鍼灸医学の懐

主に黄帝内経の意訳と解説 最後に原文と読み下しを記しています。その他、随時古典資料を追加しています。

脉 論

 本文は、近世漢方医学書集成18・19の「叢桂亭医事小言」(1)(2)を底本としたもので、できるだけ原書に忠実であるよう努めながら、以下のように改めてテキスト化したものである。

  

  1.原文中のカタカナを平仮名に書き換え、現代語に近くなるようにした。

  2.おくりがなは、現代文に通じるように改めた。

  3. 原文中の漢文は、読み下し文に改めた。

  4.文集のカタカナのルビは原文の記載をそのまま記載した。

  5.筆者ルビは、ひらがなで記載した。

  6.句点は、筆者の読みやすき所に置いた。

  7.本文中の引用箇所は、筆者がこれを追記し括弧でくくって表記した。

 

 脉 論  

 

 脈は医門の大綱にて死生吉凶を決するの根本なり。即ち四診の切の字なり。必ず病状を知るの具に非ず。素問難経に其の論詳(つまびら)かなれば熟読して知るべし。

 去りながら悪く泥めば一向に役に立たず。脈は至って初学には知れかねるものなり。猶更知れぬものと云う心得にて見ては更に用に立たずと云うほどの事なり。 

 

 素問に脈の動静を切し、精明を視て、五色を察し、五臓の有余不足六府の強弱形の盛衰を観て、此れを以て参伍して死生の分を決すと。(素問・脉要精微論)

 又云う治の要極は色脈を失すること無し。之を用いて惑わざるは治の大則なりと云うにて考えれば、必ず脈許(バカリ)にて察するものに限らず、脈と外候を参考して死生は決するものと知るべし。 

 

 さて四季の脈は弦鉤毛石と四つなれども、初学の人にて知れることに非ず。況んや二十四脈に至ては益々繁くて並々のことに非ず。

 古人も夫れ故、七表八裏を分け、或いは六脈を以て平日の用に立てるの説なれども、つまる処が指三本の下にて一皮かむりてあるものを探るなれば、知りがたきも尤なり。

 脈を取る専要と云うは、胃の気を候うが専一なり。胃の気なければ弦鉤毛石も浮沈遅数滑濇も死脈となる。

 素問に云う平人の常気は胃に稟く。胃は平人の常気なり。人に胃気無きを逆と曰く。逆なる者は死す。(素問・平人気象論)

何れにも胃の気たしかなれば、なかなか病人が急に死するものにてなし。 

 

 さて其の胃の気と云うは形はなし。四季の脈は弦鉤毛石と皆形をとけり。六脈も浮沈遅数滑濇と皆形状あり。されども胃の気なければ死脈なり。さすれば胃の気と云うは形のなきものと云うこと知るべし。

 如何様(いかよう)の脈にても胃の気が大切の見処なり。死生を決するの要務にして精神を指下に用いて脈を診すべし。何れにも脈を候(ウカガイ) たきほど取りて、指を重くして骨に至る。是を難経にて腎脈の部とす。

 夫れを今一つ押してみれば、尺部に押し切られても関か寸の部に脈がひびく、是を胃気の脈と云う。脈の形は何れにもせよ押し切られて脈の通ぜざるが胃気なしとす。

 是脈力の無きにて脈力は元気の粋なり。乃ち胃気と称するものなり。其の脈の胃気なきは猶更長病人ならば油断はならず。如何ほど病勢強く見ゆるとも、胃気があらば手段は尽たると云うべからず。

 さて是も功を積まねば胃気があるようにても無きこともあり、無きようにても有ることも有り。

 平日心を深く用いて平人の脈にて取り覚えるべし。是先君子、清漣先生の教えを奉ずる所にて、今に至りて多試多験なり。脾脈と云うも胃気のことなり。脾胃ともに一同に論じてある。 

 

  難経に云う呼は心、肺とに出る。吸は腎、肝とに入る。呼吸の間、脾は穀味を受けるなり。其の脈、中に在りと云うを見て、一呼再動、一吸再動、呼吸定息脈五動、閏するに大息を以てする(素問・平人氣象論篇)の大息を、中に在りと云う字面へかけて、脾の候なりと云うは悪しし。

 既に四臓は皆形を説き末に至りて脾は中州故、其の脈中に在りと云うにて、大息のことにて無きことを知るべし。

 又十五難に脾は中州なり。其の平和は得て見るべからず。衰はすなわち見るのみ。是大息のことに非ず。又常に形のなきことも考え知るべし。来ること雀の 喙(ツイバム) が如く、水の下漏(モレル)が如く、是脾の衰るの見(アラワ)るるなり。

 是脈のきざみ、一つ一つに切れて続かざるの形なり。胃気あるは何ほど押し切りても押し切れぬ故、一つ一つになることなし。雀(スズメ)の喙すると水の漏(モリ)たるようにはならず。是胃の気のなき故なることを知るべし。

