ち、血衄し身熱する者は死す。脉の來たること懸鉤にして浮なるは、常脉と爲す。

脉の至るや喘の如きは、名づけて暴厥と曰く。

暴厥なる者は、人と言うを知らず。

脉の至るや數の如きは、人をして暴驚せしむ。三四日にして自ずから已ゆ。



脉至浮合.浮合如數.一息十至以上.是經氣予不足也.微見.九十日死.

脉至如火薪然.是心精之予奪也.草乾而死.

脉至如散葉.是肝氣予虚也.木葉落而死.

脉至如省客.省客者.脉塞而鼓.是腎氣予不足也.懸去棗華而死.

脉至如丸泥.是胃精予不足也.楡莢落而死.

脉至如横格.是膽氣予不足也.禾熟而死.

脉至如弦縷.是胞精予不足也.病善言.下霜而死.不言可治.

脉至如交漆.交漆者.左右傍至也.微見.三十日死.

脉至如涌泉.浮鼓肌中.太陽氣予不足也.少氣味.韭英而死.

脉至如頽土之状.按之不得.是肌氣予不足也.五色先見.黒白壘發死.

脉至如懸雍.懸雍者.浮揣切之益大.是十二兪之予不足也.水凝而死.

脉至如偃刀.偃刀者.浮之小急.按之堅大急.五藏菀熟.寒熱獨并於腎也.如此.其人不得坐.立春而死.

脉至如丸.滑不直手.不直手者.按之不可得也.是大腸氣予不足也.棗葉生而死.

脉至如華者.令人善恐.不欲坐臥.行立常聽.是小腸氣予不足也.季秋而死.


脉の至るや浮合。浮合は數の如し。一息に十至以上。是れ經氣不足に予(くみ)するなり。微しく見われるは、九十日にして死す。

脉の至るや火の薪を然(も)えるが如きは、是れ心精の奪に与するなり。草乾きて死す。

脉の至るや散葉の如きは、是れ肝氣虚に与する也。木の葉落ちて死す。

脉の至るや省客の如し。省客なる者は、脉塞がりて鼓す。是れ腎氣の不足に予するなり。棗華(そうか)を懸去而して死す。

脉の至るや丸泥の如きは、是れ胃精の不足に予するなり。楡莢(ゆきょう)落ちて死す。

脉の至るや横格の如きは、是れ膽氣の不足に予するなり。禾(いね)熟して死す。

脉の至るや弦縷(げんる)の如きは、是れ胞精不足に予するなり。病みて善く言う。霜下りて死す。言わざるは治すべし。

脉の至るや交漆の如し。交漆なる者は、左右傍(かた)より至るなり。微しく見われれば、三十日にして死す。

脉の至るや涌泉の如く、肌中に浮鼓するは、太陽の氣不足に予するなり。氣味少なく、韭の英(はなさき)て死す。

脉の至るや頽土の状の如く、これを按じて得ざるは、是れ肌氣の不足に与するなり。五色先ず黒を見わし白壘(はくるい)を發して死す。

脉の至るや懸雍(けんよう)の如し。懸雍なる者は、浮にしてこれを揣切(しせつ)して益ます大。是れ十二兪の不足に予するなり。水凝りて死す。

脉の至るや偃刀の如し。偃刀なる者は、これを浮べて小急。これを按じて堅にして大急。五藏菀熟(えんじゅく)し、寒熱獨り腎に并(あわ)すなり。此の如きは、其の人坐するを得ざるなり。立春にして死す。

脉の至るや丸の如く、滑にして手に直(あた)らず、手に直らざる者は、これを按じて得べからざるなり。是れ大腸の氣不足に予するなり。棗葉生じて死す。

脉の至るや華の如き者は、人をして善く恐れ、坐臥を欲せざらしむる。行立して常に聽く。是れ小腸の氣不足に予するなり。季秋にして死す。


 鍼専門 いおり鍼灸院

奇病論篇第四十七.




やさしい色

 奇病とは、四季に関連なく生じる病のことである。

 本文中の胞とは、本来袋の意味で用いられており、内経では時に膀胱腑であったり子宮胞を指している。

 さらに本文中の「胞脈」が何を指しているのかは、長年の疑問であった。心の絡脉であると理解してなんら差支え無いと考える。

 さらに別段それに触れているところがないのを斟酌すれば、「胞脈」とは任脈であると考えればすっきりとする。

 長年外に疑問を持ち続けていても、案外足もとで答えの落ちが着くこともあるのだと、少し苦笑している。

 本文の意訳に際しては、例によって歴代の医家の注釈は、あまり取らなかった。

 その代わり、内経以後培われてきた疾病の病理を意識し、筆者なりの臨床経験からイメージされることを交えた。

 先天性の癲癎の病理を改めて読むと、先天的なものは、母体の腎精を乱さないことこそが最も重要である。

 そのためには、妊婦は心神が穏やかである環境こそが、最大の「医者いらず」であることを再確認することとなった。


 また、口の中が甘く感じたり、時に苦く感じる経験をお持ちの方も多いだろうと、ひとり思っている。

 ちなみに口中の甘味は飲食に、苦味は精神的なものが原因となる点を観察した個人の観察眼には、やはり深い敬意を感じる。

 読者諸氏は、いかん。



原 文 意 訳

 黄帝が問うて申された。
 妊娠九か月で、突然声が出なくなり、話すことができなくなるのは、何のためであるのか。
 
 岐伯が申された。
 胞の絡脉が絶するからであります。
 
 帝が申された。
 何を根拠にそのように申すのか。

 岐伯が申された。
 胞絡と申しますは、腎につながっておりまして、少陰の脉は腎を貫いて舌本に繋がっております。ですので、話すことができなくなるのであります。

 帝が申された。
 これを治するには、どのようにすればよいのか。

 岐伯が申された。
 治す必要はありません。十月になれば、自然に回復いたします。

 刺法に、不足をさらに損ない、有余をさらに益し、全身的な病にしてしまい、その後にそれを調えるようであってはならないと述べられております。

 いわゆる不足を損ねてはならないというのは、身体がひどくやつれているものに、を用いて治療してはならないという意味であります。

 また有余を益してはならないというのは、腹中に有形の胎児を流産させることになります。

 流産いたしますと、精気は出てしまい、病となって腹中に、ひとり邪気がほしいままにはびこるようになります。このようにして全身的な病となってしまうからであります。



 帝が申された。
 脇の下がいっぱいになり、気逆して二、三年も治らない病があるが、これは何病であるのか。

 岐伯が申された。
 その病の名は、息積と申します。

 この病は、何を食べても差支えありませんが、鍼灸はよろしくありません。導引、服薬を何度も積み重ねます。薬だけでは、治すことが出来ません。



 帝が申された。
 身体の大腿部、股関節、下腿部の全てが腫れ、臍の周囲が痛むのは、これは何病であるのか。

 岐伯が申された。
 その病の名は、伏梁と申します。これは、風根でありまして、風邪が肺の腑であります大腸に溢れ、身体の胸元の深部に着いてしまいます。

 肺の源は、臍下の腎に在り、大腸の募穴である天枢穴は臍周に在ります。

 従いまして、天蓋であります肺の気と地気であります腎の気は、臍周で引き合い、気滞を起こしますので臍の周囲が痛むのであります。

 ですから痛んでいる臍周をみだりに動じさせてはなりません。これを動じさせますと、天地・上下が不通になり、水気病となって腫れを生じたり、小便の出が渋る病となってしまうからであります。