 さて又胃気の脈は和緩なるを指して云うなど云いし人もあり。又素問に四季の脈へ微の字を帯びて論じてある處もあれども、是は別に説あることなり。事なかければ爰(ここ)に論ぜず。兎角胃の気の脈に形はなし。

 素問にも帝曰く、脾の善悪は得て見るべきや。岐伯曰く、善なる者は得て見るべからず。悪なる者は見るべし(素問・玉機真蔵論)と形のなきこと考え知るべし。 

 

 脈に打ち切れと云うありて、素人も知りて恐がる。去(さ)りながら一通りの打ち切れて死ぬものに非ず。積のある人か老人の血液燥枯して、うるおいのなき人には常にあることなり。脈許りにてもなし、一身の動気が一様に打ち切れるなり。

 成る程いやなることなり。然れども驚くことにあらず。是は結脈とも促脈とも云う。結は緩脈の打切りなり、促は数脈の打切りなり。死脈に非ず。

 難経には五十動にて一止するは一臓のかけたるとあれども、今病人を診るに、五、六動にて一止するか、七、八動、或いは一、二動にて一止するもの多し。

 難経の説なれば五臓の気皆尽くしたりと云う所なれども、必ず病人死するに限らず。 

 又今時の医者は五十動を診するほどは脈を取りて居らず。握ると思うと直に放す。夫れ故七、八動の打ち切れも見つけぬことあり。

 真の打ち切れは古に代脈と云うものなり。代の字義によりて考えれば、かわると云う意なるべし。数脈が一止すると急に遅脈になり、大脈が一止すると乍ち細脈になるの類なるべし。是は大病人には折々有る事なり。是こそ死にちかきと知るべし。

 されども傷寒論に云う代脈と云うにはかなわず、是は文にわけのあるなるべし。初学の人、打ち切れに驚きて療治に臆することあり。よくよく心得べし。 

 

  三部にて病状を診得(ウカガイウ)るの法は、関前寸部より脈の形すすんで魚際へのぼるほどに見ゆるは、上衝頭痛眼疾耳鳴眩暈の類とす。

 関部にわるく力があるか、脈のきさみ(刻み)か知りかねるの類は腹部のしつらいとなす。尺部の脈に力ばかりて尻はりなるは腰脚足脛の病となす。左右は左右を分ける。是に心を用いて候学(ウカガイマナヒ)は大概はわかるものなり。 

 

 近来の流行にて、脈などの事に骨を折れるは見識の無きように成りたるは、古方家以来の幣なるべし。初学の輩は精神をこらして工夫をなすべし。

 されども脈ばかりみて他候にかまわぬ医者あり。夫れでも知れるならば勿論なれども恐らくは知れかねるならん。余は参伍しても洞見することならず。また前条に引証する通り、素問の診法にそむけり。 

 脈の虚脱して取りにくく様子(ヨウス)も衰えて何から見ても大病と知れるあり。病人は一向のこと指して工夫も入らず。

 只恐るべきものは数脈なり。急卒の病に至りて数ならば油断(ユダン)はならず。小児は勿論なり。驚証などになること数脈より変ず。大人とても数の甚だしきは急変を生ずることあり。

 得と胃気を候い外候へも参伍すべし。新病旧病の差別なし。去りながら熱あればいつにても数脈は表わすものなれば、よくよく精神を用いて取り得べし。さまでもなき熱を臆して治しそこねぬ心得すべし。又平日無病の人にて数脈なるは労瘵の催しなるもの多し。 

 

 脈衰えて長病急病の別なく、頻りに大被を重く覚えて覆することならず。薄着にて臥することを好むは大切なり。極めて胃気を候すべし。絶えて有るもの多し。外見はよくとも油断すべからず。

 又肌は冷めて居ながら甚だ熱を覚えて、昼夜衣被(きぬかずき)を発開し覆することならぬものあり。冷汗などあり、四肢微冷する類、傷寒論の病人身大熱し反って衣を近づけんと欲するは、熱皮膚に在り、寒骨髄に在るなり。身大寒し反って衣を近づけんと欲せざるは、寒皮膚に在り、熱骨髄に在るなりと有れども後人の論説と見ゆる。仮寒真熱、仮熱真寒と医籍にあり。(傷寒論・11条)

 ※衣被(きぬかずき)・・・単衣(ひとえ)の小袖(こそで)を頭からかぶったもの。

 又活人書(傷寒活人書)に先ず陽旦湯を与へ、後に小柴胡を与ふ。先ず白虎を与へ、次に桂麻各半湯を与ふるの説は空理を以て論じたるなり。是極虚の候にて長病の老人、小児の痢後、死に近しなどに多し。虚熱陰火などとも云うべきなり。脈形悪きは猶更なり。指を屈し死を期する悪候なり。 

 ※陽旦湯・・・桂枝湯のこと

 脈と証と合わせぬは凶兆なれども、一定の看法に仕がたし。悪証にても脈よりとりすがりて療治することあり。此の時は証脈の合わせぬを佳とす。又脈は悪けれども病形よろしき故、一手段つけて治すること日用の事なり。定法とすべからず。取捨に巧拙の入る所なり。