 帝が申された。
 人の尺中の脉が数で甚だしく、しかも筋が引きつれを現すのは、これは何病であるのか。

 岐伯が申された。
 これはいわゆる疹筋と申しまして、全身の筋が病んでいるのであります。

 このような人の腹もまた、必ず引きつっているものであります。顔の気色に、白と黒の色がはっきりと現れていりますと、病は重篤であります。



 帝が申された。
 頭痛を病んで数年も経つというのに、一向に治らないのは、どうしてこのようにしてなったからであろう。また、これは何病であるのか。

 岐伯が申された。
 これは厳しい寒気に犯された為でありまして、その寒気が深く骨髄にまで侵入したからであります。

 髄と申しますは、脳がその主でありますので、髄から脳に寒邪が上逆いたしますと、頭痛となり、歯もまた痛むのであります。このような病を、厥逆と申します。

 帝が申された。
 なるほど、よく分かった。



 帝が申された。
 ところで、口の中が甘く感じる病があるが、病名は何であるのか。さらにどのしてこのような病になるのであろうか。

 岐伯が申された。
 これは五味の気が盛んになりすぎ、溢れたためであります。これを脾(ひたん)と申します。

 五味が口に入り胃に納まりますと、脾の精気は盛んとなりまして精気を全身に行らすことがことができます。

 胃の津液は、元々脾にありますので、脾気の状態が口内の味覚に現れ、脾に熱がありますと甘く感じさせるのであります。

 このように口内が甘く感じますのは、濃厚な美食が過ぎたことによるものであります。

 このような人は、度々甘美な食事を摂っていますので、肥え太った者が多いのであります。

 肥え太る者は、身体内部に熱を生じさせます。

 しかも甘い物は、腹中の気を停滞させますので、太鼓腹のように満ちております。

 このようにして、中気であります熱をもった脾気が上部に昇って参りますので、口内が甘く感じるだけでなく、やがて内熱のために激しく口が渇き、水を飲めばそのまま小便に出てしまう消渇となるのであります。

 これを治しますには、蘭草を用いまして、腹中に溜まって古くなった気を取り除くのであります。


 帝が申された。
 では、口の中が苦く感じる病があり、陽陵泉穴を取っても治らないのは、何という病名で、どのようにしてなったのであるか。

 岐伯が申された。
 病名は、と申します。

 肝と申しますは、将軍の官でありまして、左右・上下を決する働きは、胆が執り行います。ゴクリとものを飲み込む食道は、その胆の使いであります。

 今、口が苦いと感じる人は、度々謀慮しながら、しかも中々決断することが出来ずに悩んでおるものであります。

 そうしますと次第に胆汁が上に溢れてまいりまして、胆は虚し、しかも口内に苦味を感じるようになって来るのであります。

 これを治するには、胆の募穴もしくは兪穴を取って治すのでありますが、詳細は「陰陽十二官相使(亡失)」の中にございます。



 帝が申された。
 尿が全く出なくなる「閉」という病で、一日に数十回も尿意を感じながら尿が全く出ないのは、単に不足の現象である。

 また身体が炭のように熱し、首と胸が隔てられたかのように閉塞し、人迎の脉は盛んでバタバタと騒がしい感じがし、息はあえぐばかりでなく、気逆して降りないのは、有余の現象である。

 手太陰の脉である寸口の脉が、髪の毛のように微細であるのは、これは不足の現象である。

 この病の目付どころはいったいどこにあるのか。また病名は何であるのか。

 岐伯が申された。
 病は、太陰の肺に在ります。その熱が盛んである所は胃で、その偏在は肺にあります。

 病名は、厥と申します。これは胃の気が絶えておりますので、死病でございます。

 これがいわゆる五の有余と二の不足であります。

 帝が申された。
 五の有余と二の不足について、もう少し詳しく話してみよ。

 岐伯が申された。
 五の有余と申しますは、一に身体が炭のように熱し、二に首と胸が隔てられたかのように閉塞し、三に人迎の脉は盛んでバタバタと騒がしい感じがし、四に息はあえぐようであり、五に気逆している、この五つのことであります。

 二の不足と申しますは、一つには尿意を感じながらも尿が出ない、二つには手太陰の脉である寸口の脉が、髪の毛のように微細である、この二つのことであります。

 この五つの有余は、外に現れた現象でありまして、二つの不足は、内の精気の不足を示しています。

 これら身体に現れた内外の現象は、陰陽が互いに交流せず、離決しておりますので、まさに死病なのでございます。



 帝が申された。
 生まれながらにして巓疾を病んでいる者がいるが、病名は何であり、どうしてこの病を得ることになったのであろうか。

 岐伯が申された。
 病名は、胎病であります。

 これは胎児が母親の腹中に宿っている時、その母親が何かのことで大いに驚くことがあり、母親の気と共に、胎児の気もまた昇ってしまい、降りることができなくなったためであります。

 さらに母体の気は、胎児を養う腎の精気が昇ってしまい、下焦の胎児を養うことが出来ません。

 従いまして、生まれてきた子もまた、腎の精気が不足し、気が逆しますので巓疾となるのであります。



 帝が申された。

 水気をたっぷりと含んだような浮腫を病んでおり、脉を切して大いに緊であり、しかも身体に痛みが無く、そうかといって痩せるでもないが食べることもできず、食べても少量程度である。これは一体何の病であるのか。

 岐伯が申された。
 病は腎に生じておりますので、腎風と名付けます。

 腎風で食べることができず、しかもちょっとしたことでよく驚き、驚いた後で気が降りずにぐったりとして疲労し、さらに心気が衰え、脉もまた遅く萎えてくるような者は、死亡いたします。

 帝が申された。
 そうであったか、よく理解した。

 原文と読み下し


黄帝問曰.人有重身九月而.此爲何也.
岐伯對曰.胞之絡脉絶也.
黄帝問うて曰く。人に重身なる有りて九月にして(いん)するは、此れ何の爲なるや。
岐伯對して曰く。胞の絡脉絶するなり。

帝曰.何以言之.
岐伯曰.胞絡者.繋於腎.少陰之脉.貫腎繋舌本.故不能言.
帝曰く。何を以てこれを言うや。
岐伯曰く。胞絡なる者は、腎に繋る。少陰の脉、腎を貫き舌本に繋る。故に言うこと能わざるなり。

帝曰.治之奈何.
岐伯曰.
無治也.當十月復.刺法曰.無損不足.益有餘.以成其疹.然後調之.
所謂無損不足者.身羸痩.無用石也.
無益其有餘者.腹中有形而泄之.泄之則精出.而病獨擅中.故曰疹成也.
帝曰く。これを治すこと奈何にせん。
岐伯曰く。
治すこと無きなり。十月に當りて復すべし。刺法に曰く。不足を損い、有餘を益し、以て其の疹を成すことなかれ、然る後これを調うと。
所謂不足を損うこと無かれとは、身羸痩するは、石を用いること無きなり。
其の有餘を益す事無かれとは、腹中に形有りてこれを泄す。これを泄せば則ち精出でて病獨り中に擅(ほしいまま)なり。故に疹成ると曰く。
※疹・・・全身的な病 に意訳

帝曰.病脇下滿氣逆.二三歳不已.是爲何病.
岐伯曰.
病名曰息積.
此不妨於食.不可灸刺.積爲導引.服藥.藥不能獨治也.
帝曰く。病脇下滿ちて氣逆し、二三歳にして已まず。是れ何の病と爲すや。
岐伯曰く。
病名づけて息積と曰く。
此れ食を妨げず。灸刺すべからず。積は導引、服藥を爲す。藥獨り治すこと能わざるなり。

帝曰.人有身體髀股〔月行〕皆腫環齊而痛.是爲何病.
岐伯曰.
病名曰伏梁.
此風根也.其氣溢於大腸.而著於肓.肓之原在齊下.故環齊而痛也.
不可動之.動之爲水溺之病也.
帝曰く。人身體髀股〔月行〕皆腫れ、齊を環りて痛むは、是れ何の病を爲すや。
岐伯曰く。
病名づけて伏梁と曰く。
此れ風根なり。其の氣大腸に溢れ、肓に著く。肓の原は齊下に在り。故に齊をりて痛むなり。
これを動ずべからざるなり。これを動ずれば水溺病と爲すなり。
・・・むなもと、からだの内部の、よく見えない場所

帝曰.人有尺脉數甚.筋急而見.此爲何病.
岐伯曰.此所謂疹筋.是人腹必急.白色黒色見.則病甚.
帝曰く。人の尺脉數なること甚だしく、筋急して見われること有るは、此れ何の病を爲すや。
岐伯曰く.此れ所謂疹筋なり。是の人の腹は必ず急す。白色黒色見われば、則ち病甚だし。


帝曰.人有病頭痛.以數歳不已.此安得之.名爲何病.
岐伯曰.當有所犯大寒.内至骨髓.髓者以腦爲主.腦逆.故令頭痛.齒亦痛.病名曰厥逆.
帝曰善.
帝曰く。人頭痛を病て、以れ數歳にして已まざるもの有り。此れ安んぞにかこれを得ん。名づけて何病と爲すや。
岐伯曰く。當に大寒に犯される所有りて、内は骨髓に至る。髓なる者は腦を以て主と爲す。腦逆す。故に頭痛せしめ、齒もまた痛む。病名づけて厥逆と曰く。
帝曰く。善し。

帝曰.有病口甘者.病名爲何.何以得之.
岐伯曰.
此五氣之溢也.名曰脾
夫五味入口.藏於胃.脾爲之行其精氣.津液在脾.故令人口甘也.
此肥美之所發也.此人必數食甘美而多肥也.肥者令人内熱.甘者令人中滿.故其氣上溢.轉爲消渇.
治之以蘭.除陳氣也.
帝曰く。口苦を病むもの有り。病名づけて何と爲し、何を以てこれを得るや。
岐伯曰く。
此れ五氣の溢れるなり。名づけて脾と曰く。
夫れ五味口に入り、胃に藏す。脾これが爲に其の精氣を行る。津液は脾に在り。故に人をして口甘せしめるるなり。
此れ肥美の發する所なり。此れ人必ず數しば甘美を食して肥多きなり。肥えたる者は人をして内熱せしむ。甘なる者は人をして中滿せしむ。故に其の氣は上溢し、轉じて消渇を爲す。
これを治するは蘭を以て、その陳氣を除くなり。

帝曰.有病口苦.取陽陵泉.口苦者.病名爲何.何以得之.
岐伯曰.
病名曰膽
夫肝者中之將也.取決於膽.咽爲之使.
此人者.數謀慮不決.故膽虚.氣上溢.而口爲之苦.
治之以膽募兪.治在陰陽十二官相使中.
帝曰く。口苦を病むもの有り。陽陵泉を取る。口苦なる者は、病名は何と爲し、何を以てこれを得るや。
岐伯曰く。
病名づけて膽と曰く。
夫れ肝なる者は中の將也なり。膽に決を取る。咽これが使と爲る。
此の人なる者は、數しば謀慮して決せず。故に膽虚し、氣上に溢れ、しかして口これが爲に苦し。
これを治するに膽の募兪を以てす。治は陰陽十二官相使の中に在り。

帝曰.
者.一日數十溲.此不足也.
身熱如炭.頸膺如格.人迎躁盛.喘息氣逆.此有餘也.
太陰脉微細如髮者.此不足也.其病安在.名爲何病.
岐伯曰.病在太陰.其盛在胃.頗在肺.病名曰厥.死不治.此所謂得五有餘.二不足也.
帝曰く。。
なる者有り。一日數十溲するは、此れ不足なり。
身熱すること炭の如し。頸膺格するが如し。人迎躁盛して、喘息氣逆するは、此れ有餘なり。
太陰の脉微細にして髮の如き者は、此れ不足なり。其の病安んぞに在りて、名づけて何病と爲すや。
岐伯曰く。病は太陰にあり。其の盛んなるは胃に在り。頗は肺に在り。病名づけて厥と曰く。死して治せず。此れ所謂五の有餘.二の不足を得るなり。

帝曰.何謂五有餘二不足.
岐伯曰.
所謂五有餘者.五病之氣有餘也.二不足者.亦病氣之不足也.
今外得五有餘.内得二不足.此其身不表不裏.亦正死明矣.
帝曰く。何を五の有餘二の不足と謂うや。
岐伯曰く。
所謂五の有餘なる者は、五病の氣有餘なり。二の不足なる者は、亦た病氣の不足なり。
今外は五の有餘を得、内は二の不足を得る。此れ其の身表ならず裏ならず、亦た正に死すること明らかなり。

帝曰.人生而有病巓疾者.病名曰何.安所得之.
岐伯曰.
病名爲胎病.
此得之在母腹中時.其毋有所大驚.氣上而不下.精氣并居.故令子發爲巓疾也.
帝曰く。人生れて巓疾を病む者有り。病名づけて何と曰く。安んぞの所にこれを得るや。
岐伯曰く。
病名づけて胎病と爲す。
此れ母の腹中に在る時、其の毋大いに驚ろく所有りて、氣上りて下らず、精氣并居するにこれを得る。故に子をして發し、巓疾を爲しむるなり。

帝曰.有病然如有水状.切其脉大緊.身無痛者.形不痩.不能食.食少.名爲何病.
岐伯曰.病生在腎.名爲腎風.腎風而不能食.善驚.驚已心氣痿者死.
帝曰く。善.
帝曰く。病然(ぼうぜん)として水の状有るの如く、其の脉を切して大いに緊。身痛になき者は、形痩せず、食すること能わず、食少きは、名づけて何病と爲すや。
岐伯曰く。病生ずること腎に在り。名づけて腎風と爲す。腎風にして食すること能わず。善く驚し、驚已みて心氣痿する者は死す。
帝曰く。善し。



鍼専門 いおり鍼灸院

病能論篇第四十六.

秋空に似合う花
 表題の「病能」とは、一体いかなるものを指し示しているのであろうかは、いまひとつ筆者には明確に言い切れるものがない。

 本篇内に取り上げられている内科・外科・精神科領域の疾病を通じて、「病態」を把握して治療を施する視点を述べているのであろうか。

 それはさておき、胃袋の廱(よう)とは、現代的にはさしずめ胃潰瘍や胃癌などの腫瘍に相当するのであろう。

 この篇の言わんとすることをくみ取れば、四肢・体感部、呼吸器・消化器の癌や腫瘍全般のものは、鬱した熱が主要因であることがわかる。

 現代では、遺伝子や化学物質、放射能など、様々な外部要因にその原因が求められるが、内部要因に目を注いでいるこの医学の視点は、問題解決に大変有効であり、重要な点であり、現代にかけている点でもあると考える。

 また、厥病では、脈の左右差を取り上げているが、これもまた普遍的なことではなく、一例として捉えるのが良いかとかと思う。

 面白いと感じたのは、躁病などの狂症には、胃の熱こそがその原因であるのだから、絶食させると治まるものであると述べられているところである。

 熱の存在を、体温計でしか認識できない現代医学的視点では、理解不可能であろうと思う。

 筆者の臨床経験では、こってりとした物の過食傾向にあり、外見的には明るく見えても内面が鬱しやすい傾向の人に狂症が生じやすいと考えている。

 



原 文 意 訳

黄帝が問うて申された。
胃袋に廱(よう)ができた人を、どのように診察するのであろうか。

 岐伯がそれに対して申された。
 このようなものを診察するには、先ず胃の脉を診なくてはなりません。その脉は沈で細でありましょう。

 この沈細の脉は、気逆を表現しています。気逆を起こしているものは、人迎が甚だ盛んでありまして、熱があることを示しています。

 人迎は、胃の脉でして気逆して盛んであるということは、熱が胃口に結集して行ることができないので、胃袋に廱を生じるのであります。

 帝が申された。
 なるほど、そうであったか。では、床に就いても、安眠できない人は、どうなのであろうか。

 岐伯が申された。
 臓が障害されているか、もしくは精気が本来帰るべき藏に帰らず、どこかで滞っておりますと安らかな気持ちになれないのであります。

 ですから一般的に、病が治まるかどうか決着がつかないものであります。


 帝が申された。
 仰向けになれないものは、どうなのであろう。

 岐伯が申された。
 肺と申しますは、最も高いところに位置し、いわば臓の蓋のようなものであります。

 そこで肺気が盛んとなりますと脉は大となります。肺の脉が大となりますと、仰向けになることができないのであります。これに関する論は、「奇恒陰」篇にあります。


 帝が申された。
 厥を病む者の脉を診ると、右脉が沈にして緊、左脉が浮にして遅である。この場合、病の中心がどこにあるのかが、分からないのであるが。

 岐伯が申された。
 冬に右脉は沈緊であるのを診るのは、これは四時に応じた正常な脈であります。

 ところが左脉が浮遅でありますのは、四時に応じていないことを現しています。

 この左脉が表現していることは、病んでいるのは腎にあり、脉の左右差が生じている原因は肺にありますので、腰が痛むのであります。


 帝が申された。
 何をもってそのように申されるのか。

 岐伯が申された。
 少陰の脉は、腎を貫いて肺を絡っております。今、浮遅の脉は肺の脉ですので、腎はこのために病むこととなったのであります。従いまして腎の府であります腰が痛むのであります。


 帝が申された。
 なるほど、よく分かった。では、首に廱を生じた者に、石用いる場合と鍼灸を用いる場合とがあるが、それぞれ皆治っている。この両者に共通する真理はどこにあるのであろうか。

 岐伯が申された。
 これは同じ廱であっても、病態が異なるためであります。

 廱気の初期であれば鍼で患部を開いて気を漏らしてやれば良いのであります。ところがいよいよ廱気が盛んとなり、血もまた聚り、熱と膿をもって腫れあがってまいりますと、石を用いてこれを切開して取り去らなくてはなりません。

 これが同じ廱という名の病であり、病因が同じであっても、病態の程度によって治療方法が異なるゆえんであります。


 帝が申された。
 むやみやたらと怒り狂う病があるが、これはどこから生じるのであろうか。

 岐伯が申された。
 これは陽の異常から生じるのであります。

 帝が申された。
 どうして陽気が異常となって人を狂わすのであろう。

 岐伯が申された。
 陽気と申しますは、人を動かす原動力であります。時に突然行動の自由を奪われたり、志が折れるようなことがありますと、唖然としてしまい、発すべき陽気が停滞してしまいます。

 従いまして陽気が鬱積して人をよく怒らせしめるのであります。この病は、陽厥と申します。


 帝が申された。
 何をもって陽厥であることが分かるのであろう。

 岐伯が申された。
 陽明の脉は元来、陽気が強く常に拍動を取ることができます。ところが太陽と少陽の脉は、通常は拍動していないはずのものが、拍動を取ることができ、しかも速い場合は、陽厥の徴候として知ることができるのであります。


 帝が申された。
 この病を治すには、どのようにすれば良いのか。

 岐伯が申された。
 絶食させると、即治まります。飲食物は陰に入り、穀気は陽気を助長いたします。ですから絶食させると、即治まるのであります。

 その上で重く引き下げる作用のある生の鉄洛を服用させますと、猛々しい陽気は下り、落ち着くようになります。


 帝が申された。
 なるほど、よく分かった。身体が熱して力が抜けたかのように脱力し、入浴したかのように発汗し、そのうえ悪風がして息切れするのは、何という病であろうか。

 岐伯が申された。
 病名は、酒風と申します。

 帝が申された。
 この病を治すには、どのようにすれば良いのか。

 岐伯が申された。
 沢瀉と白朮、各十分と麋銜(びかん)五分とを搗き合わせ、手の三指でつまみ、食後に服用させるのであります。

 ※以下、錯簡との説

 いわゆる深く案じて細なる脉は、手の中の鍼のようである。これを按じ撫でても気が聚まったままで堅く、強く伝わってくるのは大脈である。
 「上経」は、人の気は天に通じて合一であることを述べたものである。
 「下経」は、病の変化を説いたものである。
 「金匱」は、生きる病であるか死に病であるかを診断する書である。
 「揆度」は、脈診について説かれた書である。
 「奇恒」は、一般的病とそうでないものについて、説いた書である。
 いわゆる奇とは、四時の気に関係なく死する病である。
 恒とは常のことであり、四季の気に応じて死する病のことである。
 いわゆる揆とは、まさに切診であり、その脉が現す脉理を説くものである。
 度とは、その病を得た病理を、四時を基準として診断することを説いたものである。





原文と読み下し


黄帝問曰.人病胃癰者.診當何如.
岐伯對曰.
診此者.當候胃脉.其脉當沈細.沈細者氣逆.逆者人迎甚盛.甚盛則熱.
人迎者.胃脉也.逆而盛.則熱聚於胃口而不行.故胃爲癰也.
黄帝問うて曰く。人胃の癰を病む者、診するに當にいかなるべきか。
岐伯對して曰く。
此れを診する者は、當に胃の脉を候うべし。其の脉當に沈細たるべし。沈細なる者は氣逆す。逆する者は人迎甚だ盛んなり。甚だ盛んなれば則ち熱す。
人迎なる者は、胃の脉なり。逆して盛んなれば、則ち熱胃口に聚りて行(めぐ)らず。故に胃に癰を爲すなり。

帝曰、善.人有臥而有所不安者.何也.
岐伯曰.藏有所傷.及精有所之寄則※不安.故人不能懸其病也.
帝曰く。善し。人臥して安ぜざる所有る者有るは、なんなるや。
岐伯曰く。藏傷れる所有り、及び精之(ゆ)き寄る所有れば則ち安ぜず。故に人其の病を懸(かけ)ること能わざるなり。

※甲乙経、太素に倣い、安を不安に作る。
帝曰.人之不得偃臥者.何也.
岐伯曰.肺者.藏之蓋也.肺氣盛則脉大.脉大則不得偃臥.論在奇恒陰陽中.
帝曰く。人の偃臥(えんが)を得ざる者は、何なるや。
岐伯曰く。肺なる者は、藏の蓋なり。肺氣盛んなれば則ち脉大なり。脉大なれば則ち偃臥を得ず。論は奇恒陰陽中に在り。
 
帝曰.有病厥者.診右脉沈而緊.左脉浮而遲.不知(然).病主安在.
岐伯曰.冬診之.右脉固當沈緊.此應四時.左脉浮而遲.此逆四時.在左當主病在腎.頗關在肺.當腰痛也.
帝曰く。厥を病む者有り。診するに右脉は沈にして緊。左脉は浮にして遲。病は主として安(いずく)んぞに在るやを知らず。
岐伯曰く。冬これを診すれば、右脉は固(もと)より當に沈緊たるべし。此れ四時に應ず。左脉の浮にして遲なるは、此れ四時に逆す。左に在るは當に主なる病は腎に在りて、頗關(はかん)は肺に在るべし。當に腰痛むべきなり。

※甲乙経に倣い、然を知に作る。

帝曰.何以言之.
岐伯曰.少陰脉.貫腎絡肺.今得肺脉.腎爲之病.故腎爲腰痛之病也.
帝曰く。何を以てこれを言うや。
岐伯曰く。少陰の脉、腎を貫き肺を絡う。今肺脉を得たり。腎これが爲に病む。故に腎は腰痛の病を爲すなり。

帝曰善.有病頸癰者.或石治之.或鍼灸治之.而皆已.其眞安在.
岐伯曰.此同名異等者也.夫癰氣之息者.宜以鍼開除去之.夫氣盛血聚者.宜石而寫之.此所謂同病異治也.
帝曰く。善し。頸癰を病む者有り。或いは石にてこれを治し、或いは鍼灸にてこれを治す。しかして皆已む。其の眞は安(いずくんぞ)にか在るや。
岐伯曰く。此れ名を同じくして異等の者なり。夫れ癰氣の息なる者は、鍼を以て開除してこれを去るに宜し。夫れ氣盛んにして血聚る者は、石にてこれを寫すに宜し。此れ所謂同病にして治を異にするなり。

帝曰.有病怒狂者.此病安生.
岐伯曰.生於陽也.
帝曰.有病怒狂者.此病安生.
岐伯曰く。生於陽也.

帝曰.陽何以使人狂.
岐伯曰.陽氣者因暴折而難決.故善怒也.病名曰陽厥.
帝曰く。陽何以使人狂.
岐伯曰く。陽氣者因暴折而難決.故善怒也.病名曰陽厥.

帝曰.何以知之.
岐伯曰.陽明者常動.巨陽少陽不動.不動而動大疾.此其候也.
帝曰く。何以知之.
岐伯曰く。陽明者常動.巨陽少陽不動.不動而動大疾.此其候也.

帝曰.治之奈何.
岐伯曰.奪其食即已.夫食入於陰.長氣於陽.故奪其食即已.使之服以生鐵洛爲飮.夫生鐵洛者.下氣疾也.
帝曰く。治之奈何.
岐伯曰く。奪其食即已.夫食入於陰.長氣於陽.故奪其食即已.使之服以生鐵洛爲飮.夫生鐵洛者.下氣疾也.

帝曰善.有病身熱解墮.汗出如浴.惡風少氣.此爲何病.
岐伯曰.病名曰酒風.
帝曰く。善.有病身熱解墮.汗出如浴.惡風少氣.此爲何病.
岐伯曰く。病名曰く、酒風.

帝曰.治之奈何.
岐伯曰.以澤瀉朮各十分.麋銜五分合.以三指撮爲後飯.
帝曰く。治之奈何.
岐伯曰く。以澤瀉朮各十分.麋銜(びかん)五分合.三指を以て撮(つま)み後飯に爲す。

※麋銜 張景岳説 一名無心草 南人は天風草

所謂深之細者.其中手如鍼也.摩之切之.聚者堅也.愽者大也.
上經者.言氣之通天也.
下經者.言病之變化也.
金匱者.決死生也.
揆度者.切度之也.
奇恒者.言奇病也.
所謂深之細者.其中手如鍼也.摩之切之.聚者堅也.愽者大也.
上經者.言氣之通天也.
下經者.言病之變化也.
金匱者.決死生也.
揆度者.切度之也.
奇恒者.言奇病也.

所謂
奇者.使奇病不得以四時死也.
恒者.得以四時死也.
所謂揆者.方切求之也.言切求其脉理也.
度者.得其病處.以四時度之也.
所謂
奇者.使奇病不得以四時死也.
恒者.得以四時死也.
所謂揆者.方切求之也.言切求其脉理也.
度者.得其病處.以四時度之也.



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